私の誕生日。

ヴォーリストのabbieの・k訳「Feeling good」

空の彼方を飛ぶ鳥たち、私の気持ちが分かるでしょ
照りつける太陽よ、分かるでしょ
やさしくそよいでくる風よ、分かるでしょ
夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる
最高の気分だわ
海を泳ぐ魚たちよ、聞こえている?
あてなく流れる川よ、分かってくれる?
木々に咲く花たちにも聞いてほしい
夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる
最高の気分だわ
照りつける太陽の下に飛んできたトンボよ、分かるでしょ
自由に飛び遊ぶ蝶たち、分かるでしょ
一日が終わる時、安心して眠れる場所、それが私の求めるもの
そしてこの古かった世界は、今や新しく生まれ変わったの
私にとって自由な世界に
星たちよ、輝くその時に、私の気持ちがわかるはず
松の香りよ、私の気持ちがわかるでしょ
そう、自由をやっと掴んだの、そしてこの気持ちをかみしめる
夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる
ずっとこの瞬間を待ってたの

 何かに目覚めたとき、今までの与えられた狭い価値観の世界観から抜け出た時のすべての命の根本的な自由と平等と平和と愛の世界を謳った音楽だと思いました。なんまんだ物誕生の歌でもいいなと思いました。自分自身の命の誕生日でも。
なんまんだ。

命の目覚め。

FIFAランクのアルゼンチンは第1位。18位の日本。メッシが生まれるまでには何百年かかったか。 
  
 いずれ日本もそうなる時と人が生まれるに違いない。

ブッダもインドの多くの人々の中にも生まれ、その後の人類の命運を背負っていくようになっていった。

阿弥陀の本願も多くの諸仏の願いの結晶だ。ちっぽけな私の今の存在もきっと多くの命達の願いがかけられているはずだ。

諸仏と言われる宗教心に目覚めた人たちも、そうなる人たちの願いにもかけられているに違いない。

ブッダは次のブッダを生むに違いない。そんな願いの中に生きている私たちなんだ。次の仏を生む尊い真実の仕事の中にいることも知らずに平気で毎日生きている私はやっぱり馬鹿に違いない。
なんまんだ。

死後まで守ってくれる人。

 死んでも髭と爪は伸びてくる。
 
 私が、私がというわりにはその私より長生きだ。

 爪や髭はなんの用あってかご主人様を守るため。

 今更、何の用あって伸びるのか。私の厄介な僕(しもべ)ぐらいに思っていた が、意外と忠誠心が強かったのかもしれないな。

 私が死んだ後まで生き残って私を守ってくれる髭や爪かもしれないけれど、それはいまの私よりよっぽど偉いのかもしれないな。

 それを考えたら、あみだ様の本願念仏は私が生まれる前からあって、死んだ後も多くの命を救うのならば、きっと、私より偉い人の願いに違いない。

 それなら、いまからこっちのほうを私の命より大切にしておいたほうが、よりお得な人生を得られるかもしれないな。

なんまんだ。

石に聞く。

 龍安寺の石を見て俺はこう考える。こう見えるとすぐに私は何か言葉と答えを導き出したがる。

 考える暇もなくてすぐ自分という個性で感想を言いたがる。石の声を聴く暇もなく一方的に思いのままに語っていないことまで語りだす。

 石は石でお前はこう見える、こういうことが言いたいのだと語ってきているのにだ。

 だから黙って三年も石を見ていたら、石のほうから、もっとなんだかんだと語ってくるようになってくる。

 その声が私の耳に自然に聞こえてくるようになるまで待てないのだな。答えだけがすぐに欲しいのだな。

 私が知ったり語ったりする前に、私が生まれる前から泰然自若に私が知らぬ天然自然の真理の道理を体得し、多くのものに無言の言葉で多くを語っているのにな。

 なんまんだぶつも同じこと。名号を見ていたら向こうから多くのことを語っていることが、無言の声で語って来ていることが自然に聞こえてくるのに、すぐに答えが欲しいから解説書を読むのだな。それでわかった気になっているのだな。

 なんまんだぶつに間と言う物はいらぬもの。なんまんだぶつ即往生大涅槃の悟りの分がこの世で与えられる仕組みになっていることを今の人間も昔も未来の人も自意識過剰に育ったせいか、こんな自然で当たり前の既得の精神作用すら忘れられた世界がここまで営々と続いてきたんだな。

なんまんだ

動詞と助詞の使い方。

これから救われるだろう。すでに救われたからあとはどうでもいい。救われたが死ぬまでは救われていく深さがある。すでに救われつつあるが、まだ救われていない。これらは金魚掬いの話ではない。人間が真実の働きに今どうなっているのが正しく救われているのかという話だ。同じように見えてくる世界観だが助動詞一つでまったく違ってくる。生きているときは救われていく、如来はつねに救い続ける動作をやめないのだから、我らも救われ続けながら救われていくという継続的な動詞が最も正解に近い表現なのだろう。

一人称の死を超え生きる。

 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは三人称の死。二人称の死。一人称の死があるという。赤の他人と知り合いと自分だ。

 一人称の死だけは死後の認識ができないという。肉体の死後の自覚はないというが、生と死を一つ一つの命の塊と考えないで、仏教でいう縁生存在の寄り集まっては離れていくものとしてとらえれば、最初から実体的な生死はないものであり、その都度その都度に生々流転した肉体として生存しているし、精神でさえも同様に働いていくものなのだろう。

 そして、その中で細胞レベルで生と死を交互に繰り返しながら今を生きているということが今知ることができる生というものになるらしい。そこに自我意識があるから、その分別する心で生きているとか死んでいると分けるのだろう。

