なんじゃこりゃ。

 
時は残酷で優しいな。

時なんて最初からないものを。

人が美しさと、醜さで埋めてゆく。

 その時が来れば、その時が来ればと念じつつ、いつまでも、その時が来ることを待つ悲しさよ。

 その時が来た時は、いつも、その時は来ていたけれど、初めて来たかのように受け止める。

もうすでに、一度経験済みのことなのに。

 なんまんだぶつも初めて会った気がするけれど、ほんとはすでに会って知っていて、そこに生まれて、そこに帰る旅の途中の一里塚。

 なんまんだぶつ。なんまんだ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

 夜もすがら なむあみだぶつを称うれば むかし称えし我が名なりけり
                          詠み人知らず

なんじゃこりゃ。

  時は残酷で優しいな。時なんて最初からないものを。

人が美しさと、醜さで埋めてゆく。

その時が来れば、その時が来ればと念じつつ、いつまでも、その時が来ることを待つ悲しさよ。その時が来た時は、いつも、その時は来ていたけれど、初めて来たかのように受け止める。

もうすでに、一度経験済みのことなのに。

なんまんだぶつも初めて会った気がするけれど、

ほんとはすでに会って知っていて、

そこに生まれて、そこに帰る旅の途中の一里塚。

なんまんだぶつ。なんまんだ。

なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

もういいよ。

 
ここで本当の幸せを味わったからもういいか。
仏様との約束もろくに果たせなかったからもういいか。
仏さまのお手伝いもろくにしなかったからもういいか。
いい人間関係も築づけなかったからもういいか。
なんまんだぶつに救われたからもういいか。
今日も晴れだからもういいか。
今日は死ぬのにいい日だからもういいか。
もういいかい。
まあだだよ。
もういいかい。
もういいよ。

なんまんだ

宗教的な自覚なんて今ここに見えているのにな。

 
 もともと仏教の自然の道理は、人間の身心のありのままを如実知見することであり、その中で生きてはたらいている真実一如とともに生きる大切さを説いているものである。

 人間が育んできた理性的な道理や修道主義などは、一如の用きからすれば知的空想の産物のようなものである。

 真理がわれらに共同せよと呼びかけている真実の用きは、我らに一真実の仏道の悟りの世界の場に向かう用きを一切必要とさせず、いま、ここに、その身そのままの今のそこへの用きに、ありのままの心のままで一切を手放されて、真実一如の働きに任せてゆけば、おのずから向こうからの真実の声がここに届いていたことを知り信じられ、それがありのままのこの心と体に聞こえてくるということだけなのだと思うからなのです。

なんまんだ

どうしてもかっこいい自分意識。

 
 人間の普遍的な意識という合理的、知性的な自我意識の判断が正道とする自分自我意識が持続しているから、今日まで仏教の初動の総合的で純粋な縁起の道理の教えから現実のわが身、わが心の実質的な救済の実態からかけ離れていったのではないのか。

 いわゆる理性的に判断すればという人間がその自我意識を超え包んでいる仏教の道理の用を、真実のわが身の現実に正当に信受理解する時、一見矛盾する非合理的な仏教の悟りや信心世界は後からついてくるものだとして、総合的な実践体得を後回しにして、人間の理性の理想主義的な理解に出てしまった初動から持っていた課題だったと思うのです。

 そこから、聖道浄土の変わり目が継続してしまったのではないのかと思うのです。この葛藤は宗教が続く限り抜きがたいこの自分意識を解決すべき総合的な個人課題でもあると思います。

 なんまんだ

私の強い意志でこの世に生まれました。

 人は偶然、事故のようにこの世に生まれてきた自己に責任はないという。それならこの世と自身の生き方に何も責任が生まれないのだろう。

 ここにきて私はそうは思わなくなった。

 人に生まれた責任もなく最初から自由な存在だというのだろうが。仏に出会ってから私はそうは思わなくなってきた。

 人だけがこの世に何しに生まれたのか問えるものらしいが、それなら、それを仏に問うたなら、お前は本物の自分自身になっていないという課題を突き付けられたのだ。

 よその人から言われ自分で勝手に考えていたならそうではないといえるものかもしれないが。とにかく、神や仏は人より一枚上の人だから、そう簡単に違いますとは言えないな。

 犬や猫やトンボや日に輝く木々や虫。自分自身がそれにも劣る存在としか思えない時もあり、人は人になることがこの世に生まれた宿題で、それを放り出すのも、片付けるのも時の運かもしれないな。

 私の当初の課題はそんな高尚なものでもなく自分勝手のただの家庭問題がそこにあっただけ。それでも本当の自分自身になりたいという今まで自身のどこにもなかった清浄意欲がどこからか私に湧いてきた。

 そこから考えて元に戻ると、やはり、ここが人間の原点だとしたら、たった一回切りの人の人生に生まれてきたならば、こいつが私の一番大事な、みんなの宿題ならば、やはり、自由気ままに誰かが勝手に生み、育てたんじゃなくて自分自身の深いところにある、手も触れられない清浄意志がこの煩悩まみれのこの私をこの世に押し出してくれて、ここに連れ出したに違いない。

 自分の意志でこれをもってこの世に生を受けたに違いない。それで悲しくなった私は清浄意欲が姿になった信心念仏の自分自身に会いたくて、自分を超え包んでいる広い世界に帰りたくて、きっと、この世に一度生まれたくて自己責任で生まれたに違いないと思うのです。

