この世で生まれ変わる方法がある。

 人はこの世で生まれ変わろうとしても死ぬ以外、生まれ変われる新しい場所と空間がない。

 それでは人間本来の根源的な新生が出来ないので、それを新たにすべての人間に与えようというのが、というより、むしろ、本来の人間に生まれるためなのだが、あみだの浄土なのだ。

 この世で心身ともに生まれ変わって、新しい、本来の人間の根本精神を復活させて、一から人生をやり直せるのではなく、仏の視点をもって見直すことが出来るようになるために。本来の人間とは、生まれながらに知らずに持っている深い宗教的な精神に目覚めれば肉体的、空間的にも変化が感じられるから、今まで見てきたもの、聞いてきたものに新しい宗教的な真理の輝きが見いだせるようなものに、この世の時間と空間が仏の真理につつまれ、変化したように思われるようになるからだ。

 この世に居ながら、さながら涅槃浄土の中にいるようなものである。

 ただし我が劣悪な煩悩と共にではあるが。しかし、この新境地に誰でもが念仏一つで生まれ変われることが出来るようになるのである。

 そこに今ここに生きている証明が本来のなんまんだぶつ一つなのである。

 これがこの世で生まれ変わり黄泉がえりの生まれ変わりの唯一の具体的な方法だ。
 
なんまんだ。

人生はプレゼント。

 過去はPast tense。現在はPresent tense。未来はfuture tense。現在Presentは贈り物。与え。ギフト。値打ちあるもの。寄付。親しい人の間の贈り物。との意味がある。

 英語で語り継がれてきたこの言葉の原語は知らないが、洋の東西を問わず同じような人生に対する問と答えがそこにあるような気がするのである。

 全ての私たちの今の人生は一体誰からの贈り物か。何をするための人生か。自分の人生は自分だけの人生でよいのか。自分の人生だから、ただ自分の人生を謳歌するだけでよいのか。

 人生、そこには何かの秘密があるに違いない。その秘密を説いたものが人生の本当の蜜を吸えるようになっている気がしてならないのである。

 真宗の妙好人源左が法座の講師が顔を赤面し出てきた。酔っていなはるのかと問うたら、講師が「お与えじゃ」と答えたという。私たちの人生も神仏からのお与えと思って尊重すれば自ずから、そこにお与えの人生を正しく生きてゆく道が見えてくるのだと思うのです。
なんまんだ。

これでいいのだ。

 他の原因や自らの原因で起こったことも、大きな自然の道理の仏縁として、全てが事実として起こるべくして起こっている。

 そこに人為的に介入できたと思っていても、大きな自然の道理の構造の中での真理への道筋への行為の表現とすれば人間には自由という精神も行為も真理の運命に従っているなかでの真実の中の大事な一事実という事になる。

 すべての命はその中に生まれ、その中で終えてゆくことを知って生きてゆくことが最善の生き方になるのであろう。

 抗えない真実の構造は人間が妄想する自然への優越や勝ち取るべき人類の歴史などはもともと人間の妄念が描いた虚構に過ぎなくなる。しかも、それさえも真理の構造の中での人類の真理へ向かう一つの思考方法の一形態に過ぎないという事になるのだ。
 
人間の自由意志もその中ではすべて許され、真の自由への第一歩に変容してゆくものになってゆくのだ。
なんまんだ。

多分救済の構造。

 我らがブッダと同じ精神構造を持っていなければ、全ての人に救済の差異が生まれる。能力に優劣の差こそあれ、基本構造の基本に同じ発現性がなければならないし、むしろ、真理と俗諦が距離を置いているのであればどちらが近づきやすいかは一目瞭然である。ブッダの坐する姿はどこまでも人間ブッダであろうが、そこにブッダが真理の構造につつまれて悟ったのであれば真理の構造が人間ブッダを超えて、人間ブッダとして形作ったのであれば真理のはたらきの構造こそがブッダの求めるものであり、我らの求める真理の形なのだろう。

