カラスの独り言

ありのままに生きてみた。

 「浄土から生まれて、浄土に帰る」「ありのまま」。この言葉だけ取り上げれば、この世は極楽浄土。何の苦労も生死の苦悩の解決もしない人間だけの御都合主義の理想主義。

 自身の根源に目を向けず自身の都合に合わせて無批判に受け入れているただのありのままで何ともない。救い宗教もいらない、ただのありがた屋。

 地獄から生まれて地獄に帰る。

 その中から浄土を知って浄土に帰ることを信じて生きることがありのままの宗教観だ。

 地獄を知らず持たずはただの人間理想主義。ここだけ言われりゃこれは最初っから言っている人はあの世で生きている人になる。
 
 それを親鸞は主観的な理想に酔った状態の信仰で迷妄なる信仰の不徹底として厳しく辺地懈慢世界である20願の難思往生として厳しく批判している。

 本当の「ありのまま」とか浄土から云々は真実のなんまんだぶつとともに生きること。

 強烈な煩悩本能が蠢く凡人はそうでもしないと、ありのままの真実さえも煩悩の虜にしちまうからな。

 仏様の目から見た自然と私がどうあらがうのが本物のありのままなんだ。
 こんなことを考えずに一生懸命に仕事したり、畑で農作業などをして意識しない自分に後で気が付くことがありのままでもいいのかな。

 なんまんだ。

 

歓喜の歌が聞こえてくるよ。

 記憶力とか理性的で論理的。理路整然と相手を打ち負かすような人は仏さまに嫌われている。

 私のようなアホだけが好かれているのかというとそうでもない。

 我らのごとく記憶力という力、聞く力、話す力、覚える力、考える力が弱いものでも、無明煩悩しげく罪悪深く重い者こそ、一層の寵愛がかかっているのだという。

 世間の価値観と真逆だが、人間の根本の無明という闇が晴れれば同じ世界に生まれることができると見ているあみだ様のご思惟があるからだ。
 唯一絶対的に力強い超越的な存在の、猪口才な人間のさまざまに醸し出す相対的な力など屁とも思わぬ阿弥陀仏こそ我らをもっとも信じ愛し敬してくれている宇宙の最高権力者なのだ。

 もう、何者も恐れることはない。

 ここにおいて我らは真の平等と自由を勝利することができる世界がこの世において与えられたのだ。

 もう、劣等感に悩むことはない。ただ口になむあみだぶつと称えるだけで、その絶対世界は我らの眼前に公開されてくる。喜べ。罪悪深重の凡夫人よ。ここに歓喜せよ。その声が聞こえてくるのは私一人だけではあるまいに。

 なんまんだ。

苦しみが大好きな私たち。

 人の五感からすれば、遠くから聞こえないような声で私たちを呼んでいるようなあみだの念仏でも、仏の方からすれば、いつでも私一人の耳元で呼びかけている念仏なのだ。

 今ここにある真実に目覚めよという仏からの呼び声なのだ。誰にもいまだ届いていないような念仏のように思われるが、信じた人にはすでに聞こえているのだ。

 耳をふさいでいるのは自分自身の新しい世界、真実の世界に目を開きたくない、聞きたくないという苦悩から逃れたいのに苦悩を盾に真実に出会いたくないと思っている矛盾した私の心からなのだ。

 わが身の真実をひたすら恐れている自分自身の深刻な生死の苦悩から離れさせまいとしている我が両手だけなのだ。

 しかし、その矛盾した心を知っていながら、その手をきっと放す時が来ると信じてあみだがいつまでも待っていて下さるのだ。助かりたいのに助かりたくないというその苦しい矛盾した心を持ちながらその人生がそのままでいいのなら、と。
なんまんだ。

大谷翔平と同じになれるのだ。

 
 人には天から与えられた限界があるようだ。私は大谷翔平にはなれないし彼もそうだ。

 限界を知ることは至難の業だが、知れば人生を過ごしやすくなる。

 生まれた時から不平等に見える限界だが、あみだだけはその限界や文言を超え包みながら人間全部と命あるものすべてを平等に仏になるという個々の限界を超えた過分なる平等と自由と愛の精神を念仏一つで与えてくれるという。

 その恩恵に浴すればすべての人が限界の過不足にあえぐ我々でも過分なる恩恵を平等に受けることができるようになっている。

 人間が作った限界のある知恵と愛の心ではなく、あみだという真理が生み出した真実の智慧と慈悲だから、誰でも言いいや分限を超えた仏という絶対平等の過分の身になれるのである。
 ここでやっと大谷翔平も俺と同じになれるのだ。なんまんだ。
 

極最速絶対救済方法は時と所を問わないなんまんだ。

 心と体に自然の静寂と自然を取り戻すためSNS離れが流行っている。毎日、目も、耳も、体も、心までもが情報に奪われている。

 心のどこを取られているのか。一部か全部か。獲られたら取り返せるものなのか。

 どうせ取られるものなら取られてしまうのだろう。絶対に獲られない仏の命もこのままだと本能煩悩を商業主義という世俗主義に強烈に絡めとられ忘却させられるという方法でやがて衰退するに違いない。

 この深刻な精神状況からいつでも、だれでも今すぐ真の主体を誰でも回復できる、座禅・瞑想マインドフルネスより早い最後の頼みのあみだ様の念仏一つだけになってしまったな。

 なんまんだ。

お天頭様有難う。

 
「太陽じゃない。お天道様と言いなさい」

 太陽光を活用しよう。太陽は核融合反応のエネルギー資源の塊だ。銀河系の中心の恒星だ。

 これだけ太陽から人間様が長い歴史の先代から直接間接大いなる命への恵みを受けておきながら、義理も人情もヘッタクレもなくいいんですか。

 一日照らしてくれないと、命はみんな死んじまう。日がささないで恐竜は死滅した。植物は今まで何億万年と生きては来られなかったに違いない。

 お天道様はすべての命を育む母親だ。悪いことをしたらお天道様の下を歩けない。正義の味方だ、裁判官だ。弁護士だ。三権の長だ。国連だ。みんなが崇める最高の権力者。

 それを蛍ほども輝けない人間どもがただのエネルギーの活用開発だといいのける。40億年ただでこれほど世話になりながら、まるでいいとこ取りの無法者の所業だな。

 春の暖かい日差しを浴びて気持ちがいいなら、少しは当たり前ではなく「有難う」とか一言ぐらい心に浮かぶ人間らしい、全人格的な表現で畏敬の念を表すことが自然な態度だと思います。

 「太陽」、「sun」などと冷たい客観的な言葉ではなくて、愛している人を愛しい名前で呼ぶように。「太陽」などと人ごとのように言わないで愛情込めて「お天道様」と言いましょう。

 そして、生きているときは両親じいちゃん、ばあちゃん、ご先祖様までお世話になりました。の一言でも言って人間らしく死にましょう。お天道様今日もありがとうございます。今日もお陰様でPERFECTDAY。

なんまんだ。

今日も行く行く念仏丸が。

 弥陀の願船が浄土から娑婆の港でみんなが乗るのを待っている。
 ちっちゃな船だと思っていたが、人生で初めて乗る船だからちょっと勇気を出して乗ったら結構混んでいた。

 飲めや歌えの大騒ぎをしている人は誰もいなくて、みんなで一斉に念仏していたよ。

 念仏すればするほど速力上がり、行く手の景色も美しい。私の過去世や未来世がよく見えて、まるで汽車の窓から、過行く景色を見ているようだ。

 西へ西へと煩悩の黒煙上げながら、なんまんだの船が行く。
 気づけばみんな乗っている。なんまんだぶなんまんだ。
 今日も行く行く念仏丸が娑婆を行く。

 なんまんだ。

信じられない時に。

 
 信じるとは相手を信じることが先にあるのではなく、自己を信じられるほどに信じられる自分になっているのかという事だ。

 信じる心を徹底してゆけば、やがて行き詰まり、虚しい自己愛に変わる。

 たとえば、仏を信じるとき、私の心のほうが変わらぬものと信じていたが、むしろ仏のほうから信じられていたほうが変わらぬ信だと気が付くようなものです。

 仏の絶対信を知って初めて自己の相対信に気が付いたとき、相手を信ずることも自信を信ずることも相対的ながら、それらは絶対心に近づくための大切な相対的な信と気が付くことが本当に相手を信じるという事になるのだということです。 
 なんまんだ。

いつまでも素足のままのアミダさま。

 いつも裸足のあみだ様。いつも大地をしっかり踏んでいる。

 あまりに私の所業が悲しくて、お浄土にいてもたってもいられずに、み足を一歩も半歩も踏み出して、この世とあの世に足がかり。

 お釈迦様の両足尊が歩むとき、その地に平和が訪れる。

 あみだ様もその心を継いで、この世に平和を広めようと、一歩足を踏み出しなんまんだ仏と呼びかけた。

 右足浄土で、左足はこの世。いまも一人一人に難波歩きで力強く一人一人に向かってござる。

 自身は悟りを開いて助かっているのにまた人助け。

 覚りとは厄介なものだ、世界中の最後の一人が救われるまで歩みをやめぬ。無量無数が救われるまで一歩踏み出した御足は歩みをやめぬ。

 この私が救われるまで、宇宙の果てまで追いかける。

 なんまんだ。

 煩悩と敵を敵としないで仲間にする親鸞とワンピース。

 ブッダは覚った後で魔族を「帰伏」したと大経にある。全滅させた、ではなく平伏させただけで、仲間にしたともとれるのである。

 漫画「one piece」では敵をやがて仲間にしているとか。親鸞の「煩悩即菩提」「証知生死即涅槃」の教学解釈は難しいが、地獄を恐れる心が地獄を作るという安田理深師の言葉にあるように、仏を妨げる最大の敵を敵にしないこと、ともに仏になってゆく仲間としてみてゆく信心の知見を獲得すれば、このような世界が開かれてくるのだろうと思います。

 親鸞の信心意識もブッダの悟り意識も、ともに同質で煩悩の心をくみ取りながら涅槃の世界に向かってゆくことがいま「帰伏」の意味であろうと思うのです。煩悩とともに悟りを深めてゆくことが宗教心に目覚めた者の真の実践生活になってゆくのだと思います。煩悩よ今日も一日ありがとう。といえる日までは仏敵なんだ。そうなんだ。
なんまんだ。
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