信心

 
 同じ信心なのに自力信心と他力信心がある。もともと信の字解は純粋な神の前で人が固く約束をするというものでした。だから信ずる心とは人と人が純粋な約束を守るもので、欲の心などは1ミリも入っていないものだった。

 だから、それはもともと仏様の心だと思うので自力も他力もという言葉はもともとないものなでしょう。純粋な信心とは尊いところからやってくるものだと思うので、それは例えば仏様から回向されたもので、上から積み木と言う信心が積み重なって行くようなものだから、その上にただ乗っかっていればいいというものなのでしょう。

 すでにそれ自体が完成している者なのだから安心感がまるで違います。それに対し自力の信心は自分自身の不純な心が混じった積み木を積み重ねて行くようなものかもしれません。 まがい物が入っているから積み上げる旅にぐらぐらし傾きやがて倒れていくものなのでしょう。
なんまんだ

うまくいかないね

この世にはうまくいかないことが沢山あって勝った、負けた、損した、得した。不利な時ほど苦しい時ほど、不平等不公平と思えてくるな。だけど、今はそうかもしれないけれど、あの世に行けば、そんな貸し借り一切無くなって、みんな平等で自由な魂になって世界を駆け回るようになる。それを思えば今の世の人生で足りないものを補い合えると思うのですよ。
 今損しても次の世からは生まれ変わって同じように得することが出来ると信じることが出来たなら、今の世を見る見方も考えも、少しは広く見えてくるのではないのでしょうか。そんなことを思って浄土を考えて生きて行けばこの世への執着も少しは薄れて楽に考えて行くことが出来るようになるのでしょう。 
 こんな調子で今を生きることが出来たなら、一切合切擲って負けてしまっても、この世の人間関係も、一端あの世に行けばリセットされて平等意識になって、平和になってしまうのではないのでしょうか。そんなことを考えながらこの世の墓じまいならぬ、私の人生じまいも悪くはないと思います。みんな仏の智慧を頂いて。
なんまんだ

ブッダの言葉じゃダメなんだ

 ブッダのように覚りを開かない限りブッダの言った真理の言葉は心から理解できないだろう。悟りを手段や方法とするだけなのだろう。そして、覚りの周りをグルグル回って一生解説して死んでいくだけなのだろう。
 逆に覚ったら、もうそんな言葉の受け売りもなくなって、ブッダがブッダの真理の言葉として個性的に語ったように、我らもさっさと覚って個性的に我らの言葉で真理を語るときなのだ。
 農家のおやじは畑で使う道具や草をネタにブッダと同じ真理を語り出す。寿司屋のおやじは寿司をネタに真理の言葉を語りだすだろう。

なんまんだ

因果魂

 ブッダにジャータカ物語があるのはなぜだろう。
 過去五十三仏があるのは全ての命は一つの命に共通する歴史があるならば、私たちにも科学的ではない宗教的な意味での命のと言うよりも、もはや一個の歴史的な魂の来歴とでもいうべきあってもいいのかもしれないな。それであれば、その時気付いてもその因果関係が見えなくなった過去や、見えない未来に置換することで、現在の傷の意味を説明できるような気がします。
 親からやられたら、その親に前世で私がやったことをしたからか、お互い因果魂の平等性があれば、今生も生きられるし来世もという期待も楽しくなるのではないかしら。
 平等だとなって行く。そうすれば現世での罪作りも激減して行くのではないのでしょうか。ただ仕込みの悪用は出来ません。

なんまんだ

時代語

 「名号は根本言」安田理深師。すべての言葉の生みの母だという。今書いている文字も言葉で思考している。音楽や絵画や仏像などももとは「ああしよう、こう表現しよう」と作者の言葉による思考から始まるのだろう。すべての言葉はこの母なる根本言の源流に遡ってゆくのだろう。
 そうでなければ母なる母川の資格はないのだろう。この根本言の深い意味は忘れたが、大行という言葉を英訳するとき鈴木大拙師は「リビング」と訳された。真実一如がここにはたらいて名号と言う言葉になって躍動しているという意味なのか。
 だからなおさら安田師のこの言葉がすごい言葉なんだなと思い出す。見えない本願のはたらきを言葉にするとき新しい言葉がいつの時代に手も生まれてくるものなのだろう。

