信じられない時に。

 
 信じるとは相手を信じることが先にあるのではなく、自己を信じられるほどに信じられる自分になっているのかという事だ。

 信じる心を徹底してゆけば、やがて行き詰まり、虚しい自己愛に変わる。

 たとえば、仏を信じるとき、私の心のほうが変わらぬものと信じていたが、むしろ仏のほうから信じられていたほうが変わらぬ信だと気が付くようなものです。

 仏の絶対信を知って初めて自己の相対信に気が付いたとき、相手を信ずることも自信を信ずることも相対的ながら、それらは絶対心に近づくための大切な相対的な信と気が付くことが本当に相手を信じるという事になるのだということです。 
 なんまんだ。

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