カラスの独り言

言葉はみんな生きている

言葉は単に人間の独占物だと仮定する。何故なら、阿弥陀仏が躍動している阿弥陀仏が作った信心の無い念仏を人間が称えることができるからである。
一方、アミダの信心という真実一如のはたらきはアミダの独占物だと仮定する。
この別々の世界の産物が永遠の今である信の一念で一つになった時、アミダと人間の共通の広場が時空を超えて我々に現在することができるようになる。
信心とはアミダの心であり、純粋な仏の慈悲と智慧は永遠の命と限りない智慧の光として我々を常に目覚めさせ続けるアミダの永遠のはたらきである。
これを人間に直接与えようとあみだは常に働きかけているのである。しかし、有限存在である人間の機能には、それを受納できる機能の器がないのだが、そのはたらきを仮の器として受け入れることができるものとして南無阿弥陀仏という言葉が人間と阿弥陀の共通の理解としてできたのであろう。
人は、アミダの心を求め、アミダは人の言葉の器を永遠に求めている。
ときとして、求める求道者の南無阿弥陀仏というこの言葉にアミダの心が満ちた時、その言葉はやがて一人立ちして、人間の心と共に、一人の人間を人間たらしめてゆくはたらきを始動しはじめるのである。
これを念仏道の初門位ともいい、信心獲得ともいい、正定聚不退転位ともいうのだと思うのです。初めから誰が称える念仏にも弥陀の心は入ってはいないのですが、この言葉自体が求めているアミダの純粋な仏の願いの方向だけは誰でもが初門位の自覚態度として知ることはできるのです。そして、そこにアミダの清浄無垢な心がはいればこそ南無阿弥陀仏が私にとっての真の生ける言葉の仏身にはじめてなるのでし

無我と自我

仏教は無我の教えだから、自我心というか、有我心に満ち溢れている人が本質的な興味を持って探求しだして近づくと、それまでの人生経験が全否定されてゆくような存在の全面的な否定感をすべての人が抱くようになる。然し、その関門を潜り抜けたところに、自我心が根本的に全否定された世界の地平が見えたところに出た時、全否定され、跡形もなくなったと思われた自我意識の居場所さえも許されてあったと気が付く真実の如来のはたらきと常に調和的に対峙できる世界に出るのである。
全面的に無我心に否定されたはずの自我心が、はじめて顔を洗って出直すように無我心のお手伝いをするようになる世界が私に与えられるようになるのである。
これが本当の無我の教えの簡単な構造だと思うのです。 

野生の念仏

 親鸞のいた関東時代の念仏者の中には多少教義学者もいただろうが、多くは、いわゆる、自分の身近に起こった宗教的な課題に情熱を素朴に燃やし、烈しく自己表現し、課題に素直に立ち向かう人が多かったのではなかろうか。その熾烈な心からわき出でる宗教的な課題に真摯に立ち向かい、しかも、熱烈な行動力や熱気をもった一文不知の尼入道たちが多くを占めていたのだと思う。
 その後、蓮如上人によって一党独裁的で独善的カリスマ的な指導による教団の統一によって門徒は国家と対峙し、結局、教団としての組織はこの後、明治時代まで教学的にも組織的にも300年間幕府と明治政府に法的管轄化の下で生きることになった。
 大戦後、今日に至るまで、親鸞に帰れ、と教団の号令の下、それまで長く続いた伝統教団の迫害や弾圧や自己崩壊を経験するうちに、やがて組織内で教学の統一がなされ、国家の中の一宗教法人としての地位を確保した。
 科学的文献学的実証学的でなおかつ比較宗教学出来な現代的環境で民主的な寺院運営、寺院子弟の教育が大学までの一貫教育の中でなされたら、今後、さらに多くの念仏者が出来るだろうと期待されていた。
 しかし、現実には、このような教団的な現実や時代に対応した民主的な体制や個人の人権や教育的な優遇制度にもかかわらず、なぜか、今日、学者の真宗から、以前のように活気のある野生の真宗に盛り上がらないのはなぜなのかと、小生はいつも小首をかしげております。

ー親鸞聖人の念仏ー

   
 親鸞聖人は念仏を人や自分に
ただ称えるように勧めたのではない
 念仏することでアミダ様との対話を
人にも自分にも勧めたのだ

楽しいな
うれしいな
悲しいな
なるほどな
不思議だな
ありがたいな

これほどの喜びや楽しみは
趣味や道楽や各種の遊びにはない

これこそが人間としての究極の
人生最高の喜びだと知ったからだ

だからその喜びを人にも自分にも勧めたのだ
その喜びが悲しみが自然の弥陀の呼び声
ナンマンダブツの称名念仏だったのだ

なぜそれほどの喜びがあったのか
あみだ様はホントの私だったから
そしてその私と一緒になって
ナンマンダブツになるために

ナンマンダブツ
ナンマンダ

親鸞聖人の出会いと別れ外観

 宗教的な意味で親鸞は流転の地獄から別れ、現世の地獄世界に生まれた。
両親と死別し、比叡山の仏道に出会った。
 比叡山の伝統的な仏道修行と別れて、法然の本願念仏の教えに出会った。
 古来の正統的な成仏道とされた雑行と別れて、阿弥陀仏の本願念仏に帰した。
 親鸞の教学的趣意を慮った法然からもらった法号綽空と別れ、親鸞と自ら名を改めてもらった。
 僧職は妻を娶らずという慣例と世間の常識から別れ、真の仏弟子として僧職のまま妻帯した。
 念仏弾圧により、親鸞の名前と別れさせられ、俗名藤井善信となるも愚禿釋親鸞と自ら名乗った。
 京都の人々と別れ、北陸と関東で海と大地に生きる人々と共に念仏を広めた。
 それまでの伝統教学と別れ、教行信証で念仏が大乗の至極とした。
 30年過ごした土地と門弟と過ごした関東生活に別れを告げ、京都で新たな著作に励んだ。
 家族と妻子と生き別れ後には長男善鸞との義絶があり、京都で新たな和讃などを著した。
 娑婆の縁と別れ、浄土往生を遂げ、今も私たちの念仏となって今も生きておられる。
 ナンマンダブツ
 ナンマンダ  

