カラスの独り言

食べ物はあみだ様

 私の命は私が食べる命でできている。殺命鬼のようで悲しいけれど、それらの命の無残な死がなければ私の今の生は成り立たない。それを、美味い楽しい、うれしいと笑顔で食うしかない殺命鬼の私がここに今生きている。
 だから私の体は無残に死んだ悲痛な叫びをあげて死んで行った命たちの悲しみでできている残酷な命の塊だ。誰がこの悲しみの体を救ってくれるのだろう。きっと、それは、こっちの勝手な都合でも死んで行ってくれた、命たちに許しを請うしかないのだろう。その命たちが許している命に助けてもらうしかないのだろう。みんなの命を無条件で生み出した、命の母なる大地に五体投地しても足らないだろうが、生きている今は、それしか方法がないのです。なんまんだぶつと謝るしかないのです。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

―永遠の愛のかたち―

 せめて生きているうちに
お釈迦様と同じにならないと
仏様になったとは言わないな
 
 ましてや、色も姿も見えない
完全な仏とならないと
仏になったともいわれない
仏そのものとしての見えないはたらきが
ないとすべての人は救えない

 仏様は何らかの永遠の形がないと
多くの人には理解の糸口がないと
分からないのでこの世に残す永遠の形を
必ずどこかに残していると思うのです
それがないと仏の存在すら
証明もできないのでしょう

 しかし、それを証明実現完成
させ言葉の仏様になってしまったのが
アミダ様ただ一人だったのです

 すべての人が一切の人間的な努力なしで
簡単に信じられるように一回の念仏でさえ
すれば救われ真実と共に生きられる
ように準備万端整えられた仏が阿弥陀様なのです

 念仏すれば心が往生して後に成仏することを
この世で信ずることができます

 信ずる心の往生の因の中に
すでに果としての成仏が
完成することを知ることが
出来るようになっているのです

 だから修行という仏になる
努力はすでにあみだ様が
成し遂げられておられるので

 一切の努力意識は人間には
いらないというのです

 これも形のない永遠の愛の形に
なってくださっておられるあみだ様の
先行投資の御蔭だと思います

ナンマンダブツ
ナンマンダ

―永遠のかたち―

 

せめて生きているうちに
お釈迦様と同じにならないと
仏様になったとは言わないな
 
ましてや、色も姿も見えない
完全な仏とならないと
仏になったともいわれない
仏そのものとしての見えないはたらきが
ないとすべての人は救えない

仏様は何らかの永遠の形がないと
多くの人には理解の糸口がないと
分からないのでこの世に残す永遠の形を
必ずどこかに残していると思うのです
それがないと仏の存在すら
証明もできないのでしょう

しかし、それを証明実現完成
させ言葉の仏様になってしまったのが
アミダ様ただ一人だったのです

すべての人が一切の人間的な努力なしで
簡単に信じられるように一回の念仏でさえ
すれば救われ真実と共に生きられる
ように準備万端整えられた仏が阿弥陀様なのです

念仏すれば心が往生して後に成仏することを
この世で信ずることができます

信ずる心の往生の因の中にすでに果としての成仏が
完成することを知ることが出来るようになっているのです

だから修行という仏になる努力は
すでにあみだ様が
成し遂げられておられるので
一切の努力意識は人間には
いらないというのです

これも形のない永遠の形になってくださって
おられるあみだ様の
先行投資の御蔭だと思います

ナンマンダブツ
ナンマンダ

背中の荷物

 仏様は、私が誰にも見せられない、ましてや仏さまにも見せられない背中の暗いところを背負って苦しんでいる過去の罪の根っこを憐れんで下さっているのだ。
 私が格好をつけている正面の姿を見て救ってくださるのではない。
 それを知らずに、私は他人や仏様に自分のカッコいい正面の姿ばかりを見せているから、何時までも仏様と対面はしているが、救われなくても何とか生きていけると思っているだけだ。
 あみだ様はそんな私のくらい背中を後ろから抱き続けているのも知らずにだ。
 仏様は私の正面の姿をみて救おうとしているのではない。
私が背負って重荷にしている罪悪を見て、さぞ重いだろう、つらかろう、自分で作ったのだけれど、私が代わりに背負ってやろうと背負ってくださったのだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

