浄土意識の時空の中に今います。

 みんな活動的なエネルギーを持った空やゼロの世界から、今ここに生まれた私の命だな。根源的にみんなそこに帰れば仲良しだ。

 なぜか地上に出ていれば喧嘩ばかりしているけれど、これも心が成長意識化し
地中の命の働きに今の命が目覚めるためのものかもしれないな。

 もともと、みんな同じ親だから生まれた故郷を忘れるはずがない。

 人は寂しい時に敵対し、憎しみ合う人生を送ってしまうけど、愛し合うことを忘れると、そんな心ばかりに押流される。心の地下のほんとの命がなんまんだぶつという真理そのものが人間の言葉にまで成り下がって、地上の我らに名乗り出て、おまえはもっと大きな世界をかかえて生きているんだぞとお出ましになっている。

 だから知らず知らずに我らを救うに尊い念仏をすれば自然に涙が出てうれしくなって、宗教心というお浄土の時間と空間をこの世で実感できるような人間に生まれ変わることが出来るように人間は全部なっているんだな。 

なんまんだ。

ブッダと私は同じ人間じゃけんど。

 ブッダが覚るきっかけになったのが中道精神だと言われる。「川が流れる船の上で弟子に楽器の弦は緩くもなく強くもなく張るのだ」と師匠が言った言葉を聞いて苦行から菩提樹への瞑想になった故事からだ。

 その後、根本の無明意識があみだ意識によって破られ、それを支配していた無意識の愚痴の根本の末那識意識の正体が弥陀の光明の白日の下に晒されたことによって、覚りという真実の自己と真実の縁生存在世界が釈尊ブッダに開かれた。

 しかし、生存本能と枝葉の煩悩の悪魔は去らなかった。人間の精神構造に能力の差異はあるにしてもキリストやブッダ釈尊や我々も根本的に同じ人間的な意識構造を持っていると仮定したならば、中道とは覚り意識という宗教心と煩悩本能と対立共存しながら真実の世界へ歩んでゆく人間の普遍的な精神的、肉体的な実存生活になってゆくものなのだろうと思います。

なんまんだ。

前世の記憶を思い出しました。

 人間も全宇宙の記憶をもって今この世に生まれてきたタイムマシンのようなもの。

 遺伝子や心の記憶を静かに辿ってゆけば、曇鸞大師「遠く通ずるに 四海の内みな兄弟とするなり」とあるが、念仏遺伝子の声に耳を澄ませば、この命が時空を超えて真理の中で繋がっている事実が見えてくるのだろう。

 自我意識が未発達な子供がぬいぐるみの犬や、花や魚たちとすぐ仲良くなってしまうのは、この意識があるからなのだろう。

 また過去の見知らぬ事件などを詳細に語ることもそうなのかもしれません。

 心の記憶と体が持っている純粋記憶が因果律に基づく自我意識に妨害されない時と、真実に目覚めさす働きそのものをする念仏の心に目覚めれば、この肉体と記憶を超えた命のつながりの事実に誰でもが気が付くのだろう。そうすれば浄土の記憶も自づから開かれてくるのだろうと思います。

なんまんだ。

私の命になった願い達。

 心と体の中心は脳ではなくて腹底にある。脳にあると思っている人はそう思っていればいい。

 腹蔵なき身の潔白を証明するなら脳を切腹すればいい。心の中心は宗教心が根本だ。

 それが深いところでつながっているならば、一人一人に全人類の過去の人々の生きた体の遺伝子レベル心と無意識レベルの歴史が詰まっているはずだ。姿かたちは違ってもきっと、私のどこかに生きていることになる。

 不思議な気もするし、おかしなことかもしれないが、46億年から地球ができて、いや宇宙ができるその前からあった命の歴史から見れば様々な命の形を記憶して、その心の働きさえも命達は覚えているに違いない。

