トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。
映画「パ―フェクト・ディズ」。トイレは汚い、臭い、見たくない所。人間を昔から糞袋と言う人もいる。
命を殺した証拠がおトイレだ。
トイレと言えばきれいに聞こえるけれど。
人間は命を殺し続ける殺し屋だ。
死ぬまで続く生涯現役の悪名一代罪悪深重の凡夫だな。
出してしまえばジャーと流して、汚い臭いとおさらばで、何も食ったり殺したりしておりません無罪放免と毎日毎回思って、はい、お終の繰り返し。
自分が作った人間と同じ平等な命への罪を自覚する大事な場所になっているはずなのに。その場で一言、謝罪と感謝の言葉一つあってもいいのでは。
念仏の篤信者であった山口県に生まれ80歳で亡くなった河村ふでさんはトイレから出る時かならず糞尿に合掌念仏していたそうだ。
世の高学歴高収入のインテリと違う世界にいる宇宙人なのか。
庭の草をむしるたびに「すまんのう・すまんのう」と言っていたそうだ。
人間の恥部の根底には無明常夜の末那識があり、これが仏の教えを正しく聞くことを妨げていると唯識の本に書いていた。
その底にある人間の真実の悟りの心が信心だけど、そこに光が当たるにはこの明るさを嫌う闇が晴れぬと届かないように心の構造はできているようだ。
また「ないものを欲しがらんで、あるものを喜ぼうよな」と言う言葉もある。
これはまるで平山がないものを欲しがって生きてきた今までの心の生活の全部のとどのつまりが、心から満足できるようなものではなく、その苦悩がまるで餓鬼地獄であると深い実存に目覚めたのだと思うのです。
そこから今までの生活すべてを投げ捨ててでも「あるものを喜ばせてもらおうよのう」という宗教的な満足感を得た生活に変わっていった姿が、毎日のごく平凡だけれども一期一会の生活になっていったのだろうと思うのです。
ふでさんはすでにご信心と言うアミダさんからもらった真の智慧と慈悲のまなこで自分と世の中が見えるようになった人です。
その眼で我が身から出てくる糞尿は、この身今生、仏の教えに遇うまで死んでいってくれた数多くの命達の真心の形と拝むことが出来た人なんだろう。
だから便所はトイレはそれらの仏様からもらった命達との最後の別れの現場になっていたのだな。
神聖な場所になっていたんだな。
みんなの命の悲しみや痛みを再確認するための懺悔の神殿にもなっていたに違いない。
命を死ぬまで奪い続ける自己責任を取らねばならぬ。
だから、そんな神聖な場所を平山は尊い場所として一生懸命に命に讃歌を捧げるために真剣に磨き上げていたに違いないのです。
命の仏たちとの最後の出会たる感謝と懴悔の修練道場と平山は恐らく自然に思っていたに違いないのです。
なんまんだ。
命を殺した証拠がおトイレだ。
トイレと言えばきれいに聞こえるけれど。
人間は命を殺し続ける殺し屋だ。
死ぬまで続く生涯現役の悪名一代罪悪深重の凡夫だな。
出してしまえばジャーと流して、汚い臭いとおさらばで、何も食ったり殺したりしておりません無罪放免と毎日毎回思って、はい、お終の繰り返し。
自分が作った人間と同じ平等な命への罪を自覚する大事な場所になっているはずなのに。その場で一言、謝罪と感謝の言葉一つあってもいいのでは。
念仏の篤信者であった山口県に生まれ80歳で亡くなった河村ふでさんはトイレから出る時かならず糞尿に合掌念仏していたそうだ。
世の高学歴高収入のインテリと違う世界にいる宇宙人なのか。
庭の草をむしるたびに「すまんのう・すまんのう」と言っていたそうだ。
人間の恥部の根底には無明常夜の末那識があり、これが仏の教えを正しく聞くことを妨げていると唯識の本に書いていた。
その底にある人間の真実の悟りの心が信心だけど、そこに光が当たるにはこの明るさを嫌う闇が晴れぬと届かないように心の構造はできているようだ。
また「ないものを欲しがらんで、あるものを喜ぼうよな」と言う言葉もある。
これはまるで平山がないものを欲しがって生きてきた今までの心の生活の全部のとどのつまりが、心から満足できるようなものではなく、その苦悩がまるで餓鬼地獄であると深い実存に目覚めたのだと思うのです。
そこから今までの生活すべてを投げ捨ててでも「あるものを喜ばせてもらおうよのう」という宗教的な満足感を得た生活に変わっていった姿が、毎日のごく平凡だけれども一期一会の生活になっていったのだろうと思うのです。
ふでさんはすでにご信心と言うアミダさんからもらった真の智慧と慈悲のまなこで自分と世の中が見えるようになった人です。
その眼で我が身から出てくる糞尿は、この身今生、仏の教えに遇うまで死んでいってくれた数多くの命達の真心の形と拝むことが出来た人なんだろう。
だから便所はトイレはそれらの仏様からもらった命達との最後の別れの現場になっていたのだな。
神聖な場所になっていたんだな。
みんなの命の悲しみや痛みを再確認するための懺悔の神殿にもなっていたに違いない。
命を死ぬまで奪い続ける自己責任を取らねばならぬ。
だから、そんな神聖な場所を平山は尊い場所として一生懸命に命に讃歌を捧げるために真剣に磨き上げていたに違いないのです。
命の仏たちとの最後の出会たる感謝と懴悔の修練道場と平山は恐らく自然に思っていたに違いないのです。
なんまんだ。
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