野生の念仏

 親鸞のいた関東時代の念仏者の中には多少教義学者もいただろうが、多くは、いわゆる、自分の身近に起こった宗教的な課題に情熱を素朴に燃やし、烈しく自己表現し、課題に素直に立ち向かう人が多かったのではなかろうか。その熾烈な心からわき出でる宗教的な課題に真摯に立ち向かい、しかも、熱烈な行動力や熱気をもった一文不知の尼入道たちが多くを占めていたのだと思う。
 その後、蓮如上人によって一党独裁的で独善的カリスマ的な指導による教団の統一によって門徒は国家と対峙し、結局、教団としての組織はこの後、明治時代まで教学的にも組織的にも300年間幕府と明治政府に法的管轄化の下で生きることになった。
 大戦後、今日に至るまで、親鸞に帰れ、と教団の号令の下、それまで長く続いた伝統教団の迫害や弾圧や自己崩壊を経験するうちに、やがて組織内で教学の統一がなされ、国家の中の一宗教法人としての地位を確保した。
 科学的文献学的実証学的でなおかつ比較宗教学出来な現代的環境で民主的な寺院運営、寺院子弟の教育が大学までの一貫教育の中でなされたら、今後、さらに多くの念仏者が出来るだろうと期待されていた。
 しかし、現実には、このような教団的な現実や時代に対応した民主的な体制や個人の人権や教育的な優遇制度にもかかわらず、なぜか、今日、学者の真宗から、以前のように活気のある野生の真宗に盛り上がらないのはなぜなのかと、小生はいつも小首をかしげております。

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