願いの器

-1−

 ブッダは「己が身に引きくらべてころしてはならぬ、ころさせしめてはならぬ」といった。この言葉は私にとっては死刑宣告に聞こえました。
だが、ブッダ自身は80年間いのちを食べ続けたではないか、この言葉は悟れないで苦しんでいる人間に対する皮肉ではないかと思った。しかし、ここには殺すものと殺されるものとの単なる優劣的な関係ばかりでは判断ができないものがあるように思う。

そこには殺すものと殺されるものとの関係ではなく、命は命によってつながれてゆくものだという関係があるのではないのか。つまり命を奪われるものは、ただ憎しみや怨みだけではなく、死んでゆくのなら「私の最後の願いを聞いてほしい。あなたが私を食べて本当の幸せになってくれたら、わたしもそこに共に喜ぶ命として生き帰ることができるから」と願って死んで行ってくれたのではないのか、そういう願いが命を持つ者の心にあるのではないのかと思ったのです。
   命は奪ったり奪われたりする優劣関係ではなく、縁によって立場は違うが、命は与えられ、捧げあう中にあるのだと思ったのです。一つの命の中には様々な命の願いが託され、含まれていて、その命の願いに目覚めて生きてゆくところに命をもらったものの責任と感謝があるのだと思います。命を頂くものとしての資格もそこに生まれてくるのでしょうし、みんなはそこに気が付くために命をもらっているのだと思うのです。
  「己が身に引き当てて」とは、今ここで私は殺される、あるいは何かのために命をささげるとき、最後にどんな希望を持って死ぬことができるのだろうかと同じ事だと思うのです。そんな時間はないと言わずに、今考えてみたいのです。
そうしたら、全身脱力した時、自分の様々な願い事も断念しなければならないでしょうが、わたしの分も生きてくれとか、後は頼んだとか、さまざまな希望や夢があるでしょうが、相手に命をささげるのであれば、相手を恨むこともあるでしょうが一切関係なく私が不条理に命を奪われることになったとして、最後は私の本当の願いは、私が幸福になること以外にないのではないのかと思うのです。
今はかなわぬその幸福をたとえ相手がどんな時や處であっても、どんな人でも相手の命の幸福と同じものを自分が持っていると信じたいなら、信じることができているのなら、信じられなくとも、そうあるべきだと思っていたら。
相手は、今はそうだが、私の体に籠っている願いが相手の心に生まれることができ、その願いに生きることができるようになるのであれば、それが最後の願いになるのだろうと思うのです。
   そういう、仏のような命の願いから相手の命の願いを私の悲しみの器に移し替えることができる私に変わってゆくことができるのだという事があれば、たとえ、私の命がなくなっても、バトンタッチされた命の器の永遠の願いの中に私は生きてゆくことができるようになるのではないのでしょうか。一つの命の器から一つの命の器へと、一つの命がつながれていくという事の中に、私の命の中でも、このような命の願いが消えることなく命の消滅と再生が繰り返されてきていたのではないのかと思うからなのです。

ー2−

毎日、口にする食事はすべて命あるものだ。お米一粒にしても、その一粒、一粒に親や子や兄弟もいたのだ。その命を自分だと思って命の途中で食べられる側の立場に立てというのだ。お米と100%同じように実際に食い殺されないと、その痛みも悲しみも苦しみも、希望や絶望の感情は理解できないと思うが、多少想像はできる。だけどそれは想像だ。死刑囚の身になって刑を受けて死なないとその気持ちはやはり分かりはしないのだ。いくら相手の身になってみても、限界があるのではなかろうか。同体大悲の徳を持っている仏様にしかわからないことだが、愛する身内の死に会って少しは理解できるが本当に自分のことになると問題はまったく別問題になる。
 相手の身に完全になれない以上、人間には不完全な愛情しか持てないという事なのでしょうか、それなら、そのままの気持ちで命を奪う事を許してもらう事しか出来ないのじゃないのかと思うのです。相手の命に謝り続けながら私の命を長らえさせてもらうのです。そして、途中で奪った命たちの願いに叶うような生き方をする事しか出来ないのじゃないのかと思うのです。
 ただ単に命を奪う悲しみの器としての人間から、口にする様々な命の願いに生き、願いの器として生きる人間になってゆくのかの違いが出てくるのかもしれませせん。