 私たちの体も川の流れのごとくに毎日が同じように見えても日々刻々様々なもので体は成り立っては消えている。そこでは、実体的な体や心はどこにも存在しないことになる。そんな中で、自我意識が一時停止して宗教意識が興りその働きを深く自覚する時がある。

 自我意識がいったん終われば即ち自然の浄土が自我意識の底に再認識される、つまり意識滋養に生まれるといっている。そこでは自我意識が一時的に仮死自様態になり、宗教心という全的意識が全身を凌駕する時があるというのだ。それを親鸞は「前念命終後念即生」といいい、そこに浄土意識なるものが別世界として現在するようになるというのだ。そこには自我意識が意識する生も死もなくて、ただ単に今ここにある自分が、絶対なる仏や神の御前に正座していることが心地よくて懺悔の命を尊ぶ世界が意識上に常に現れるようになるのだ。

 そうなれば、そこには永遠無限の世界意識だけが我と仏の会う共感意識として意識されるだけの絶対無限の満足世界に包まれるようになる。

 ここまでくれば、こんな世界が与えられたら、誰でも一人称の生死を超えた世界が体験できることになるのではなかろうか。
 これが一人称の死を自覚することであり、仏教でいう生死の迷いを超える道であり、生や死を諦める道元禅師や親鸞の念仏の悟りの道にも通ずる実存の自覚を得歌ということになるのではないのかと思うのです。

なんまんだ

悠久の真理の中で生きたいな。

 どんなテレビ番組でもラジオやyoutubeでもいつかは終わる。私の人生もいつかは終わりを迎える時が来る。

 海も山も川も森も大地も変化して変化してやがて自然の力で地球さえも別の形になってゆく。滅んで、みんなさようなら。

 そんな終わりの前に終わりのない世界が人生や物語があればいいと思っても、いつかはみんなさようなら。

 だからみんな終わりのないと思っている死後の世界や天国を思うけど、空間を占めない存在でもない限り、初めも終わりもない世界があればこそ、そこが本当の人間の、命の願い望む世界かもしれないな。

 そんな、一見無限の可能性のあるゼロの世界に今、もし、みんな命のあるなしにかかわらず、みんな包まれているとしたならば、そんな今の世界を知ったなら、結構みんな、もっとゆっくり、のんびり、お先にどうぞのおもてなしの精神で、今をもっと尊重して生きてゆくことができるようになるのかもしれないな。

 はじめも終わりもない悠久の大地の上で新しい人間の物語が一人一人に今から始まるのかもしれないな。

なんまんだ

この世に成功も失敗もない。いかに歩んだかだけである。

 
 一つの目標に向かって努力すれば壁に何度もぶつかる。その失敗は一つの道がだめだと知った一つの成功でもある。
 そして、それを最終的に突破する道は二つある。一つはそのまま自滅するか、もうここでよいと諦めて別の道を歩むかである。

 自滅してもよいと覚悟を決めた時に何か向こうから現れるものかもしれないが。それはそれで、その努力意識を離れることができれば、それはそれでよしとするのだが。

 二つには、努力とともに仏の力を乞加する道かであろう。これらの一つは人間の自力意識で、一つは仏の他力意識といわれるものである。

 どちらが本当に人間に対して自由自在の世界を与えられるかは実際に道を歩んだものには自明のことだが、一人一人が具体的な努力する道を歩んでみないことにはどこまでも自明にできない世界でもある。
なんまんだ。

如来内存在。

 
 命あるものも命とみなされたものも、みな如来内存在になるんだな。

 あなたもあなたもあなたもわたしも、命あるものもないものも、みなこの無限     
 の命の中からいつからか生まれ、いつしか壊れ、いつしか帰り、いつしか命の 
 生まれをここまで繰り返して、いまここに生まれているんだな。

 いつしかやがて、無限の命の中から生まれ、そこへ帰ってゆく一瞬の輝きを与 
 えられた命達なんだな。

 一つの真実から来たアミダによって目覚めさせられ、気づかされ、今ここにこ
 うして様々な生活が与えられて永久の一つの命を分け与えられて生きている不
 思議。

 ここにきて、ここにいるわけも、きっといつか分かる時が来るにちがいない。
 きっと、その時に、あ~ぁそうだったのかと、言葉にならない言葉で深く頷く 
 時が来るのだろう。

 なんまんだ。

さくら咲く。

死ぬなんて考えないで、何とか生きていくことを考えよう。

生きていれば何とかなるからという。

今はつらくて逃げたくなっているかもしれないが、生きていれば、いつどんないいことがあるのかもわからない。

だけど、どうすれば生きていてどこに本当の意味があるのか、それがいつ見つかるのか。それがわかったら、いつ死んでも悔いがないといいうるものがあるのなら教えてほしい。

それがなければ、死んでもいいのだという道がなければ、死神の仕事がなくなってしまうではないか。

人は必ず死ぬ運命なのだから。

やはり最後の選択は他人が決めるのではなく自分で決めるしかないと思う。

死を生きるということを選択の一つにしておいたほうが、よっぽど人間らしい生き方になるのではないのか。

永遠に生きるのなら別だが。人生は長さだけじゃない。

深さもあれば桜のように美しく散るという一瞬の命の輝きだってあるのだから。

なんまんだ
NEW ENTRIES
私の誕生日。(04.27)
命の目覚め。(04.23)
死後まで守ってくれる人。(03.25)
石に聞く。(03.21)
動詞と助詞の使い方。(03.16)
一人称の死を超え生きる。(03.15)
悠久の真理の中で生きたいな。(03.12)
この世に成功も失敗もない。いかに歩んだかだけである。(03.12)
如来内存在。(03.10)
さくら咲く。(03.04)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS