みな悟らるべし

 ブッダの出世本懐とは人間全体の出世本懐でもある。自ら覚り他を覚らしめんとすることである。大経における阿難がまさに、何十年とブッダが阿難に法を説いたが開けることが無かったが、いまこの時阿難自らが、自らの眼にブッタの智慧と慈悲をまのあたりにしたのは、自らの内からなる宗教心の初めての発露だったのだ。自らが覚ったからブッダの悟りに気が付いたのである。ここに、我々の救われ難き凡夫の身の姿があるが、これが我々の出世本懐でもあるのであろう。
 自信教人信と言う言葉の意味はまさにこのことであろう。独覚といえども、仏の大悲による教人信のはたらきによってはじめて、自らの真実の悟りを聞き開くことが出来るのであって、そこにこそ、仏々想念、肝胆相照、感応道交、念仏と念仏、宗教心と宗教心、法性と法性が響きあう内観世界が、そこに証明されたのである。ブッダの悟りも阿難の覚りによって阿難の本懐が証明され、さらに自らも深まって行ったのであろう。
 ブッダも救われ難き凡夫をアミダの大悲で救ったことによって、アミダの大悲の深き用を知ったが、大経のこの場面は、我々人間の出世本懐でもあり、いくら覚っても、人一人救うことが出来ないご縁であれば、それは自らの出世本懐の感性とはならないのではないのかと思うのです。

なんまんだ

その一言で人生が変わる事がある

 長い文章で丁寧に説明しているものは不要で、ただ結論だけが欲しい、人生の究極の閉め言葉だけが欲しいのだ。自分が築いてきた人生にふさわしい言葉だけが欲しいのだ。
 真実には、そんな言葉は一つもないのに、それをひたすら求めているだけなのだ。だから真理の一言に出会って響かなくなっているのだろう。
 真理の言葉でさえ、その前段があって、つまり、悟りとは多言を超えた無言になった言葉が真理の一言になっているのだ。
 ブッタの「諸法無我 諸行無常」「人生は苦なり」の全段にはこれがあるのだ。
  これが一番短い、この世に生きる人間の真理、答えなのだ。「人生は楽なり」という前段の覚りがなければこれは理解できないのだ。
 だから南無阿弥陀仏は真理の善言だが、この短い言葉にも如来の生起本末を知らないとわが身の真理の短い一言にはならないのだろう。
 なんまんだ

時計

 私の人生時計には長針短針秒針が付いている。仏様の時計は最初から針の無い時計。
 その針の無いアミダ様の時計に私の針が付いて初めて回り出す。命あるものはみんなこのアミダ時計の上ではじめて針が動き出す。命を授かった時から動き出す。太陽の運行も宇宙の胎動も見える時計はみんな外側から図れる時計です。針の無い時計はそれだけでも動くけど、それだけでは動いているのか永遠の川の流れの如くよく分からない。
 針の動きで、それとはなく分かるけど、普段は全く分からない。真宗仏教の信の一念や心臓が止まった時にしかわからないようになっている。
 だから、アミダ時計と一緒に生きている時だけが、私の本当の命の時間、一瞬が輝いて生きている時間の連続となりました。そんな長短関係なく、私の時計は本当に生きている時計となりました。

なんまんだぶつなんまんだ

私が人生の時計です

 
 私自身が人生の時計です。私の命の時計が私です 目に見える時計は壁や腕にかかってあるけれど ほんとの時計は私の命の刻みです 私の命のほかに時計はどこにもありません 
 腕時計や壁掛け時計も本当は私の命の時間を知らせるために、眼に見える姿形で掛けてあるのです 命の時間に長針や短針や秒針やゼンマイ仕掛けや電波ソーラ装置はないけれど 昔から腹時計と言うものもありまして 
 命あるもの命の脈はみな10億回と平等にうってはいるけれど、この命の刻みはなんのため 命はあみだ様から貰ったものだと気が付くための命の時計 出会った時から命の時間が始まってお浄土成仏還相回向まで続く時間に切り替わる だから命の時間と 目に見える腕時計の時間があるけれど 
 生きている時には掛け時計で間に合わせ 阿弥陀様といるときは永久時計を心にかけている気持ちで命の時間を脈打たせ 完全無上涅槃に入るまでは二つの時間を楽しもう

