信心の興り?

 宗教心の今だに溶けていない心の塊が、誰の心の中にもあって、それが疑いの蓋と言うマナ識の倒壊によって脳内にある海馬のごとき細胞が活性化するものなのだろうか。
それが人間だけの悩細胞の中にある根源的な宗教的な集合生命の意思の活性と結びつき、いわゆる腹底からの如来の蜂起としての意識を通しての信心念仏の台頭と言う事なのであろうか。
 逆に腸内細胞の中にこそ真の宗教心が存在したら面白いのにな。

命の繋がり

スーパーで買い物をする。トマト、カボチャ豆腐納豆肉魚。何を買っても成長成熟したものばかり。そこには、それを育て共にそこに命が育った泣き笑いや成長は無かったな。いきなり大人になった子供を見ても、こいつは俺の子かとはにわかに信じがたいとなってしまいます。
それを私が働いたというお金で買ってもそこには命の共感がなかなか生まれない。自分で育てた野菜や果物でなければ結局自分の命もお金で済ます貧しい人間になって行くばかりになるのかもしれません。
仏の声を聞くとは阿弥陀仏の清浄意欲が私の深い心の井戸の中から地上に沸き上がってきたことであり、それは智慧と慈悲の宗教感情と宗教的理性と言う真実の至心信楽欲生を根本とする仏の、そして、それが私の真の勇気と愛と希望としての真の主体の私の登場だと思うのです。
ですから、真実の聞名とはこの抑えがたい至誠の要求が私の心から初めて起こるもので、それは人間の根本的な喜びになるのでしょう。
これは私に初めて生まれた真実の心であり登場であり、言葉にすれば、私の心からのなんまんだぶつという叫びそのものの原形なのだと思うのです。
南無阿弥陀仏
「浄土は言葉のいらない世界」曽我。これは心が通ずる世界。夫婦も最後は「あれ、どれ、それ、これ、そう」ですむ。政治家も「あーと、おー」で済むらしい。

 念仏は宗教的なダイナミックなゼロポイントの世界だから、往相還相の行き交うワームホールのように人と仏が精神宇宙を駆け巡る真実一如のはたらきを現しているから言葉を産む世界であり、言葉を奪う世界でもあると思うのです。

言葉と言う伝達手段のいらないテレパシーの世界のようなもの。そんな精神感応の世界が仏と仏、そして、それが純粋浄土世界から汚れた言葉を使わねばなにも伝わらなくなって堕落した人間の世界にまで及びだすことになったのが宗教の始まりなのだと思います。

 「人間は言葉が必要な世界」言葉を重ねれば重ねるほど理解が出来る時と出来ない時がある。その原因は一つ。

 そこに真心があるのかないのかと言う事なのだと思います。真心はみんなが持っている宗教心がその核になっているのだと思います。

 それは仏の真心のように純粋で智慧と慈悲に溢れた心から出るものだから、その言葉にも拙くても、二人を超えた誠意が感じられてくるもののではないのでしょうか。そこまで話し合えことが出来れば、人間同士の話し合いも確かなものになってゆくのだと思いました。

なんまんだぶつ
J・Kローリングの「ハリーポッター」に出てくるポッターの最後の強敵、最悪最強の魔法使いはヴォルデモートだ。その名を言うだけでその恐怖がよみがえってくるという恐ろしい名前だ。

だから「あの方とかあの人と」名指しでは呼ばない恐怖の名前なのだ。陰で悪口を言う事さえ憚られるというも名だ。それに従えば身の安全は恐怖で支配され、やがて奴隷となってゆくのだ。
 
それに引き換え、アミダは逆に全の魔法使いのようだ。その名を呼ぶだけで全ての人が苦しみから解放されてゆくというのだ。陰で称えてもその願を聞き届けるという正義の名だ。人間を正しい道に導き正思考法、正しそうに歩ませる呼び名であったのだったのであろう。

 本来の仏道とはただ単に仏の身名を称えれば誰でもが救われてゆくものだったのだろう。親鸞は「行の巻」にみ名を称えることは衆生の一切の無明を破し、一切の志願を満たすと述べているからだ。救済の根本原理とは案外こんなところにあったのではなかろうかと思うのです。

なんまんだ

呼び声

 阿弥陀如来が言葉としての救いの名にまでなった。如来の働きが叫び、呼び声として私たちの耳にまで届くように、耳から入る仏様とまでなって、自我意識一杯の私にまで響き聞こえるまでなったことが聞名である。
    聞名とは如来の働きを呼び声として感受した凡夫の心の闇の中まで届くように作られている仏のはたらきである。闇夜でたよりなるのは呼び声だけである。その方向へ歩めばよいのであるから。聞こえてくる、聞いてくれと迄声にまでなって呼びかけている一声の言葉になった仏様である。
    如来回向もこちらから向こうへ回向してゆくのではなく、呼びかけて迷っていくのではなく、如来の聞いてくれと向こうからよびかけているこちらに回向されてくる言葉にまでなった仏様なのである。この回向と聞名から仏の名号が自らを出て名となって呼びかけて、呼びかけられていると知って、そこに我らが跪くところに仏智慧慈悲が全受されることを聞いた、聞こえたという聞名となるのである。
なんまんだ

信心

 
 同じ信心なのに自力信心と他力信心がある。もともと信の字解は純粋な神の前で人が固く約束をするというものでした。だから信ずる心とは人と人が純粋な約束を守るもので、欲の心などは1ミリも入っていないものだった。

 だから、それはもともと仏様の心だと思うので自力も他力もという言葉はもともとないものなでしょう。純粋な信心とは尊いところからやってくるものだと思うので、それは例えば仏様から回向されたもので、上から積み木と言う信心が積み重なって行くようなものだから、その上にただ乗っかっていればいいというものなのでしょう。

 すでにそれ自体が完成している者なのだから安心感がまるで違います。それに対し自力の信心は自分自身の不純な心が混じった積み木を積み重ねて行くようなものかもしれません。 まがい物が入っているから積み上げる旅にぐらぐらし傾きやがて倒れていくものなのでしょう。
なんまんだ

うまくいかないね

この世にはうまくいかないことが沢山あって勝った、負けた、損した、得した。不利な時ほど苦しい時ほど、不平等不公平と思えてくるな。だけど、今はそうかもしれないけれど、あの世に行けば、そんな貸し借り一切無くなって、みんな平等で自由な魂になって世界を駆け回るようになる。それを思えば今の世の人生で足りないものを補い合えると思うのですよ。
 今損しても次の世からは生まれ変わって同じように得することが出来ると信じることが出来たなら、今の世を見る見方も考えも、少しは広く見えてくるのではないのでしょうか。そんなことを思って浄土を考えて生きて行けばこの世への執着も少しは薄れて楽に考えて行くことが出来るようになるのでしょう。 
 こんな調子で今を生きることが出来たなら、一切合切擲って負けてしまっても、この世の人間関係も、一端あの世に行けばリセットされて平等意識になって、平和になってしまうのではないのでしょうか。そんなことを考えながらこの世の墓じまいならぬ、私の人生じまいも悪くはないと思います。みんな仏の智慧を頂いて。
なんまんだ

ブッダの言葉じゃダメなんだ

 ブッダのように覚りを開かない限りブッダの言った真理の言葉は心から理解できないだろう。悟りを手段や方法とするだけなのだろう。そして、覚りの周りをグルグル回って一生解説して死んでいくだけなのだろう。
 逆に覚ったら、もうそんな言葉の受け売りもなくなって、ブッダがブッダの真理の言葉として個性的に語ったように、我らもさっさと覚って個性的に我らの言葉で真理を語るときなのだ。
 農家のおやじは畑で使う道具や草をネタにブッダと同じ真理を語り出す。寿司屋のおやじは寿司をネタに真理の言葉を語りだすだろう。

なんまんだ

因果魂

 ブッダにジャータカ物語があるのはなぜだろう。
 過去五十三仏があるのは全ての命は一つの命に共通する歴史があるならば、私たちにも科学的ではない宗教的な意味での命のと言うよりも、もはや一個の歴史的な魂の来歴とでもいうべきあってもいいのかもしれないな。それであれば、その時気付いてもその因果関係が見えなくなった過去や、見えない未来に置換することで、現在の傷の意味を説明できるような気がします。
 親からやられたら、その親に前世で私がやったことをしたからか、お互い因果魂の平等性があれば、今生も生きられるし来世もという期待も楽しくなるのではないかしら。
 平等だとなって行く。そうすれば現世での罪作りも激減して行くのではないのでしょうか。ただ仕込みの悪用は出来ません。

なんまんだ
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