権威主義

 曽我量深先生は「本願は四十八願あるが第一願に本願の精神が一番よく表れている」とご著書に述べられていたような記憶があります。
 私は第十八願が王本願と思っていたので、その時は意外な感じがしました。
 しかし、十八願が目指す世界は個人的な救済の世界であるのに対し、単なる個人の信心内の平和や平等を基にした第一願が世界に発言してゆく建設世界だと思えば納得ができるような気がしてきました。(権威にすぐ随順します)
 第一願は「わたしは浄土に地獄・餓鬼・畜生があるなら仏にはならない」という法蔵菩薩の誓願ですが、ここに法蔵菩薩から願われた阿弥陀仏の絶対平和と平等精神が念仏者の一人一人に約束され与えられることが実現されている姿があると思うのです。
 このような念仏精神を持って第一願の地獄とは、人間の内面にある醜悪なる自我意識が表された世界でもあるのですが、同時に、地獄とは第一次大戦・第二次大戦・三陸大地震・ホロコースト・原爆などにみられる人間の自我意識が作り出した凄惨な出来事が二度と人間世界に起こらなくなるまでということでしょうし、これらがない世界は絶対平和がすでに建立されている念仏精神によってつくられた平和な世界としてすでにあるから、それに基づいてという事なのでしょう。

 餓鬼とは「おかあちゃん、お腹がすいたよー」という子供が世界中から一人もいなくなるまで仏にはならないということです。これも、単なる念仏者の内面世界のどん欲なまでの無限の飢餓感の苦しさを現しているのみならず、飢餓感の中でも生きてゆける精神的な満足感を持つ念仏に生きよという事なのだと思うのです。満足しても飢餓でもいずれ死んでしまう悲しさを持っている人間に念仏は常に、いつでもどこでも完全なる精神的な満足感を与えることができる世界を持っているからです。飢餓感を持って死んで行ける餓鬼道がここにあるのだという事なのだという事なのです。
畜生とは、愛欲や財欲や名誉欲という本能に首をつながれ、その激流に溺れ、我を忘れて生きている人が一人もいなくなるまで私は個人的な仏にはならないという事です。それを誓っているような法蔵として、また、誓願が完成したアミダとしての誓願でもある世界だと思うのです。
つまり、すでにアミダの信心を得た人が本能のままに生きて来たわが身の姿をアミダの念仏に込めた平和や平等の世界を信じ知ることができた時、その誓願という衆生への約束の中にそれを見出すことができてくるのだという事です。

このような地獄・餓鬼・畜生という三悪道を流転してしか生きられない人間の姿を見て仏にならないというのなら、これは、人間が次々に作り出す悲惨な現実に平和な念仏精神を持って生きてゆけという事になるのだと思うのです。
 私がいくら裏切っても、一度も裏切らず、ここまで信じてくれて来たあみだ様だからこそ、私があみだ様を信ずることができたのです。であるなら、第一願の三悪道はすべての人間が持っている苦しみの世界です。ですから、私が救われたという事は全ての人間が救われるという証拠でもありますし、全ての人を救うという阿弥陀仏の本願も真実だという事になるのでしょう。
 私の不安でさえ取り除いてくれた証拠がこっちにあるのだから、それがたとえちっぽけな平和にしか見えなかったとしても、念仏史上歴史的に正統な平和な世界がここにあったと信じられたなら、やはり、第一願のあみださんは世界の平和の基準にもなるし、真実にもなるのだと思うのです。 ましてや、歴史上実在した七高僧や多くの念仏者も、そうだと言っておられるのだから、そこのところは決して間違いがないと思うところなのです。(最後も権威に頼るのでした)
 ナンマンダブツ
 ナンマンダ