 その真理の形の構造こそが、念仏精神的の救済の構造となって我らに言語化された形で付与されているのである。

 その言葉になった救済の構造の中に存在していることを知ることが我らの救いなのである。
なんまんだ。

ブッダの悟りと親鸞の罪悪深重。

 親鸞の罪悪深重の凡夫とは我無しという仏教の諸法無我に通ずるところがある。

 それは罪悪深重を自覚認識する時、自己の我痴我執我慢の根本無明を自覚することは、知る我と知らせる仏との間に間接的でありながら直接的な接続関係が成立したという事であり、その精神的な俯瞰距離の客観的な状態からこの二対の両立関係を見ることにより、一時的にでもそこから距離を置くことが出来、相対的にでも絶対的にでも苦悩から救われたという事になる構造があるからである。

 それは真の無我に近づき縁起の理法を知ることになり、生死の苦悩を永遠に離れ、無我自在の精神科的な境地を誰でもが認識できるような精神構造がすでに人間には未完成のままで付与されていたという事があるからである。

 その根本にはあみだという真実一如の無我の精神的な時空が真如一実として与えられていたからである。

 これらの一実世界の人間と神仏との結実空間がそれぞれの自我意識空間に限定的に与えられていることにより、人間には自己の中に自由自在ともいうべき精神的な空間を持ってここに生きてゆく意味と目的に気が付くべき存在としてのこの心身が与えられていたという事になるからである。
なんまんだ。

「今度は今度 今は今」新潮社ダイヤモンドオンライン 掲示板大賞128より

お寺の掲示板128】こんなふうに生きていけたなら
今度は今度 今は今 江田智昭 ダイヤモンド・ライフ編集部 社会「お寺の掲示板」の深〜いお言葉
2024.10.15 5:00

今年も「お寺の掲示板大賞」の秋がやってきました。涼しい朝晩には散歩をして、お寺の掲示板の言葉を読みながら、毎日を新鮮な気持ちでお過ごしください。(解説/僧侶 江田智昭)
一つ一つの所作を大切に
 仏教伝道協会主催「輝け!お寺の掲示板大賞」も、2024年で7回目を迎えました。今年も7月1日から応募を受け付け、9月30日に締め切りました。今回の応募作品数は3755点。過去最高だった前回の4107点には及びませんでしたが、奇をてらわないまじめな作品が増えている印象を受けました。たくさんのご応募、誠にありがとうございます。恒例の大賞発表は12月5日ですので、今年も幾つかの応募作品をそれまでご紹介して参ります。
 今回の掲示板に書かれた言葉、これは今春の米アカデミー賞作品賞にノミネートされた映画『PERFECT DAYS』で主演を務める役所広司さんのセリフです。役所さんは、独身で無口なトイレ清掃員の役を演じています。
 朝まだ暗い内に起きて、道具を積み込んだ自動車で隅田川を渡り、渋谷区にあるトイレを清掃し、帰ってきたら墨田区の銭湯に入る。そして、行きつけの浅草の店でサワーを飲み、文庫本を読んで寝る。彼が毎日こなしているルーティンの中に特に大きな刺激はありません。
 作品を実際にご覧になった方は分かると思いますが、彼はそうしたルーティンワークの一つ一つの中に喜びを見出していました。この作品のキャッチフレーズは「こんなふうに生きていけたなら」。日常のささいな行為を大切にして、それを楽しむことができたら、そんな人生は幸せだと感じられる作品でした。
 この作品の監督を務めたのは世界的巨匠のヴィム・ヴェンダースさん。彼は以前、インタビューの中で、主演の役所広司さんのキャラクターは、カリフォルニアに住む友人の禅僧をイメージして作ったと答えていました。
 確かに禅寺の僧侶は、毎日ほぼ同じ行動を繰り返し、その過程にある一つ一つの所作を大切にします。そして、特に掃除という行為を重要視します。ですから、この作品はある意味、仏教(禅)的な映画ともいえるかもしれません。
毎朝必ず空を見上げて微笑む
 彼の細かいルーティンには、「毎朝必ず空を見上げて微笑む」というものが含まれていました。それは曇りの朝でも雨の朝でも決して変わることはありません。
新しい一日を自分は生きているのではなく、生かされている。
 この気持ちが心の中になければ、朝からどんよりした曇り空を見上げて微笑むことはなかなか難しいでしょう。おそらく彼の心の中に、新しい一日を生かされることへの感謝の気持ちがあったことは間違いありません。
 彼は代々木八幡宮の境内でいつも昼ご飯を食べ、その際、空から射す木漏れ日の様子を毎日同じ場所で写真に収めます。焼き付けた木漏れ日の写真を並べたところ、一枚たりとも同じ木漏れ日の日は存在しません。彼は毎日撮影した木漏れ日の写真を日付ごとに整理し、大切に保管していました。
今度は
今度
今は

