カラスの独り言

念仏の矢が当たらない。

 
 阿弥陀如来の放った念仏の矢が、わが胸を射抜くまで如来の直言を聞き抜いてゆかねば何も聞こえてこないままここに死ぬばかり。

 ここに死ねるという事が、ここで正しい精神生活の方向の道を得たという事だる。そして、生活がここで送れる人間になれたという事になるのだ。

 人間の自力の力が尽きた時と矢がわが胸に付き刺さることはいつも同時なんだが。逃げ回れる自力の力があるうちは、いくら矢が放たれても、うまく立ち回って自分の自我意識を正当化する理屈や哲学や伝統教学までも持ち出してきて今生限りの自我意識の自己保身。

 世間の喧騒の闇の中に逃げこんで、やがて死の床までも、もっともらしい遺言まで残して、空念仏して虚しく死んでゆくばかりだな、この私。
 なんまんだぶつなんまんだ。

長生不死の法を生きてみる。

 本人の死は本人が自覚できないと言う哲学者がいるそうだ。

 死の定義にもよるが、神仏の無限の救済に出会ったら有限だと言っている心身を超え包まれて救済され、一瞬でも永遠を悟りや信心の自覚のうちに収めるのなら永遠の純粋経験を経たといってもよいのではないのか。

 それならば自身の相対的な死を心身において自覚できたことになるのではないのか。

 生死の迷いを超えることが仏教の仏の救い、仏の覚り、あみだの信心なのであれば、なおさらのことである。

 生死を超えた道に立つとは、心身がアミダの無量無限の永遠の生きた記憶を持ちつつ、真理の世界に向かって濁世を生きるのであるならば、死の不安を煩悩や本能に妨げられながらも、正々堂々とこの不条理を凡夫として生きて死に切ることができるような人間になってゆくことにこそが、本来の死を自覚して生きてゆくという長生不死のほうに生き切る意義が今世に生まれてくるのではないのかと思うからなのです。
なんまんだ。

親鸞かく戦ぬ。

「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし」

これは八十五歳の親鸞の自我意識のすさまじさが清浄なアミダ意識を全身で包み占領している心的状態を正しく表現したものだ。

親鸞二十九歳に「雑業を捨て本願に帰す」とあみだ意識に目覚め、浄土意識の目覚めでもある本願念仏を高らかに宣言し、逆に我はアミダになる確約を得たと傲慢な自我意識の妨害を思わせるものだ。

いかな、無明煩悩の闇が晴れても、なお戦い続けなければならぬ真実の念仏者親鸞。

信心獲得しても、飯を食い妻子を養い、愚痴無知の弟子共も教化せねばならぬ。その間に本能煩悩が勢いを増すが、それらを絶対的存在と否応ながら承認しながらも、並行して浄土意識の働きも盛り上がるが、完全に勝利している救済状態を親鸞はこう語ったのである。

なんまんだ。

ブッダと親鸞の常備薬。

 苦の根本体験を超えて覚りがこちらに開かれてくる。
 宗教心は覚った人や信心を獲た人に言う。

 獲るとは求めなければ得られないという事だ。

 苦から逃れられなくなった、どん詰まりの時に心の内部から自己発言してくる超絶異種の無限に通ずる清浄意識だ。

 この意識は真の自己意識で全意識を統一し救済し統合しようとする自己完結意識だ。何物にも侵されないから清浄独立意識ともいう。

 これにより自己完結し自己満足することができる唯一の自己完成意識だ。

 これらの意味で苦は究極の安楽状態を保全し念仏の花を咲かせる安心の苦の種である。

 この安薬念仏薬、少し苦いですけど飲みませんか。一生に一度だけ清水から飛    び落ちた気で飲んでみませんか。ブッダも親鸞も飲んだんです、保証付きですよ。

なんまんだ。

大谷翔平を信ずる心。

 
 大谷翔平が水原一平の送金にかかわったという話が喧しいとき、関わらないとあり得ないという評論家、弁護士、コメンテイター、ユーチューバーが多かった。

 人を信じるとは女優の芦田愛菜「揺るがない自分がいるということが信じられること・・・その揺るがない自分の軸を持つのはすごく難しい・・」。
 ジブリ「人を信じるという事は、相手への期待ではなく、自分への決意なのです」。