 

願いの器

-1−

 ブッダは「己が身に引きくらべてころしてはならぬ、ころさせしめてはならぬ」といった。この言葉は私にとっては死刑宣告に聞こえました。
だが、ブッダ自身は80年間いのちを食べ続けたではないか、この言葉は悟れないで苦しんでいる人間に対する皮肉ではないかと思った。しかし、ここには殺すものと殺されるものとの単なる優劣的な関係ばかりでは判断ができないものがあるように思う。

そこには殺すものと殺されるものとの関係ではなく、命は命によってつながれてゆくものだという関係があるのではないのか。つまり命を奪われるものは、ただ憎しみや怨みだけではなく、死んでゆくのなら「私の最後の願いを聞いてほしい。あなたが私を食べて本当の幸せになってくれたら、わたしもそこに共に喜ぶ命として生き帰ることができるから」と願って死んで行ってくれたのではないのか、そういう願いが命を持つ者の心にあるのではないのかと思ったのです。
   命は奪ったり奪われたりする優劣関係ではなく、縁によって立場は違うが、命は与えられ、捧げあう中にあるのだと思ったのです。一つの命の中には様々な命の願いが託され、含まれていて、その命の願いに目覚めて生きてゆくところに命をもらったものの責任と感謝があるのだと思います。命を頂くものとしての資格もそこに生まれてくるのでしょうし、みんなはそこに気が付くために命をもらっているのだと思うのです。
  「己が身に引き当てて」とは、今ここで私は殺される、あるいは何かのために命をささげるとき、最後にどんな希望を持って死ぬことができるのだろうかと同じ事だと思うのです。そんな時間はないと言わずに、今考えてみたいのです。
そうしたら、全身脱力した時、自分の様々な願い事も断念しなければならないでしょうが、わたしの分も生きてくれとか、後は頼んだとか、さまざまな希望や夢があるでしょうが、相手に命をささげるのであれば、相手を恨むこともあるでしょうが一切関係なく私が不条理に命を奪われることになったとして、最後は私の本当の願いは、私が幸福になること以外にないのではないのかと思うのです。
今はかなわぬその幸福をたとえ相手がどんな時や處であっても、どんな人でも相手の命の幸福と同じものを自分が持っていると信じたいなら、信じることができているのなら、信じられなくとも、そうあるべきだと思っていたら。
相手は、今はそうだが、私の体に籠っている願いが相手の心に生まれることができ、その願いに生きることができるようになるのであれば、それが最後の願いになるのだろうと思うのです。
   そういう、仏のような命の願いから相手の命の願いを私の悲しみの器に移し替えることができる私に変わってゆくことができるのだという事があれば、たとえ、私の命がなくなっても、バトンタッチされた命の器の永遠の願いの中に私は生きてゆくことができるようになるのではないのでしょうか。一つの命の器から一つの命の器へと、一つの命がつながれていくという事の中に、私の命の中でも、このような命の願いが消えることなく命の消滅と再生が繰り返されてきていたのではないのかと思うからなのです。