 毎日の木漏れ日に同じものが一つとしてないように、この世界に同じ一瞬は存在しません。「今度」の一瞬と「今」の一瞬は全く異なります。普段無口な彼がこの言葉を通して、「今」の一瞬の重要性を、訪れてきためいに対してきっと伝えたかったのでしょう。
 大人の生活は、毎日毎日、会社や家庭で同じことの繰り返し。それをつまらない、退屈だと思って生きている人は大勢いるかもしれません。たとえ同じようなことを毎日やっていても、毎日すべてが同じということは絶対にありません。毎日が同じだと思えるのなら、それは自分の心の持ち方に原因があります。
「日日是好日」。目の前の世界や自身の行為(ルーティン)は、おのれの心の持ち方で全く変わって見えてきます。心の中に「今」の一瞬を大切にして、それを楽しむ感性があれば、世の中に同じ日など存在しなくなり、きっと目の前の世界が尊く、美しく見えてくるのではないでしょうか。

「詩が出てくる言葉の源は言葉のないところ」谷川俊太郎。

 「詩が出てくる言葉の源は言葉のないところ」谷川俊太郎。

 言葉になる前には直接そのものの心との出会いがある。

 驚いたときや恐怖に出会ったときやきれいな花を見た時、瞬間に言葉は出ない。美しさに感動して言葉になる前に心を通してから出てくるからだ。

 その心に多くの感動した経験があれば、出てくる言葉も詩人のような言葉であり、素直な子供の言葉になったりするものだ。

 平凡な日常ではなかなか直接に経験したことを改めて感動などする暇はないが、特別な時にはその人なりの言葉が出てくるものだ。

 南無阿弥陀仏のお念仏もあみだ様の純粋感情ともいうべき知情意のはたらきから想像されたものなのだろう。

 あみだの本願には人間の要素はいらないのだが、人間という分別意識を持っていないと生きることが出来ない人間の意識に合わせて生まれたものが、人と真実世界のはたらきの共同意識として、あみだからかかる言葉による救済として出来上がったものが言葉による、言葉そのものに籠っている心に触れて、自身のアミダとしての意識に目覚めさす手段としての言語の船による救済は多くの人間を救済するのには一番直截で、自意識を通せば一番困難な救済になってしまうのかもしれないが、手段を失って意識の手も足も出ない時には、ごく最短な救済方法、救いの最短の距離となることは優れた方法なのだ。

 人間の方からこんな勘弁な手段が考えられたのか、仏の方が五劫の思案というのかもしれないが、純粋意識が人間にはないのだが、それを持っていなければ永遠に渡れない橋がアミダとの間にかかっているだけになるから、真理が人間に妥協して、いやいや作った人間専用の橋というほかないのである。

 無心の橋ともいうべきものが全ての人間の前に透明な存在として架っているのかもしれない。

 その見えない船や橋に足をかけることは、有我の人間にとっては無限の谷底に落ちる覚悟で渡らなければならないので、人間の意識からは出てこない仏の意識に委ねなければならない。その真実の勇気の心の鍵を手に入れるのが人間にかけられた仏の願いなのだ。

 不可称不可思議不可説の永遠無限の世界を有限の人間がアミダの真実一如の永遠の一瞬の救済によってそれが人間にも認識できるようになるのであるから、人間の心にも永遠と出会える意識世界が温存されていたというほかないのである。それを仏性とか信心とか悟りの心というのだ。

