命の時計

 
   誰でも命の時計は持っている
   寿命が尽きれば止まる個人時計を持っている
   ハイ、スタートから、ハイそれまでよと
体の時を均等に打っている

   誰でも時計を持っている。
   体の時計と反対に心が刻むリズム時計を持っている。
   ハイスタ―トは変わらないけど、みんなの心の変化を 
平等に刻んでいる仏様の無量の心の時計が動いている

二つの時計があるけれど、二つが一つになれない訳は
時を刻むタイミングが違うから
心の時計は人生はいスタートから一秒も動かない
だけど、あるキッカケで動き出す
動き出したら体の時計より時を刻むことが大様で
仏様の命の時計と同調し、体内時計のように
その人の心の中て永久に回り出す

    だから、この体が滅んでもいついつまでも回り続けて時刻

   そのチクタクチクタクの音がやがて皆にはナンマンダブツ
と聞こえだす
   このナンマンダブツも多くの人の諸仏としての体内時計の
お陰です
   そのおかげで私も今にこの仏様達がほめそやす阿弥陀様の
念仏称えます
   今に響くよ、このチクタクチクタクナンマンダ
チクタクチクタクナンマンダ

あみだ様と私

 人生は孤独である。多くの家族友人親類地域国世界の人々といくら仲良くやっても、孤独であり一人を逃れられない。心で繋がっている、分かり合っている、気心が通じていても、体も心も別々なのであり、永遠にこの体と心の壁は破れないのだから、根本的に孤独なのである。
心の中にもう一人の自分をよく知っている人がいない限り、阿弥陀様と言う、もう一人の真実の他人がいなければ、到底、自分のことは誰も理解してくれるはずがない。私の中で一番私を分かっている人がいてこそ、私たちは外にいる他人を親と言い子と言い、妻と言い夫と言うことが出来るようになるのである。
この自分を理解してくれる人がいて様々な人々や動植物とも命を通わせることが出来るのである。それらにもあみだ様が付いていると信じることが出来るようになれば、自然とそれらを見る目にも親しみが出てくるのではないかと思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

救いはボケじゃない

 救われると、お金や仏様や人に対して、もちろん自分に対しても、どうも今までと違った正しいものの見方ができるようになってくるらしい。それが自分自身に都合が悪いものでも。それぞれが、いろんな所や人から物を頂いたときなど、それらがみなあみだ様から頂いたもののような気がしてきたりするのだ。人や物に対する価値が大きいとか小さいとか多い少ないだけでなく、一応、勿体ないという宗教感情が入ってくるようなので人生が二重や三重の意味になって来て、一層、味わいが深くなってくるようだ。それと、物や人や自分に囚われていたことに気付き出し、だんだんそれらに囚われなくなってくるようだ。ボケて来たのかもしれないが、いろいろなものに囚われなくなってくるようになるから不思議な精神現象が始まってくるようだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

 三途の川

 意識を失った時、三途の川の向う岸から親しくしていた人たちの招きに応じようとしたら、「まだ早い」と言われ、その時、目覚めたという話をよく聞くことがある。
 あの世とは、その人にとっての宗教心で、普段の意識が死を感じて委縮してゆくとき無意識が顕在化してくるのかもしれません。宗教なんて普段、関心がなくとも、それが「いざ鎌倉」と言う時には誰にでもあらわれてくるもので、宗教は不断にそれを意識して、そこに救いを現在化しようとするもので現在に死後の浄土を、この世の地獄と共に小脇に抱えたりするという妙好人の話のもあるぐらい。
 大仰かもしれないし、根拠もないけど、宗教心とか信心の内実とは、我と言うものに収まるものではなく、我らと言う考えに収まる性質を持つものなのではないのかと思います。三途の川は、あの世とこの世を結ぶかわならば、生きているうちに、正々堂々と懸衣翁(けんえおう)と奪衣婆(だつえば)に「よろしく頼む」と言えるぐらいに、生きている時に仏の世界の実在を確信しておいた方が、夢などに頼らなくてもいいように思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

無量寿光の光はなぜ見えぬ!

 この世には見える光と見えない光があるそうだ。お慈悲は目には見えないけれど、「お慈悲は有難い」と言えば、仏ごころに目覚めた人同士なら、有難いという人に共感し「その通り」と言葉になって出てくるものだろう。
 その言葉から見えない無量光の光が放たれて、無量の智慧がはたらき出して、お互いお慈悲と智慧を感じあう。
 無量光の智慧の光が届いて、その人の宗教心と言う仏ごころか信心に感応反応して言葉となって出て御座る。
 無量の光を通さぬときは、宗教心や信心がまだ開発されてないときで、その言葉を分析解析分別する自我意識の判断でお答えするから、深い味わいが無くて、通り一遍の返事しか出来ません。今まで既知の知識が語った先師口伝の言葉を自分の言葉のように他人事として語るしか方法はありません。「そうですね」などと妙に頷いたり、心にもないことを感慨深かそうに言うしかありません。心に真実の無量光に触れていない隔靴掻痒感さえ忘れて「有難い」などと答えるしかないのです。
 お慈悲が見えるとは、宗教心や信心と言う仏の命によって起こっている、その人の宗教心から出る言葉によって、その人を超えた無量寿の光の用が言葉と言うものになって可視化された時に初めてその姿を現すものなのでしょう。
 なむあみだぶつはその意味で目には見えない無量寿無量光の智慧と慈悲の光に包まれた無限の光に包まれた仏の命を具現化した言葉なのだと思います。もし光が見えたなら私どもは、それを現金化して商売にするから、見えない用に阿弥陀様がして御座る。最初から有難いご配慮忝くも、勿体ないばかりでございます。