ー2−

毎日、口にする食事はすべて命あるものだ。お米一粒にしても、その一粒、一粒に親や子や兄弟もいたのだ。その命を自分だと思って命の途中で食べられる側の立場に立てというのだ。お米と100%同じように実際に食い殺されないと、その痛みも悲しみも苦しみも、希望や絶望の感情は理解できないと思うが、多少想像はできる。だけどそれは想像だ。死刑囚の身になって刑を受けて死なないとその気持ちはやはり分かりはしないのだ。いくら相手の身になってみても、限界があるのではなかろうか。同体大悲の徳を持っている仏様にしかわからないことだが、愛する身内の死に会って少しは理解できるが本当に自分のことになると問題はまったく別問題になる。
 相手の身に完全になれない以上、人間には不完全な愛情しか持てないという事なのでしょうか、それなら、そのままの気持ちで命を奪う事を許してもらう事しか出来ないのじゃないのかと思うのです。相手の命に謝り続けながら私の命を長らえさせてもらうのです。そして、途中で奪った命たちの願いに叶うような生き方をする事しか出来ないのじゃないのかと思うのです。
 ただ単に命を奪う悲しみの器としての人間から、口にする様々な命の願いに生き、願いの器として生きる人間になってゆくのかの違いが出てくるのかもしれませせん。

 自分の生存をかけたこの矛盾した命題は私たちの日常生活の命に対する目覚めを促さしめるに十分な課題だ。私たちは生まれながらに命を食べるための口や速い足を持って生まれてきた。獲物を見つける目や耳や鼻も持って生まれて来た。
 それを食べて美味いまずいと判断する舌も持って生まれて来た。
人間は生まれた時から生き物の命を奪わなければ生きられないという運命を背負ってこの世に生まれて来たのだ。それは、ほかの生きとし生ける動物植物細菌に至るまですべてに共通するルールだ。
   しかし、人間には人間のルールがあり、動物には動物のルールがある。どちらも弱肉強食というゴールデンルールだ。しかも、人間も動物の仲間なのに、いつの間にか人間だけが持っているとしている理性を持つものが多くを獲得することができるという、動物が持たない人間だけの特権的なルールをいつのまにか作ってしまったのだ。
動物のルールは腹八分目だ。それ以上食べないが、人間は、今の満足を超えた未来に備える権利があるとでも言いたげに理性という道具を働かせて冷蔵庫を作り貯蔵して次の飢餓に備えるという事を考えだしたのである。
これで人間は自分の胃袋以上のものまで必要とするようになったのだ。いつでも腹十分目以上でなければ満足しない動物になってしまったのだ。そして、人間は必要以上に人間同士という人間種でありながら、様々な盲目的理性的な理由をつけて仲間を必要以上に殺戮してきた歴史があり、これからも正当という自己満足という理性の許しが出れば何度でもそのルールは運用利用され続けるのだ。
動物にはない人間だけが持つ理性的な正義の名による合法的な殺人が憲法違反ではなく、平和的な大量殺人を正当化する人間だけに通用する論理がここに構築されたのだ。そのためには人間以外の動物たちもそのルールに従うしかないのだ。
己が身に引き当てて、とは相手の身になってという事なら、これは人間同士だけの問題ではなく、命を持つものすべての問題として考えるべきなのだろうと思う。
釈尊はとくに、人間の心が持つ自分自身を問題としないように見える人間しか持たない理性の闇を問題としているのではないかと思うのです。この言葉は、動物たちに言い聞かせている言葉ではなく、人間存在が持つ人が人を殺すことさえいとわない人間の理性の闇をあなたはどのように克服してゆくべきなのかという問いなのだと思うのです。
人やほかの命を奪ってしか生きていけない矛盾をあなたはどこで折り合いをつけて生きてゆこうとしているのですか。という事です。
たとえ理性が許しても、人間としての常識的な感情からは、他の命を取り続けることは、人間としての感情をマヒさせるほどの強い理性な根拠には、それにともなう強い憎悪や嫉妬のような悪感情が伴わないとできないと思います。

ー3ー

親鸞は歎異抄13条で「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」634P
と言い、また
「往生のために千人殺せといはんに、すなわちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのそふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり」と述べた。