なんまんだぶつなんまんだ

人生の帳尻合わせは誰がする。

 
 貰ったものは与えたもの。

 奪われたものは奪ったもの。

 見えるものを与えれば見えるものを貰う。

 見えないものを貰えば見えないものを与えていたことになる。

 人生を長い目で見れば、すがた形は違っていても人と人。

 国と国。長い歴史からみれば不思議な因果関係が起きている
 ように思えるな。

 姿かたちは違っても、自ら進んでやったらやり返されている
 ように、どこか公平に出来ているように思えるな。

 これが、本人が心の底から納得し、その結果が出るまで続く
 天の配剤というのかもしれないな。
 
 みんなプラスマイナスゼロにならないと人生縁起の帳尻が
 合わないな。

 そして、いまも、いつものゼロから新しい人生がはじまって
 くる。

 そして、それに追いつく毎日がいつもはじまっている。

 なんまんだ

パーフェクトディズ。

 
 映画「パーフェクトディズ」は宗教的な確信を得て、市井の日々の生活の中から平凡な言葉でその心を吐露し、その宗教意識の高揚を静逸に生きている現代版妙好人の物語である。
 今を真実に基づいて深く生きているという意味を持った現代の宗教人の何気ない日常を描いた「日々是好日」の映画である。

 今に絶対的な安心感の心境を得ていないと日々の安らぎもないし、自我意識から日々揺れ動く心もありながら、人々と自身の心の振動が不安や恐怖も伴いながら、心の深みに神や仏に出会ったことを根拠に、それらを超えて行く日常の精神的な揺れと安定を描いている物語りである。

 トイレとは人間の自我意識と宗教意識が殺生しなければならなかった命達の亡骸への立ち合いの場である。その最後の立会と見送りがトイレ清掃人の仕事となっているのだろう。それは神や仏の使徒の仕事である。

トイレ掃除夫に身をやつして生きている姿は真摯な僧侶の姿は命の神の代理人でもある。そのエンゼルの平凡な生活と、その救われた者の言葉に救われてゆく人々との対話でもある。

 彼は常に天にまします神や仏からのメッセージを目に見える光から、「今日も生きていていいよ」の言葉を身に浴びて暖かい光から毎日確信して微笑んでいるのである。その光が見えなくなった時こそ彼の心と体全部の全身そのみ光に包まれることを知っているからである。

 また「今度」と「今」も「違う時間」も、今にあって今を超えている永遠の今であって、それの連続の次の日、今度は誰も何が起こるのか、神のみぞ知る今度になる世界なのであろう。

 誰でもが毎日過ごしているごく平凡にみえる日常生活の中に
ごくありふれたようにみえる精神生活を描いているので、なにがと思うのだが、その中には宗教というもので測らなければ何もわからないものがちりばめられているように思うのです。

 平山とはヴィム・ヴェンダース監督が小津安二郎監督主演の笠智衆の役名にインスパイヤ―されたものらしいが「平山」平凡な山と書くが、この平凡とは非凡ではないが非凡を超えた神や仏の使徒になった人に与えられた平凡を意味するのだろう。親鸞は罪悪深重の凡夫といい、法然は愚痴の法然坊と。

 平山が毎朝お天道様に微笑んでいる場面がある。平山はヴィム・ヴェンダース監督の話だと善修業した歌手レナード・コーエンのイメージだと言う。

 朝日に挨拶しているのではなく朝日から平山が挨拶され微笑まれているのである。神や仏様との平山の毎朝のご挨拶なのである。大事な毎日のお互いの確認事項なのである。

 恐れながら、私も食事の前にお天道様をあみだ様の光だと思って飯を食っているので、そこだけは同じだなと思った。 
「み光のもと、われ今幸いに・・・」見えないあみだ様の光をこの愚かな身に直接浴びているように。

 日々、神や仏の存在を直に確認し感謝して生きることは存外どこにでも誰にでも日常生活の上でごく平凡に表すことが出来る日常事になって、やがて誰の目にも見えないものになってゆくものなのかもしれません。

 この世には幸せになった人とならない人がいる。なりかけの人は一人もいない。幸か不幸かの二択しかない。その幸せの基準は幸せになった人達だ。

なんまんだ

恩知らずは私です。

 命を助けられてもその恩を簡単に忘れるのが人間です。

 命を助けられたことを逆に恨むのも人間です。

 恩を忘れ親切にしてくれた人を逆恨みさえすることによって
 自分を正当化したいのが鬼にも劣る私の本性です。

 これを見抜いて、それでも、そのまま救うと言っているのが
 大慈大悲のあみだ様。

 このアミダさんに救われたら救われたで、今度はその恩を
 忘れて、俺が信じてやって、アミダを救ってやったと思う
 私です。

 そして、俺の信心は、お前と比べて深いと言うような
 暗い愚かな谷底に転げ落ちていることも知らず落ちて
 行くしかない闇そのものの正体が私です。

 どこにも光が見えない私です。
 コロコロコロコロスットントン。

 なんまんだぶつなんまんだ。

 いっぱいなんだから。

 アミダさんはみんなを愛し信じて救ってる。
 だけどそれはよくないな。

 私一人だけを愛し信じてくれないと私の自尊心が
 崩れてしまうから。

 だけどほんとに愛し信じられてみると
 もうだれかと比較しなくてもいい愛情だから
 ちっともそんなことを感じなくてもいいようになってくる。

 たった一人の母親とたった一人の子供のように
 私だけを愛し信じてくれていたことを
 もう十分なほどに感じ させてもらっているからな。

 むしろ、もう自分はいいから、
 ほかの誰かさんにその愛情を分けてあげてよ
 と言いたくなるほどなんだ。

 毎日毎日が有難うの気持ちでいっぱいなんだから。

 なんまんだ
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