なんまんだぶつ
なんまんだ

アッカンベー

 人は死ぬものだと人が言う
 人は無常だと人が言う
 アミダは無量寿無量光だと人が言う
 人がそう言っているだけで私の問題には無関係。
 この私が死ぬという時に初めて死も無常の意味の深さが見えてくる。
 死を見つめて数日後一分後今の自分にとって死はどんな意味があるのだろう。その時はじめて真剣に逆に我が生の存在意義が問われ出す。人の悲しみ苦しみは三年でも我慢できると人は言う。いざ自分の番にならなけりゃ、梃子でも動かぬ自我意識。
 阿弥陀様も同じ事。本当に私の苦しみ悲しみが仏典に到らないと求めない。それまでは無用の赤の他人の「アッカンベー」と舌を出す。
 無量寿無量光もわが身の尻尾から出ているホタルノヒカリで斟酌す。わが身に届いた無量寿光や、お慈悲の無量寿に心の底からナンマンダブツをすれば、すぐに分かること。それまでは人も仏も他人事、世間様に一時預かりお預けだ。それまでアミダは血を流す。

なんまんだぶつ
なんまんだ

ひとつになる

私を超え包む用きに気が付いたとき、無限の中の一個の尊い縁生存在だと気付き、さらに自我が真理にさらされ崩壊してゆく。それと同時に無明の闇が晴れ、実体的な我はもともと存在しないと気が付き、真実の用きに歓喜慚愧する。 そこに、今まで囚われていた生死を根本とする一切の対立概念が虚無であったと知らされ新たな無我の世界がここに開かれてくる。もともと、そういう空無我の世界に在ったことにおいて私がここに存在させて頂いていた不可思議存在として、空無我から有我存在として与えられていたことに、さらなる不可思議を覚えるのである。そこには、ここにはもともと、死もなく生と言うものもなく、ただ非存在としての縁生存在としての空存在に統一された、ありのままなる単一の生のみが与えられているだけなのだと自覚してゆく。
 しかし、煩悩具足の凡夫の心の深い煩悩は消えないが、救われた懺悔と歓喜を伴った真理の心が起こってくるのには違いがないのである。そういう無限と有限の空無我と有我煩悩とが軋むところの音が、吾の耳に聞こえてくるナンマンダブツであり、その音が生きた意味ある言語としての仏と我の念仏になった無限からの叫びでもあると知らされてくるのである。 

なんまんだぶつ
なんまんだ

念仏子守唄

 雨の音を聞いて覚った人がいた。梵鐘や風の音を聞いた人もいたらしい。ナンマンダブツの声を聞いて信心得た人もいる。どこにでも転がっている悟りや信心のようだけど、やはり、何かのきっかけがないと人はなかなか気が付かないのだろう。
 様々なキッカケに満ちた世界の中に私たちはいるのだろうけど。幸せになったと言葉で考えたりするけれど。もし言葉が少なくなったら、言葉の心だけ手理解できるようになったなら、もっと素朴な感情と本能とだけで生きて行けるかもしれないな。余計な言葉が大事なキッカケを見失わせているものかもしれないな。
 言葉があるお陰で逆に様々な悩みや苦しみを作り出し、精神的な煩悩がいや増して、猫や犬のようにゆっくり昼寝もできなくなってしまったんだろう。
 だから、その反動で、ゆっくり夜寝ができるよに、念仏がそんな余計な言葉を押し殺し、言葉の本質に帰らせてくれる言葉の母親アミダ様が無理に人間に呼び出され「眠れ、眠れ、良い子だな」と念仏子守唄をいつのまにか謳い出したのかもしれないな。

なんまんだぶつ
なんまんだ

理性神

 人間の理性は全て哲学的合理的な論理に導かれてゆく。そこから突き詰めてゆくと自然に宗教という不合理のようでありながら人間の全智を象徴する宗教という非論理的でありながら統一されている宗教的な整合性がある世界に到る。哲学と言う人間の日常的な分別智がそれを統括している宗教的な無分別智に到るためには、人間智の限界に達し、無限智からの挑戦に敗れて向こうから開けてくる世界に自らを開かなければならない。無限大の智慧と慈悲を持つ仏の用をする無分別智は人間、自己が作った、諸神や諸仏と戦って獲得した真性の仏智である究極の自然なる人間智であり、生死に迷う人間の人生を分別する根本的で絶対純粋な理性神でもあるのだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

唯除について

十八願文と成就文の「唯除」は阿弥陀仏が吾らの真実の姿の限界を見て「五逆誹謗正法」と凡夫が終生抜きがたい本能や煩悩に基づいているので「これは最初から除いておくね。無理しなくていいからね。知らせておくだけだからね」という究極の弥陀の慈悲と智慧の働きから出たお諭しであり、凡夫への最後の妥協点であり、今生での御赦しなのだと思う。それは、最初から凡夫が自ら取り除くことなどできない、死んでしまっては今生では仏法どころではなくなってしまうからだ。だから本願を信じていてもこれだけは除けないけれど、来世の浄土ではもういらないものだという事を知らせるための言葉が除であると思うのです。(続く)