 人が人を信じるのは自分が作った自分軸や自身が鍛えた固い決意は大事だけど、それさえも永遠の継続は至極困難だ。

 だから、人間は昔から永遠に続く大事なものを人にではなく神や仏に委託したのだろうと思うのです。

 そうすれば、いつでもそこに向かって歩む人間はいつでも存在することができるからです。やがてそれが本物に限りなく近づくことができるからです。

 それを本当の決意や自分軸というのだろうと思います。その絶対的な信ずる心を昔の人はなんまんだぶつといいました。

 なんまんだ。

今日の夢想庵。

 失敗した時こそ、わが身の愚かさが知れてくる。

 神や仏に出会ったときにはもっと強烈に自身の全てが見せられ、その自覚が鉄槌されてくる。

 その時、もし仏縁あればお念仏様が同時に裸の我が身を温かい身光で包み込む。挫折した時に念仏が出る。誰でもが失敗したくてしているんじゃないが、前に進めば必ず人間は失敗するようになっている。

 病気した時、お母ちゃんが枕元で、心配顔で額に冷たいタオルを当ててくれたよに。仏さまが心配した時でないときっと本気で出てきてくれないものかもしれ ないな。

 だから、こっちが元気な時は、だから出てこない。

 こっちが死ぬときはどうなんだろう。きっと、出てきて私の両手をしっかり握  り締め、あっちへ連れて行ってくれると思います。今助かっていても、もっと助かりたいとと願うばかりの今日この頃の夢想庵の私です。

 なんまんだ。

平和時代

 どうしたら世界が平和になるのかな。

 縄文時代は1万年。平安時代は400年。江戸時代は200年。
 日本には平和 だった時がある。

 世界中でも大なり小なり今も続いている国もある。

 国の様相を呈していないまでも平和が続いている所があるのだろう。

 食料が、自然が豊かで争うことがない理由らしいが、そうでなければ、
 どうしても一切れのパンを分けなければならない時に人は平等という
 理性をどうしても働かなければ生きられなかったのだろう。

 今でも分別や理性と言うものをいやでも働かせないと平等も自由も
 得られないと思っている人が大勢だ。それに基づく平和憲章・平和憲法を
 働かせないでもそれを超えた宗教や新しい人間性の一面を見出すことが
 できる道があれば、いずれ、その世界は平和に満ちてくるのかもしれないな。

 昔々の平和憲法がない時代のほうが平和だなんて皮肉だな。
 しかしその思いをいま学ばないともう無理なのかもしれないな。
 
 なんまんだ。

それが真っ逆さまに地獄に落ちている顔だ。

 神や仏を信じ、悟った心は宗教心。

 人生の根本の心の迷いの闇や苦しみを晴らす働きをするものだ。

 人生が本能煩悩で満たされているときには忘れて、
 気づきも求道もしないもの。
 それでいいと心の鬼を喜ばせているうちは、

 これが人生勝者のものだなどと嘯いているうちは地獄にいる
 ことも気が付かない虚しい人生なんだということさえ忘れているものだ。
 「どうして、こんなに忙しい人生なんだ。金を儲け使うのが忙しい」

 だがその顔は、いま地獄に真っ逆さまに落ちて恐怖に歪んでいる
 その顔にそっくりだとはっきり書いてあるから恐ろしい。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ。

闇は光の友達だ。いつも一緒で仲がいい。

 過去世と現世と未来世で私が作った、作るはずの罪悪が深くて重くて誰にも許 されるものではないと知った時、すべての思考が一時停止すれば体の活動も一時停止する。

 そして、何も考えられなくなった時、その所にあみだの無限大悲が不思議に働きだしてくる。

 そのみ光に照らされ、育てられていたことを知らなかったことに気が付いてくる。

 それまで根源の無明の闇に眼が閉ざされていたことさえ知らなかったことにも気が付いてくる。

 そこで、目が覚めたところに真の人間の自由と本来の希望が与えられ、三世の闇からの解放された浄土の光が、永遠の平安が見えてくる。

 闇は明るさがあって闇になる。希望は絶望があって希望になった。闇も光も大事な友達だ。生と死もきっと大事な友達だ。

 なんまんだぶつなんまんだ。

心は浄土空間さえも駆け巡る。

 心と体は別でも心は体から独立しているが離れては存在しないらしい。

 心は永遠無限を語るが、体は有限をいやでも離れない。

 それでも永遠を体得することはできるのだ。

 もしも心の中に永遠を感じるところがあれば心の中に浄土や天国が、自我意識 
 が作る地獄の底にあるに違いない。

 そこを突き抜けて落ち切ったところにあるならば、生まれた時から気づかず持 
 ち歩いていたのだろう。

 それが目覚めてなんまんだぶつという言葉になって私を目覚めなすならば、地
 獄の底から届く声となって聞こえてくるに違いない。

 その時、浄土一定の身も見えるけど、一緒に地獄一定のわが身の宇宙の果てま 
 で開かれた真実の世界も見せられる。

 なんまんだぶつなんまんだ。
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