ーのりうつるー

―のりうつる―

殺したものが
殺されたものから
のりうつられる

肉が肉になり
血が血になる
憎しみの心が
憎しみの心に
なって私に
のりうつる

だから私は
様々なものを
背負って生きている
それがいつ心に出て
口に出て体に
出るかわからない

良いと言われることも
悪いと言われることも
みんないつかは
きっと出る

地獄に持っていける
ものは何もない
心に出たり体に出たり
言葉に出たり
何処にもみんな
隠しようがなくて
大弱り

一番それが顔に
たまって出るらしい
鏡を見ればみな
分かる人がこ
の世にいるらしい

例えば
地獄の閻魔大王が持ってる
浄玻璃の鏡に映せば
みな分かる

生きてる時もみな分かる
どれほどの悪かみな分かる
心の鏡念仏すればみな分かる

こんな心を持っていりゃ
誰も助けは致しません
こんな私を救うとて
あみだ様が私にのりうつる

そして、これまでの悪を
みな乗せて私丸ごと弥陀の船
載せて必ず渡しける

ナンマンダブツ
ナンマンダ

ー感じる感じないー

―感じる感じない―

肝心なところで人は感じない
肝心でない所を肝心だと
必死に追い求め感じたい

追い求めてるわれの正
体分からないまま
目の前の肝心でない
感じを求めてる

吾が吾になるという
如来に救われるという

一番肝心な人としての
一番の究極の最上の
根本の根源の
肝心要の人としての
一生涯震えるほどの
喜びの感じを感じないで

小さな悲しいすぐ空しくなって
また追い求めて果てしない
霧をつかむよな夢を
見ているような
すぐ後悔するよな
空虚なものばかり
求めてしまう小さな感じ
とはもうサヨウナラ

あみだ様に救われ与えられ
たる智慧慈悲は
私の五欲に勝るもの

これ以上に減っていかない
ほんとの感じの感じだな

みんなそんな智慧の力が
慈悲のやさしさ持って
輝かしたくて
うずうずしているだけなのか

ほんとの肝心かなめの感じ方
本来持ってる人間の
根本的なするどい感じを
みんな持っている

そんな感じの真実の
ふるえを感じたら
小さいふるえや感じ方も
恐れ入りましたと
すぐに納得するだろう
ほんとの感じ方に
味方するだろう

ナンマンダブツ
ナンマンダ

初めから一つだったんだよな

アミダ様の法と、凡夫の機が同時に私の身の事実というところで対話して、矛盾なく成立していることがある。
黒い色と白い色を混ぜれば黒くなるのだが、この場合はそうはならずに、それぞれが独立して混じらずに一体化して、しかも、それぞれの機能が損なわれずに働くことができ、その人を真実一如の真理の世界の高みへ押し上げてゆく。
そして、さらなる自覚を深めさせてゆくはたらきとしてさらに一体化し、清澄化させてゆくのである。
このような相を自然体の生き方をしている人間とか仏教的な人間というのかもしれない。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

ー知ってるだけー

私が地獄だから罪悪深重とか、愚悪の凡夫とか、地獄一定とか親鸞一人がためという言葉が出てきたり、いきてきたりするのであって、私は、今、この世に生きているのであって、まだ地獄や極楽は先の話で、どちらかに行くかもしれないと理性で考えているだけで、本当の自分自身の現実の姿を直視したことも、聞いたこともないところから仏教や真宗の言葉を他人事として知識として知っているだけで、無理にその形に自分を当てはめて罪悪とか凡夫という仮面を被って救われたような心境や、これから救われたいという過去や未来の話として受け止めようとしている私がここにいるだけなのです。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
ー泣き仏ー
 ダルマさんとは仏様に手も足も出せなくなった人のことです。
 神仏に対しああでもないこうでもないとか分かったとか分からないなんて言ってるうちは神仏に手を出し足を出しついでに口も出しているのです。
 それらは理解や信じようとしている心でなく、自分の世界に仏を引き入れようとしているだけの邪険な心その心が働いているのです。そのうちはホントのダルマでなくまだ悩み多き人間にとどまっているのです。
 その人間の思慮分別も滞りは足らなくなってやっと仏様の方が手を出せるようになって、救いの手が出せるようになるのでしょう。だから仏様が活躍できる心的環境を作ることが大切です。
 それまでは仏様がまるで泣いてる赤子をなだめすかすために、いろいろその子の立場まで降りて一緒に泣いてくれる。それもそれ以上の仏にするためです。泣き止むまでひたすら一緒に泣いて待っていて下さっているのです。
 念仏するなとか、なにも手も足も出すな止めろと言っているのでない。手出しをすることに意味がなかった、いくらこの手を出したままでは救われないという事です。自分の思うように救ってほしいというのは本当の救いになりません。人間世界の救いです。仏の世界の救いは完全なる救いなので救われた世界の質が全く違うのです。
 だからそれまでは手出しをする事の意味のなさを知るためにやはり誰でも手を出すしかないのです。
 この仏に包まれた意味のない世界、自己の限界、生死の限界を超える問いの答えは人知の範囲では無理という事です。これをお任せの世界といいます。
 助かっても悲しい思いはなくなりませんか世悲しみの質が変わってきます。泣きながら救われるので私は自分のことを泣き仏と思っています。
NEW ENTRIES
(untitled)(05.19)
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS