カラスの独り言
ー立派な人間になれー

 立派な社会人になれという。立派な先生になれという。立派な和尚さんになれという。立派な営業マンになれという。立派な社長になれという。こんなことを言う人は、どれだけ立派な人間なんだろうと思ってしまう。
 これは決して立派でなくていいと言っているんじゃない。こんなことを言う前に、立派な人間の最終形はいったいどんな人間なんだろうなと思っただけだ。
 他人から評価、期待されるだけの他人の希望する夢を実現する道具としての人間金型に沿って生きる人間よりも、お釈迦様のような自分の心の世界を十分に知ってから、本当の人間になってからでないと、どんな職業に就いたとしても本当の立派な人間にその基本がなければ、他人があやつる、社会の要請という名の、その時代にしか合わない一過性のファッション人間の使い捨てマネキンになってしまうのが結局の落ちじゃないのかと思ったからです。
 立派というブランドのついた名のロボット社長やロボット先生やロボット何とか人間が増えたら寂しい世の中になってしまうような気がするんですよ。それでなくとも私を含めて多すぎますよ、そう思っていない人間の真似をした私のようなロボット人間が。ねぇ、お釈迦様、親鸞様。

願の器

願の器

ブッダは「己が身に引きくらべてころしてはならぬ、ころさせしめてはならぬ」といった。この言葉は私にとっては死刑宣告に聞こえます。
だが、ブッダ自身は80年間いのちを食べ続けたではないか、この言葉は悟れないで苦しんでいる人間に対する皮肉ではないかと思った。しかし、ここには殺すものと殺されるものとの単なる優劣的な関係ばかりでは判断ができないものがあるように思う。

そこには殺すものと殺されるものとの関係ではなく、命は命によってつながれてゆくものだという関係があるのではないのか。つまり命を奪われるものは、ただ憎しみや怨みだけではなく、死んでゆくのなら「私の最後の願いを聞いてほしい。あなたが私を食べて本当の幸せになってくれたら、わたしもそこに共に喜ぶ命として生き帰ることができるから」と願って死んで行ってくれたのではないのか、そういう願いが命を持つ者の心にあるのではないのかと思ったのです。
   命は奪ったり奪われたりする優劣関係ではなく、縁によって立場は違うが、命は与えられ、捧げあう中にあるのだと思ったのです。一つの命の中には様々な命の願いが託され、含まれていて、その命の願いに目覚めて生きてゆくところに命をもらったものの責任と感謝があるのだと思います。命を頂くものとしての資格もそこに生まれてくるのでしょうし、みんなはそこに気が付くために命をもらっているのだと思うのです。
  「己が身に引き当てて」とは、今ここで私は殺される、あるいは何かのために命をささげるとき、最後にどんな希望を持って死ぬことができるのだろうかと同じ事だと思うのです。そんな時間はないと言わずに、今考えてみたいのです。
そうしたら、全身脱力した時、自分の様々な願い事も断念しなければならないでしょうが、わたしの分も生きてくれとか、後は頼んだとか、さまざまな希望や夢があるでしょうが、相手に命をささげるのであれば、相手を恨むこともあるでしょうが一切関係なく私が不条理に命を奪われることになったとして、最後は私の本当の願いは、私が幸福になること以外にないのではないのかと思うのです。
今はかなわぬその幸福をたとえ相手がどんな時や處であっても、どんな人でも相手の命の幸福と同じものを自分が持っていると信じたいなら、信じることができているのなら、信じられなくとも、そうあるべきだと思っていたら。
相手は、今はそうだが、私の体に籠っている願いが相手の心に生まれることができ、その願いに生きることができるようになるのであれば、それが最後の願いになるのだろうと思うのです。
 そういう、仏のような命の願いから相手の命の願いを私の悲しみの器に移し替えることができる私に変わってゆくことができるのだという事があれば、たとえ、私の命がなくなっても、バトンタッチされた命の器の永遠の願いの中に私は生きてゆくことができるようになるのではないのでしょうか。一つの命の器から一つの命の器へと、一つの命がつながれていくという事の中に、私の命の中でも、このような命の願いが消えることなく命の消滅と再生が繰り返されてきていたのではないのかと思うからなのです。

 毎日、口にする食事はすべて命あるものだ。お米一粒にしても、その一粒、一粒に親や子や兄弟もいたのだ。その命を自分だと思って命の途中で食べられる側の立場に立てというのだ。お米と100%同じように実際に食い殺されないと、その痛みも悲しみも苦しみも、希望や絶望の感情は理解できないと思うが、多少想像はできる。だけどそれは想像だ。死刑囚の身になって刑を受けて死なないとその気持ちはやはり分かりはしないのだ。いくら相手の身になってみても、限界があるのではなかろうか。同体大悲の徳を持っている仏様にしかわからないことだが、愛する身内の死に会って少しは理解できるが本当に自分のことになると問題はまったく別問題になる。
 相手の身に完全になれない以上、人間には不完全な愛情しか持てないという事なのでしょうか。それなら、そのままの気持ちで命を奪う事を許してもらう事しか出来ないのじゃないのかと思うのです。相手の命に謝り続けながら私の命を長らえさせてもらうのです。そして、途中で奪った命たちの願いに叶うような生き方をする事しか出来ないのじゃないのかと思うのです。
 ただ単に命を奪う悲しみの器としての人間から、口にする様々な命の願いに生き、願いの器として生きる人間になってゆくのかの違いがここに出てくるのかもしれませせん。
 だからと言ってこの二つの器のどちらか一つになれないのが悲しいかな私自身の姿でもあります。
 ナンマンダブツ
 ナンマンダ