 最短にして最大限の宇宙の真理がそこにあり、宇宙の真実の道理が全包含され、人間といつでも出会いたいという願いをもっているという事なのだ。

 詩も宗教にもその言葉の存在の故郷ともいうべきものがあり、その橋を渡った人にだけには、その呼びかけの声が聞こえる人にはいつでも煌めく純粋な宝石のように人々を魅惑する言葉の心が開かれていくのだ。

 そして、その輝きに見せられて、次にその橋を渡ろうとするものを永遠に誘ってやまないものがこの言葉のない世界なのだ。
なんまんだ。

凡夫の浅智恵。

 凡夫の浅智恵だが、仏教は仏になるためのブッダの菩提樹下の端坐を真似る瞑想修行から限定的な場所での集団鍛錬による宗教心への目覚めへの普及から、それらを支えている現実の我らに浸透した浄土往生の具体性は真実性へとその方法と表現が変化してきたのだと思うのです。

 一個人の何気ない日常生活の場における言語化された仏への帰依という簡易でありながら真実と直結している阿弥陀信仰はいつでもどこでも誰でもが特殊な条件や制約を離れていてもそれを可能にすることが本来の仏教であったと自覚されてきたのです。

 この誰でもが持っている宗教心の普遍的な欲動性を持つ六字は、修行以上に困難を極める日常を送っている人々に簡潔な救済方法として、真実の世界を直裁することが多かったので、さらに、それの真実性が普遍的になって今日に至ったものである。

 ブッダ以前の諸仏の原点に帰れば、ブッダの修行形式が普遍的であるのではなく、それ以前の多くの諸仏が体得してきて六字の信仰がその源にあり、それがブッダによって端坐するという外形を取りながらも、内面では六字の信心獲得、宗教心の目覚めにこそ、その真意があったとみるのが諸仏という多くの諸仏が真理を極めた源流とするならば、その普遍性は今日の我らの本願念仏と相当する姿を取っているものではないのかと思われるからです。

 ブッダも諸仏も肉体の限界を持った人間であればなおさらのこと大無量壽経に書かれている諸仏の歴史が我らの歴史と符合してくるのではないかと思うのです。親鸞も信心の人は菩薩というのであれば、なおさらのことではないのでしょうか。
なんまんだ。

あみだ様と昔出会った記憶。

 人の記憶は果てしがないのだろう。阿弥陀仏が十劫の昔に成仏したという。ブッダが覚ったという。

 親鸞が生きていたという。先祖が30代続いたという。

 それらを心に思い浮かべるが如く、我らも個人の一生以前の地球誕生からの記憶を生物学的にも心の片隅に置いて、今をそれらの過去とともに生きているのだろう。

 だから、仏と出会ったことを、人間の今の限られた経験から見れば奇跡や値遇や不可思議というけれど、秘められていた過去の小さな記憶の箱を開けてみれば、それらはみな必然であり、当然の結果なのではあるまいか。とすれば、今ここで仏に救われたという事は、何度も何度も救われそこなった経験があっての今の救いとなったのだという事だ。

 そのための今までの人生だったのかもしれないな。そして今、その記憶の箱を解き放ち、それらを蒼氓たる真如一実の真理の碧空に解き放つ時が来たという事なのだろう。
なんまんだ。

ブッダと親鸞の悟りの中身。

 親鸞の教行信証の往相回向は具体的に述べてあるが、それらは本願の欲生心という宗教心の働きを仏の教とし、行とし、信とし、証としたものだ。アミダ仏の教は宗教心の発遣、行は宗教心からの大行行為。
 
 信は阿弥陀仏からの我らに与えられたアミダの信心の目覚めであり、証はアミダの宗教心への回帰である。

 すべては如来の、宗教心の、欲生心のはたらきを人間が自身の行とみなしたところを主体の原型に戻す仕事をしたのが親鸞聖人だった。

 ブッダの修行も、この伝で言えばブッダの宗教心をアミダの往相回向によるはたらきの結果の悟りであるとするのが、これからの人間の本来の原型に帰趨する上での最善の策になってゆくのである。
なんまんだ。