永遠の愛に生きること。

 男女が永遠の愛を誓うほど恐ろしいことはない。

 現世の虚しさからくる永遠への憧れ。神にその愛を誓っても三分の一は誓った愛を自己愛で裏切っているからな。

 人間にとって永遠ほど厄介なものはないのだから。

 永遠だから今の愛の誓い が神のごとくいつまでたっても続く輪廻転生があるのなら、二人の生活がまた同じ相手と続くのだ。

 世を渡る家庭生活の苦労も精神的な自己矛盾とも戦うことになる。

 それらが永遠の愛に縛られ続くのだ。

 それほど人間は永遠ではないので、この現世だけの愛の永遠性なら有限の愛になる。二人で勝ち得るものもあるかもしれないが、永遠とか平和とかは一人一人が獲得するもので、本質は同じでも理解や表現や宿業が違うので、一致することは難しい。

 それを知っていてもなお難しいのが永遠を生きようとする強い意志だ。

 永遠でないものを持っている相対性で限定的なところを乗り越えて行けるならほんものの幸福と言う物に出会えるのかもしれないな。

 永遠の愛や平和は神や仏に任せて、人間は人間らしく喧々諤々と生きていた方が永遠の愛よりも正しく合理的なような気がします。

 限定的な自己愛を持ちながら無限の博愛に生きる矛盾を人はいつまで生きなければならないのでしょう。

 なんまんだ。

不即不離

 死後の世界を正しく知っていたら、今の生の世界は心から安心して生きやすくなるのだろう。

といえばブッダは死後の世界は云々という。

 ならば、生の世界を完璧に知ったなら死後の世界に意味がないと果たして言えるのか。

 死後の世界に意味がないなら生も同じ次元なのではないのか。

 最初から生も死もという概念そのものにも意味がないものなのかもしれないが果たして、そんな意味のない生も死も生きる意味がないのではないのか。

 生の中に死もあるなら生の中に死もあるはずだ。

 肉体の死と心の死は違う世界のものだ。

 ブッダは肉体の死後を言ったのであって心の死後を言ったのではあるまい。

 心と体は不即不離だがブッダの言葉の体の死後の言葉に重きを置きすぎているのではないのか。

 心は一貫性を持っているようで、そうではないし、親鸞の愚禿鈔「前念命終・後念即生」の念が人間の一つの心ならその心の変遷である自力意識が他力意識の前に本願念仏に帰命という意識の終わりを迎えるという事だ。完全な自力意識の死滅ではなく、自力意識と他力意識の主体の変換が行われたという事だ。

 そして、摂取不捨意識に古い意識心が新しい自己の主体を得て浄土意識を持ちながら娑婆に往生意識をもちつつ再生できたという事だ。

 本来の人間意識が全体現したことを意味しているのだ。

 であるから、人間の心の本質が心を超え包む仏意識に目覚めれば仏の新しい真実の意識が認識され真の自己自身に生まれ変わる、というよりも本来の本源的な自己に目覚めることができるので、ここでいうブッダは死後を説かなかったではなく心の死後の世界の宗教心に覚醒した、浄土意識の世界死後の世界は説いたというべきであろう。
なんまんだ。

根拠はないけど関係性からこう思う。

 念仏は宗教心の発現と自己確認。
 こちらが求めているのでなく、求めずして、向こうからこちらに求めているものに気が付くことだ。

 それが、向こうから、こちらに現れてきているのだ。いったい何をしにか。お互いに存在確認をしにか。

 一体感を求めてなのか。

 こちらは一向にそんな気がなくても、こちらがいざという時に現れてくるから、絶対に必要条件的な存在なのだろう。

 そして、それ自体が親和性を持ちながら、独立性を保ちつつ我らに根源的な影響を与え続けてきているのであるから、こちらにとっては真の主体というべきなのだろう。

 自我意識に侵されない真の自立性を持った主体になっているのだ。 

 主体が主体として独立していながら普遍性を離れないものなのだ。念仏が念仏しながら真の念仏の独立主体を個々に分散させようと常にはたらいている。

 念仏主体が自主的に自己実現しながら他の自己実現を促している。

 念仏すれば自己確認をしに私がここに現れ、私の真の主体を知り、それを喧伝する役割も与えられているのだろう。

 なんまんだ。

一ミリ一生

 今は少しも動かなくてもいいんだな。

 今まで動きすぎたから。

 ゆっくり寝ていればいいだけだ。

 それでも、そのままだと死んじまうだけだから、生きていた証 拠があればきっと誰かが見てくれている。

 それが自分自身でもいいじゃないか。

 そうだな、一日一ミリはいいかもしれないな。

 好きなものを好きな体の一部分を動かしてみようかな。

 千里の道も1ミリからだ。一生1ミリのまま死んでもいいじゃないか。

 そんな人生があってもいい手本になれば立派なものだ。

 瞬き、一息、指パッチン。

 あいつ馬鹿じゃねえの、の一言でもいいな。

 たまには、にっこり微笑む真似もいい。

 それも嫌ならただ寝ていよう。

 そんな人生があってもいいな。

 60億人もいるからな。俺は俺の道を行く。

 なんまんだ。

宗教的な人間になる。

 いつから人間が宗教的な人間になるのかは知らないが、言葉を話し忘れる頃までだとすれば三歳でも救いの対象に入らなければ真の仏の救いや悟りを説く仏教にはならないのだろう。