善人と悪人の違い

曽我量深は「善人、悪人とはどういう人ですか」と尋ねられて「善人の顔は暗い、悪人の顔は明るい」と答えられたそうだ。ここでいう悪人とはあみだ様という仏さまが見た人間全員のことである。自分で自分の心の深いところまではわかりません。あみだ様から見れば人間はどこまでも無慚愧で反省ができない存在としてみています。そういう人間をあみだ様は悪人というのですが、その悪人にこそ光を当てる、救うというのがあみだ様の目的なのです。
 ですから心の底に限りない仏の光を浴びた人間だから心の底から自分の事実に向き合えるから何も隠すものがないつまり、裸の王様となって生きることができるので、自然と明るく見えてくるのです。
 一方あみだ様から見たこの世の善人とは、例えば、自分を自分の努力でできることはできるが、できないことはできないと、自分でする判断基準を自分で持っている人間です。自分に都合のいい人は善人と見たり、逆は悪人と判断します。そのひとの眼鏡にかなう人を悪人と見たり、善人と判断しています。まるで一人で警察をしたり、弁護士をしたり、一人で裁判長をしているような者です。ですから絶えず人を裁いているので監視の目が厳しく顔が暗くなってゆくのでしょう。自分の心を底の底まで知らないから自分自身に自信が持てないので、どうしても心に動揺があるので自然と顔にその暗さが出てくるからなのでしょう。
―古い地図―

厳しい辛い心に、つい優しい心は遠慮がち
やがて委縮して、強く見える心の奥に隠れたよ
から並大抵の感情理性やなまじ真剣な思考では
なかなかなかなか再びこの世には出てこないよう になりました。

やさしいこころは誰にでもある心だけれど深い森の奥に隠れてしまって誰もそこに行く道忘れたよ

あみだ様だけが持つ古い念仏地図だけが道案内
届かない深い心に届かないし、触れられない
あっちからの一方通行になってしまって
未だは誰も知らない道になりました

こっちの思考力が滞った時に初めて向こうから
ガッタンゴットン動き出しこちらに動いて
くる道が見えるときがある
この道は2500年800年古いけど
いつでも向こうからやってくる

いつでも向こうからやってくるとは言え、待てど、暮らせど、声はすれども姿は見えず、これではあってもなくてもいてもいなくても同じ事

思う心のこっちの敷居が高いから、知ったかぶりで
もの知らず、こっちの敷居ぐらい勝手に超えてきてほしい。
超える敷居は高いけど、敷居の底からやって来て敷居ごとの救いとは信じられない弥陀の智慧

地図を目当てに歩いた道は幾億年になりました。探そうとする心の姿の尊さに落とした念仏地図の裏にはここがあなたの目的地とはっきり書いてありました。

無駄な努力じゃないけれど、そのままこのままいまさら探す必要はありません。
ここにすでにみんなありました
ナンマンダブナンマンダ

善人の顔は暗い。

 曽我量深は「善人、悪人とはどういう人ですか」と尋ねられて「善人の顔は暗い、悪人の顔は明るい」と答えられたそうだ。ここでいう悪人とはあみだ様という仏さまが見た人間全員のことである。自分で自分の心の深いところまではわかりません。あみだ様から見れば人間はどこまでも無慚愧で反省ができない存在としてみています。そういう人間をあみだ様は悪人というのですが、その悪人にこそ光を当てる、救うというのがあみだ様の目的なのです。
 ですから心の底に限りない仏の光を浴びた人間だから心の底から自分の事実に向き合えるから何も隠すものがないつまり、裸の王様となって生きることができるので、自然と明るく見えてくるのです。
 一方あみだ様から見たこの世の善人とは、例えば、自分を自分の努力でできることはできるが、できないことはできないと、自分でする判断基準を自分で持っている人間です。自分に都合のいい人は善人と見たり、逆は悪人と判断します。そのひとの眼鏡にかなう人を悪人と見たり、善人と判断しています。まるで一人で警察をしたり、弁護士をしたり、一人で裁判長をしているような者です。ですから絶えず人を裁いているので監視の目が厳しく顔が暗くなってゆくのでしょう。自分の心を底の底まで知らないから自分自身に自信が持てないので、どうしても心に動揺があるので自然と顔にその暗さが出てくるからなのでしょう。
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