 そしたら、様々な人々の歴史を経験してきた私が今ここに出来上がって生きていることになる。

 そして昔の人や動物、植物が見たこと聞いたこと、涙したこと喜んだこと。直近ではブッダの説教を違った形で聞いていたこともあったのかもしれないな。

 そして今また、そんな教えに遇って念仏するようになったことも、そんな命達の見えない聞こえなくなった願いが私に成就したからに違いない。そんな私をそんな諸仏という何かになった命達がいま一番喜んでいてくれているに違いない。
 なんまんだ。

中州に遊ぶ。

 
 ブッダの悟りは「この世はすべて縁生存在」。つまり、全ては繋がりながら消滅と生成を繰り返している存在だという事らしい。

 私の体も生まれてから、食べ物を取って肉や骨になり、それが精神活動になっているが、毎日が新しい細胞の消滅生成の中で、私が生きていることが事だと知っている。

 しかし、心は、そうは考えなくて、いつも変わらぬものが私の中にあって、少しは体が不自由になったが、まだまだ年をとっても、心は変わらないと思っていることが、変化をしていることへの逆証明になっている。

 事実を認めず忙しく生きている。しかし、やはりあらゆるものが一つとして独立した存在ではなくて、主体という自我があるものとして生きている。

 この主体も自我意識も、他の主体による連続し継続しているその時の一時のつながりに過ぎないという。

 例えば、すべては川の流れのごとくに生きているのである。一時点、一方向の表れは確実に存在するように見えるが、それさえも変わるものは変わらないという事実に基づいているのである。

 仏も人も縁生存在であるが共時することによって対象同士が繋がって見える信心確立の時もあるが、やはり一時のつながりに過ぎない。

 しかし、自我意識から解き放たれた縁生存在の自己であり、真の縁生存在の主体的存在が仏であることをその時初めて認識することができるのだろう。「中州をよりどころとして生きよ」とのブッダの真意がここにあるのだろうと思った。
なんまんだ。

ライオンとウサギ。

 
 宗教心は一旦動き出したら死ぬまで止まらない。

 泥のなかのハスのように、煩悩本能を敵とせずむしろそれを友としてエネルギーとして、いつでも何処にいても誰といても、いやな夢や、いい夢を見ているときも休みなく働いている純粋な精神機能だから。

 心の働きはいろいろあるけど、こんな働きをする因果律を包む機能があってもちょうどいい具合だな。

 いつも、常時、自分のことばかり考え疲れ果てている自分だから、たまには外に出て森の中を散歩するような清清しさが感じられるのだ。

 このように二つが親しい友となり、さらに純粋機能が私の主体になれば、心の中にいつでも砂漠の中のオアシスのような安堵感がもてるからな。

 今まではまるで獣性と神聖の戦いだったけど、ライオンとウサギが仲良く草の上に寝そべってきれいな夕日を眺めている世界も満更でもないような気がしてきたな。

なんまんだ。

この橋渡るべからず。

昔、仏教の学校で「中道」を学んだことがある。真ん中の道だから「この橋を渡るな」の注意書きを見て、一休さんのように橋の真ん中を歩けという事ではない。

 極端な快楽や修行を避けるとも言うが、思想信条も偏るなという事でもなく、心に縁起の理法を働かせる、有るとか無いという判断を超えた宗教心に目覚めて生きよという事に最近気が付いた。

 すべての存在は人間の目には光と影があり、生と死があると考え思っていくような思考方法が生まれた時から身についている。だから人間は善やら悪やら浄穢、美醜、損した、得したとか不条理や不合理に悩んだり、すべて得する方に思考方法が出来上がっているだけだ。

 古来、中道とは楽器の弦を強くもなく弱くもない状態が一番いい音が出ると比喩されてきた。強くとは、自我意識の協調や自力意識を中心に生きていくことであり、弱くとは、怠惰で享楽的な生き方、今だけ金だけ自分だけというような現代の風潮に表さられているようなことである。