 すでに、あみだの本願念仏は老少善悪の人間を対象としているから大丈夫と歎異抄。5歳未満の入場お断りではないのだ。

 法を犯し酒やたばこを吸うなんて何でもない。厳しい修業はすでに永遠の昔に済ませたあみだ様が、そこから編み出した特別な方法は、これ一つで必ず全員を必ず救うという約束を信じる念仏一つでいいという。

 もっといえば、信ずる私が無信でも信じる主体があみだ様にあるから大丈夫とまで言っている。

 母親と今別れ行く三歳の子供でも、ベッドで青息吐息の老人でも、この金言ならば腹の底まで届いて、心から宗教的な人間になった自信と実績があったからの念仏ただ一つ。

 苦悩に喘いでいる我らにこそ、その大いなる功徳を享受宣伝してほしいとの願いがあるからなのでしょう。 

なんまんだ。

宗教的な人間になりたい。

 いつから人間が宗教的な人間になるのかは知らないが、言葉を話し忘れる頃までだとすれば三歳でも救いの対象に入らなければ真の仏の救いや悟りを説く仏教にはならないのだろう。

 すでに、あみだの本願念仏は老少善悪の人間を対象としているから大丈夫と歎異抄。5歳未満の入場お断りではないのだ。

 法を犯し酒やたばこを吸うなんて何でもない。厳しい修業はすでに永遠の昔に済ませたあみだ様が、そこから編み出した特別な方法は、これ一つで必ず全員を必ず救うという約束を信じる念仏一つでいいという。

 もっといえば、信ずる私が無信でも信じる主体があみだ様にあるから大丈夫とまで言っている。

 母親と今別れ行く三歳の子供でも、ベッドで青息吐息の老人でも、この金言ならば腹の底まで届いて、心から宗教的な人間になった自信と実績があったからの念仏ただ一つ。

 苦悩に喘いでいる我らにこそ、その大いなる功徳を享受宣伝してほしいとの願いがあるからなのでしょう。 

なんまんだ。

来るということ。

 自力意識は「観える・聴く」。他力意識は「見えてくる・聞こえてくる」というあみだの仏力意識。他力が「くる」で「聴く」ではないので一見消極的に見えてくる。

 しかし、仏力の本願力は強力で絶対的な真理の用きだから、それを抑え込んでいた自力意識が一時的に主体のように見えてくる。
 しかし、仏法を聴きぬけば、やがて、いつかは今まで囁き程にも聞こえてこなかった声が、その、真実目覚めよと、かねてから目覚めよと呼んでいる遠くかなたから聞こえる仏の呼び声が、決して私からは出てこない呼び声として、いまは身近な諸仏の大音声の本願念仏として聞こえてきていることに誰でもがいつでもどこにいても気付かさせてもらうものなでしょう。

なんまんだ。

ここに仏あり。

 どんな小さなことにも真理は虚偽の皮をかぶりつつその中から表されていると思うのです。

 虚偽と真実は相反するのではなく真実の中の方便としての虚偽ではないのかと思うのです。玉石混淆として提示され、その中から慧眼を得て見極めた時に与えられるものなのでしょう。

 存在と非存在においても真理の全てつつまれていると思うからだ。時代によって隠れたり現れたりはしないからだ。

 多くの場合にそれを見つけられずに真理の一片を捕まえそれをすべてとしてしまうのではなく、虚偽に出会いそれを乗り越えていたるところに虚偽の役割が改めて意義のあるものであったとなるのでしょう。

 すべて真理であっても我らが真理を虚偽であるとみる意識を終生持続せねばならぬ悲しい存在ならば、全ては真実の仏の顕現であるという認知は無限に不可能になるのかもしれません。

なんまんだ。

デクノボーへの道。

 「賢く、賢くなれ」という世の中で、馬鹿になれと言われても意味不明で、すぐなれぬ。仏の真実の深い愛と智慧に頭が下がって初めて本当に仏様だけに愛される馬鹿になることができるようになる。

 それまでは急場凌ぎの馬鹿で本物の馬鹿になってない。馬鹿になりたくない心は一生なくならないから、心の底から馬鹿を愛する馬鹿になることが一大事。

 本物の人間として歩む真の馬鹿になれない心を持ちながら馬鹿への道を一直線に歩む道。賢く、賢くなって幸せになる聖人道でなく、親鸞はありのままの馬鹿は馬鹿のありのままの自分を認めて生きる姿を親鸞は凡夫道と言いました。宮沢賢治はデクノボーといいました。
なんまんだ。

亡き人を阿弥陀仏が全員救うこと。

 死んだ親や子が不信心で死後にどこかで迷っていても深く覚った人があの世で仏になって神通方便で救うことができると親鸞は歎異抄で言っている。

 死んでアミダ仏になれば、永遠に迷う人を誰でも救うことができるらしい。救うとは何に迷っているのかを知らせることだから。

 自身の正体を正しく知ることだから。しかし、死ぬまで煩悩成就して生きている人間には、いくら悟りや信心があっても迷っている人を完全には救えないが救われる道を教えることはできるのだろう。

 だから、あの世での被害者を増やさないために、この世で出来る限り仏法のご縁作りに励んでゆくしかないのだろう。救うのは阿弥陀仏だとしても。
なんまんだ。
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