ありのままに生きてみた。

 「浄土から生まれて、浄土に帰る」「ありのまま」。この言葉だけ取り上げれば、この世は極楽浄土。何の苦労も生死の苦悩の解決もしない人間だけの御都合主義の理想主義。

 自身の根源に目を向けず自身の都合に合わせて無批判に受け入れているただのありのままで何ともない。救い宗教もいらない、ただのありがた屋。

 地獄から生まれて地獄に帰る。

 その中から浄土を知って浄土に帰ることを信じて生きることがありのままの宗教観だ。

 地獄を知らず持たずはただの人間理想主義。ここだけ言われりゃこれは最初っから言っている人はあの世で生きている人になる。
 
 それを親鸞は主観的な理想に酔った状態の信仰で迷妄なる信仰の不徹底として厳しく辺地懈慢世界である20願の難思往生として厳しく批判している。

 本当の「ありのまま」とか浄土から云々は真実のなんまんだぶつとともに生きること。

 強烈な煩悩本能が蠢く凡人はそうでもしないと、ありのままの真実さえも煩悩の虜にしちまうからな。

 仏様の目から見た自然と私がどうあらがうのが本物のありのままなんだ。
 こんなことを考えずに一生懸命に仕事したり、畑で農作業などをして意識しない自分に後で気が付くことがありのままでもいいのかな。

 なんまんだ。

 

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