 これは、今言った本来の宗教的で中道的な生き方になってゆく真実に目覚めていない、動物的な意識生活を否定した悟りという中道意識の世界を言うのである。

 しかし、本来人間の能力には本能と煩悩があるように、さらに宗教本能も根本的にあるから、ここに目覚めて生きてゆくことが、それらの障壁を乗り越えて生きてゆくことを古来から人間の歩むべき本来の正しい精神活動を中道と言い慣わしてきたのであろう。

 すなわち、その真実一如という宗教世界から立ち上がって我らに呼び掛けてくるようになった阿弥陀仏の言葉を超えた真実の言葉である我らの魂の故郷念仏が我らに表現された中道が中道の本道としての念仏道こそが中道の本質であり、それが、ここに我らに開かれてきたという事でもある。
なんまんだ。

六代目圓生。

 六代目圓生の「佐々木政談」に桶屋の息子に「饅頭くれる母と小言をくれる父とどちらがいいか」と問うた。
 息子が「二つに割った饅頭。どっちが旨いと思います」と返事したという話を聞いたことがある。

 あみださんの本願と名号どっちが大事と同じだと思った。

 本願はあみだ様の心の智慧と慈悲の働きだ。

 名号は愛しい我が子を呼ぶ声だ。二つか一つで、一つが二つになっている。

 心配する心があるから、我を頼めという言葉の声になる。

 この二つを理論的に分け分析できるけど、その声を直接わが胸に響いて聞こえた時に生きているあみだ様に抱かれたような心地になって、ただ一つになって救われるから、二つは一つという事は後で考えられた理論でそれも有難い。
なんまんだ。

南無阿弥陀仏は人間の魂の実在を示す言葉。

 
 あみだ様が法蔵菩薩の修行時代に、自らの命を捨てても、すべての人が本来の人間の宗教心に目覚めてほしいと自らの命を捨てても救うという願いを立てたことが現在も個々の救済によって証明されている。

 この法蔵魂の宗教物語が人間の人格形成の原点としたら、人が人になるためには自らの命を捨てても人を救うことを惜しまない精神を育てなければならないようにできていることになる。

 その完成した喜びが宗教心と私から一つになって初めての出会いの感嘆の声がなんまんだぶつであり、そこにはそれまで私を育ててくれた宗教心の感動を持った人々である諸仏の喜びも詰まっているのだ。

 アミダと私と諸仏の出会いが時空を超えて私のなんまんだぶつとなっているのである。多くの言葉をこえた魂の言葉が本当のなんまんだぶつとなってきたのかもしれません。人間の魂の実在がなんまんだぶつという形になっているのかもしれません。
なんまんだ。

死は我が人生の完成。

 自力という自我意識は自己保存本能と強く結びついている。自覚的でありながら無自覚的に自我意識を教化してゆく働きである。

 この生来の自己保存本能というべき本能がより以上の自我意識の増強ために煩悩を起動しだす、人間にとって生きることは大切ではあるが、それ以上に宗教的な本能ともいうべき自我意識を超えた働きをする主体的なこの働きに目覚めないと、自我意識が作り出す自身をも覆いつくす無自覚な根本無明の闇に覆われた人生のまま終わってしまうのである。

 そのような未知のブラックボックスの根本無明の鍵を宗教意欲の光によって開かないと自己の宿命が作り出した過去久遠劫の罪悪の深さが自我意識さえも覆いつくしてしまうのである。

 このような過去と未来にわたる自身の苦業を現在に解決する道はそれらを超えた時空存在にある超越的な働きをしている宗教意識の本来性によるしか、その罪業の道に真実の光は我に届かないのである。

 自己自身が生来持っていた宗教本能の働きに目が覚めれば、現在、過去、未来の三世の世界は常にその宗教本能が働き輝き、現にその自我意識と対立しながらも真実の智慧と慈悲の光明に包まれた世界に生まれ共存していたことに誰でもが目覚めることができるようになっていたのである。

 そのなかで懴悔、慚愧の心がとめどなく溢れ出た時、その終わりには死をもってそれらが全て完成した形で我らに一大安心とした世界が与えられるのである。死をもって人間の一生の完成となるのである。
なんまんだ。

 「である」が多くてすみません。
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