なんまんだ

タバコとライター

 小林秀雄が信頼している掛かり付け医からタバコを止めなさいと言われ、その場にたばことライターを置いて帰ろうとしたら、忘れ物だと言ってたばことライターを持ってきたそうだ。俺はいらないと言ったら、「そんなことでやめられないよ。そばにおいてやめるんだ」と言われ感動したとい話を新潮社のCDで聞いたことがある。親鸞も生死即涅槃。生死と言う煩悩を持ちながら涅槃の悟りを得る方向と同じだなと思った。煩悩に振り回されてばかりの私でも信心を獲ればその煩悩を否定せず断ち切らないまま悟りの世界を生きている時にその一分を証明し知らせて頂けるというのである。
 こんな道が人間の現存在に一番適うもっとも正直に生きる認識の道、すなわち仏道になってゆくのだと思った。もちろん宗教心と言う主体に目覚めてからと言う事だ。

なんまんだ

名を聞く

 廣瀬杲先生の師であった正親含英師の言葉「母親に三つの姿がある。一つは戸籍。現身。我が声となった母親の姿があるが、声の母親が一番尊い」。 
 アミダの声を聞くとは、名号とまでなったアミダが私を包んで止まない宗教心のはたらきというアミダの智慧と慈悲を知りここで救われてゆくという事が、真実一如からの呼び声と言う形をとった自覚が真実一如の心をまとったアミダの召喚、誘いと言う声なき声、摂取不捨と言う慈悲智慧のはたらきに目覚めること。それを自らの主体となし生きて死んでゆく事が声を聞くということなのである。
 真実一如からのというより、すでにその中に生き死んで行った人がおりその中の一人としての私であったという安心感をもって生き死ぬという事なのである。その我を知って生きて行くことが名を聞き続けてゆく人生なのである。

なんまんだ

今を生きる時という事

 仏の時間のない時間と時間のない人間が作った時間が二つある。作った時間、造られた時間。
 永遠の時間のない時間こそが本当の時間であって、分割した時間は永遠の一時を目に見える形で刻んでいるだけで、それは仮の時間なのである。
 実際の実時と言うのは法界で減りもせず増えもしない、そういう実時間の中にいるのが私たちなのだけれども、私たちの限定的な心と体の関係で長いとか短いと感じているだけなのだろう。永遠の時間と言う無限の時間の中に生まれ、その中に帰って行くというのが本当の私達の命なのではないのか。
 私にとっての本当の時間は私に与えられた限定的な命の時間と仏の永遠の命の時間がクロスするところに真実の一念の仏の命の時間が現れて私の本当の命の時間がそこに現れてくる。それを根本として生きることが今を生きるという事なのだと思うのです。

なんんまだ

仏の貌

「虚無之身無極之体」とは念仏が純粋な救済活動している現在形である。
 念仏は私の自力意識や他力意識や煩悩心本能心など身体的肉体的な制約の全ての心を離れて如来本来の呼び声なんまんだぶつに帰ってゆき、そして、私の耳に純粋無垢な清浄心と智慧と大悲を念仏と言う独立しながら私の耳に救うと呼びかける往相の回向と言う見えない用を言葉にまでなって仏と言う見えない姿の形として私に救いをはたらきかけているのだ。
 私の耳に「我が国に来たれ生まれよ、そして仏になれ」と耳元に囁き続ける確かな生きた言葉の仏になっているのだ。
 たとえ、どんな人の心から口から出た念仏であっても、それは如来の真実一如であり色も姿も形もましまさぬ、という真実の相そのもの、精神の相、本願の生きた相そのものとなって、救われ続けなければ助からぬ私の耳に心に囁く。
 救われてゆけと。そして、完全涅槃仏になれと。なんまんだぶつになるのだと。

なんまんだ

言葉になってもうた仏様

言葉になった仏様と言うのが阿弥陀様という。救われたときには真実一如と言う心も言葉も及ばない仏の世界に触れたのだから、普通の言葉を超えた世界に触れたのだからまともな言葉なんか出てこないものなのだろう。
 全身全霊打ち震えるものが心の底から響いて来ているのだから、まともな思考が働かないものなのだろう。
神か仏か宗教心か、それがアミダか分からないものがこみあげて、少し時間が経ってから言葉となって出てくるものがナンマンダブツ申しなさいと、感謝と懺悔の心がいっぱいになって、まるで親不孝息子が親に懺悔、不幸を謝るようなものなのだろう。
そのことを思い出す時、いつもお母さんお父さんごめんなさいと言うようなものだ、ナンマンダブツの言葉だけで許されていくようなものなのだろう。それから、その念仏には真実一如を象徴する、体現した私の主体として血の通った言葉としての、私を真実一如の故郷に導いてゆくこのような実働的な象徴言語がなかりせば私の心は煩悩林を遊び回ることが出来なくなるのでしょう。

なんまんだ