権威主義

 曽我量深先生は「本願は四十八願あるが第一願に本願の精神が一番よく表れている」とご著書に述べられていたような記憶があります。
 私は第十八願が王本願と思っていたので、その時は意外な感じがしました。
 しかし、十八願が目指す世界は個人的な救済の世界であるのに対し、単なる個人の信心内の平和や平等を基にした第一願が世界に発言してゆく建設世界だと思えば納得ができるような気がしてきました。(権威にすぐ随順します)
 第一願は「わたしは浄土に地獄・餓鬼・畜生があるなら仏にはならない」という法蔵菩薩の誓願ですが、ここに法蔵菩薩から願われた阿弥陀仏の絶対平和と平等精神が念仏者の一人一人に約束され与えられることが実現されている姿があると思うのです。
 このような念仏精神を持って第一願の地獄とは、人間の内面にある醜悪なる自我意識が表された世界でもあるのですが、同時に、地獄とは第一次大戦・第二次大戦・三陸大地震・ホロコースト・原爆などにみられる人間の自我意識が作り出した凄惨な出来事が二度と人間世界に起こらなくなるまでということでしょうし、これらがない世界は絶対平和がすでに建立されている念仏精神によってつくられた平和な世界としてすでにあるから、それに基づいてという事なのでしょう。

 餓鬼とは「おかあちゃん、お腹がすいたよー」という子供が世界中から一人もいなくなるまで仏にはならないということです。これも、単なる念仏者の内面世界のどん欲なまでの無限の飢餓感の苦しさを現しているのみならず、飢餓感の中でも生きてゆける精神的な満足感を持つ念仏に生きよという事なのだと思うのです。満足しても飢餓でもいずれ死んでしまう悲しさを持っている人間に念仏は常に、いつでもどこでも完全なる精神的な満足感を与えることができる世界を持っているからです。飢餓感を持って死んで行ける餓鬼道がここにあるのだという事なのだという事なのです。
畜生とは、愛欲や財欲や名誉欲という本能に首をつながれ、その激流に溺れ、我を忘れて生きている人が一人もいなくなるまで私は個人的な仏にはならないという事です。それを誓っているような法蔵として、また、誓願が完成したアミダとしての誓願でもある世界だと思うのです。
つまり、すでにアミダの信心を得た人が本能のままに生きて来たわが身の姿をアミダの念仏に込めた平和や平等の世界を信じ知ることができた時、その誓願という衆生への約束の中にそれを見出すことができてくるのだという事です。

このような地獄・餓鬼・畜生という三悪道を流転してしか生きられない人間の姿を見て仏にならないというのなら、これは、人間が次々に作り出す悲惨な現実に平和な念仏精神を持って生きてゆけという事になるのだと思うのです。
 私がいくら裏切っても、一度も裏切らず、ここまで信じてくれて来たあみだ様だからこそ、私があみだ様を信ずることができたのです。であるなら、第一願の三悪道はすべての人間が持っている苦しみの世界です。ですから、私が救われたという事は全ての人間が救われるという証拠でもありますし、全ての人を救うという阿弥陀仏の本願も真実だという事になるのでしょう。
 私の不安でさえ取り除いてくれた証拠がこっちにあるのだから、それがたとえちっぽけな平和にしか見えなかったとしても、念仏史上歴史的に正統な平和な世界がここにあったと信じられたなら、やはり、第一願のあみださんは世界の平和の基準にもなるし、真実にもなるのだと思うのです。 ましてや、歴史上実在した七高僧や多くの念仏者も、そうだと言っておられるのだから、そこのところは決して間違いがないと思うところなのです。(最後も権威に頼るのでした)
 ナンマンダブツ
 ナンマンダ

 

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