 人か人を殺すという事は全くの縁によるものであると言い切っています。ここに生まれたことも、ここに生きることも、何かの縁あって死の縁無量と死んでゆくことも、みんな仏縁なのだから、それに従うしかないままに生きよ。と言われているようです。しかし、その仏縁のままに生きるときに仏縁と知ることはやはり、アミダさんの本願他力に目覚めて、自身がどうにも助からん身だと知った時にしか分からない縁なので、この他力の中の縁である。すべてお任せの中の自力である。自力も他力からのもらいものであると、しることによってしか親鸞の言うただ業縁に打ち負かせて生きてゆくことは難しいのだと思います。

ー4ー

 ですから、死をもってその人としての命は終わります。命あるものはみなそのような業縁に生かされていま生きています。ですが、先ほども言ったように命あるものは自らの命をささげることによって、次の命に幸せであれという願いを込めていきてゆける、そして死んで行ける存在だと思うのです。ですから、命あるものはすべて、その悲しい命の器から幸せな命に目覚めるものとなって生きよと願うことができる希望の器になって生き、死んでゆける存在だと思うのです。

善良な鬼

鬼の自覚には二種類ある。本物の鬼と偽物の鬼の自覚を持った鬼である。
 心の底から自分は鬼とは思っていない中途半端な自覚を持って、ある時は本物だと言い、ある時は、そうでもないという鬼と、本当に自分は鬼だと信じ込んでいる鬼がいるのだ。
 人間の格好をした、鬼だけど心の底から、次にどんな悪をしでかすかわからない、何をしでかすかわからない、相手や自分さえも傷つけ犯す鬼だと信じてやまない鬼人間は自分を仮の鬼人間と思って生きている鬼とは違うのである。本物の鬼人間は仏様の救いにあづかったから、自分の本性が知らされ、赤裸々に打ち明けることができるようになったから、鬼と言っているのである。明るい、朗らかな鬼なのである。自分で鬼としての存在を仏さまに認められた善良な鬼なのである。

やまびこ

アミダとは救う存在だ。救うとはアミダがアミダになれという世界を与えることだ。私がアミダとなってゆく世界が与えられたことだ。そこに本当の救いがあるのであれば、救われてアミダの世界が証明できるのなら、アミダがアミダと名告ところに人間という救われた証明がなければならない。そこに名のるところに名のられたものがいて、アミダの摂取の証明があらわれるのだから、そこに名乗りを受け止める存在があっての名乗りが証明存在するであろう。

内に超えて外に立つナンマンダ

アミダと呼び続け、助けられたいと思って救われたとき、向こうの方がすでに私を呼び続け、自らアミダと名乗っていたことに気が付くものでしょう。救われたときがなければ,いくらアミダが名のっていても、他人事でしかない。この客観的事実が私たちの内在的超越となって私の主観的な事実になっとき、弥陀経意和讃(486)「阿弥陀と名づけたてまつる」、唯信鈔文意(554)「心も言葉も及ばぬ一如よりかたちをあらわして」との宗教的真理が私に於いて救済の事実となった時はじめてこの名乗りが成立するのである。

ーたて糸はあなたー

 無量寿経に「その名号を聞きて」と17願門にある。
念仏は私個人の救いではなくアミダの共同救済の念仏だ。個人で私有化できないとは、個人の中に共通する仏の清浄な意識があり、それが平等意識の根源になっているのだろう。しかも、個人レベルの意識を超えるために、念仏の歴史上、多くの先達という念仏の諸仏方がいたし、現に念仏している個人の周りにはすでに念仏している念仏者たちがいたのだから、その念仏者たちの言動に励まされ、どのような個人であれ信心も頂くことができるようになったのだから、諸部念仏を聞かなければ助からなかったのである。その諸仏の念仏が個人の念仏となってここに独立した信心を頂くことができ、それがまた諸仏の念仏として、次世代の念仏者を育てて来た念仏の精神史があったのである。
 たとえて言えば、中島みゆきの「糸」ではないが、縦糸はアミダ。横糸は諸仏の保証書付きの念仏者による一枚の念仏の反物によって私がいま、包まれているところに私が救われた歴史も一本の横糸になるという事である。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
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