 なんまんだぶつなんまんだ

私の心の底にあるみんなはあたたかい

 みんなはみんな諸仏となって私の本願成就が完成したら知らなかった思いの中から現れて、私が食べて私の命となっていた命たちが諸仏として現れて、私を諸仏の仲間として、成仏する仲間としてあらわれて、ナンマンダ仏の誕生だとお祝いしてくれる。
 これが外にもいるけど、ホントはね、私のうちに仏となって変わらぬ命となって生きていた諸仏方のほめことば、諸仏称讃、諸仏咨嗟。ほめて口に出す言葉はこころの籠った、助かることは、我らも助かると同時であるとナンマンダブツなのでしょう。

なんまんだぶつ
なんまんだ

個性的な人間になれない

 昭和世代の私は、小さい頃から「個性的な人間に成れ。他人と同じことをするな、個性を磨け」と言われ、他人との違いを探してみたが、私にはとうとうなかった。
 最近、仏法好きな老人の紙片を貰って見た。本当の個性は仏様や神様に救われた人にしか現れないんじゃないかと思うようになった。
 個性という自我意識と十分戦ったゴッホのように親鸞も宿業なる個性の深い闇と戦ったものにのみ真の個性を見出すことが出来たのではないのかと思った。
 個性は悲しき人間の宿業の性からしか出てこないものであると知らなければ、それは単なる姿形の違いだけを競うものになるのだと思った。

なんまんだぶつ
なんまんだ

藍より青し

 師の喜びは弟子が師を超えることだ。ブッダの喜びは阿難が救われアミダの凡夫入報が開かされ、さらに、500年後の竜樹大師が覚りの真理を深め広めたことだろう。
 法然聖人にとっては親鸞聖人が後に教行信証を顕したことに尽きるのだろう。学問、芸術、技や悟りでも日進月歩が必要だ。師を超えた弟子を見るたびに師の喜びはいかばかりのことだろう。  
 それは、師にしかわからない喜びだろう。それを弟子にも味わってもらいたいのだろう。
 弟子がいない師匠は師匠ではないのだろう。弟子が師を超えて真理の深さを究めてゆく事を見ることが出来たところに真の師の喜びがあるのだろう。
 やがて弟子も同じ事を考え、この世での仕事がすべて終わったと喜んで死んでゆくのだろう。
 
なんまんだぶつ
なんまんだ

自分などと言うものが

 自分などと言うものをいつまで信じているのだろう。この頼りなげで、信じがたいものを。
 そこから生まれる自信に満ちた革新や、すぐに揺らぐ決意は、もういいではないか、今まで十分に懲りてはいないのか。
 そんなことはすでにうすうす分かっていたはずなのに、いまだに頼っていたからポイと捨てていたら、なんと楽で自由で楽しい簡単な人生になっていたことだろう。
 まるで、捨てられた子犬のようだけど、どこでも自由に飛んで跳ねていけたのに。
 こんな自信はもっといい自信で、囲ってもらわなければ本当の自信や自由を知らないままで、どこまでも迷って歩き回って行くのだろうな。
 こいつはきっと死ぬまで私と付き合い、死ぬまで古女房のような存在になるのかもしれないな。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

 柿を暫く机の上に置き忘れていたら自然に熟していた。早く大地に落ちて中から芽を出して、やがて、花を咲かせたいのだな。    
 こんな自然と言う名の不思議なはたらきがこの天上の地上の私に全てにはたらいているのなら人間の心も体もやがて自然に熟して一本の木になって、やがて美しい花を咲かせたいに違いない。
 われらの仏の種はもう何千年、何万年と種を生んでくれた仏の大地にやがて帰って天上からの法雨を存分に灌がれたいと恋焦がれているのだろうな。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

50億のホテル住まい

 アメリカのホテルの中の50億円の住居に住んでいる老夫婦がテレビで部屋を公開していた。料理を一度もしたことのないきれいなキッチン。全てが豪華な調度品に囲まれていた。だけど、その夫婦が住い、身に着けている高価な物が全部なくなって、地位も財産も全て無くしても、体一つでも生きている意味をどこかに見出しているのかもしれないなと思った。私は裸一貫に近いのですが、心の中にたった一つだけでも真に充実した、無くならない豪華な宝石宝物を持っていなければ意味がないなと、ことさらの如くに思った。私は二つを得る事は叶わないのだろうと思ったけれど。見えるものと見えないものの違いがあまりにも違いすぎるから、豪華なものが溢れているほど、心に入る大切なものが、そこには入り込めないような気がしてきた。心貧しきものは幸いなれだ。
 なんまんだぶつ
 なんまんだ