 自分の生存をかけたこの矛盾した命題は私たちの日常生活の命に対する目覚めを促さしめるに十分な課題だ。私たちは生まれながらに命を食べるための口や速い足を持って生まれてきた。獲物を見つける目や耳や鼻も持って生まれて来た。
 それを食べて美味いまずいと判断する舌も持って生まれて来た。
人間は生まれた時から生き物の命を奪わなければ生きられないという運命を背負ってこの世に生まれて来たのだ。それは、ほかの生きとし生ける動物植物細菌に至るまですべてに共通するルールだ。
   しかし、人間には人間のルールがあり、動物には動物のルールがある。どちらも弱肉強食というゴールデンルールだ。しかも、人間も動物の仲間なのに、いつの間にか人間だけが持っているとしている理性を持つものが多くを獲得することができるという、動物が持たない人間だけの特権的なルールをいつのまにか作ってしまったのだ。
動物のルールは腹八分目だ。それ以上食べないが、人間は、今の満足を超えた未来に備える権利があるとでも言いたげに理性という道具を働かせて冷蔵庫を作り貯蔵して次の飢餓に備えるという事を考えだしたのである。
これで人間は自分の胃袋以上のものまで必要とするようになったのだ。いつでも腹十分目以上でなければ満足しない動物になってしまったのだ。そして、人間は必要以上に人間同士という人間種でありながら、様々な盲目的理性的な理由をつけて仲間を必要以上に殺戮してきた歴史があり、これからも正当という自己満足という理性の許しが出れば何度でもそのルールは運用利用され続けるのだ。
動物にはない人間だけが持つ理性的な正義の名による合法的な殺人が憲法違反ではなく、平和的な大量殺人を正当化する人間だけに通用する論理がここに構築されたのだ。そのためには人間以外の動物たちもそのルールに従うしかないのだ。
己が身に引き当てて、とは相手の身になってという事なら、これは人間同士だけの問題ではなく、命を持つものすべての問題として考えるべきなのだろうと思う。
釈尊はとくに、人間の心が持つ自分自身を問題としないように見える人間しか持たない理性の闇を問題としているのではないかと思うのです。この言葉は、動物たちに言い聞かせている言葉ではなく、人間存在が持つ人が人を殺すことさえいとわない人間の理性の闇をあなたはどのように克服してゆくべきなのかという問いなのだと思うのです。
人やほかの命を奪ってしか生きていけない矛盾をあなたはどこで折り合いをつけて生きてゆこうとしているのですか。という事です。
たとえ理性が許しても、人間としての常識的な感情からは、他の命を取り続けることは、人間としての感情をマヒさせるほどの強い理性な根拠には、それにともなう強い憎悪や嫉妬のような悪感情が伴わないとできないと思います。

ー3ー

親鸞は歎異抄13条で「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」634P
と言い、また
「往生のために千人殺せといはんに、すなわちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのそふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり」と述べた。

 人か人を殺すという事は全くの縁によるものであると言い切っています。ここに生まれたことも、ここに生きることも、何かの縁あって死の縁無量と死んでゆくことも、みんな仏縁なのだから、それに従うしかないままに生きよ。と言われているようです。しかし、その仏縁のままに生きるときに仏縁と知ることはやはり、アミダさんの本願他力に目覚めて、自身がどうにも助からん身だと知った時にしか分からない縁なので、この他力の中の縁である。すべてお任せの中の自力である。自力も他力からのもらいものであると、しることによってしか親鸞の言うただ業縁に打ち負かせて生きてゆくことは難しいのだと思います。

ー4ー

 ですから、死をもってその人としての命は終わります。命あるものはみなそのような業縁に生かされていま生きています。ですが、先ほども言ったように命あるものは自らの命をささげることによって、次の命に幸せであれという願いを込めていきてゆける、そして死んで行ける存在だと思うのです。ですから、命あるものはすべて、その悲しい命の器から幸せな命に目覚めるものとなって生きよと願うことができる希望の器になって生き、死んでゆける存在だと思うのです。

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