カラスの独り言

仏様から拝まれている

 何かを拝もうとするとき、すでに私たちは神様や仏様から拝まれていると思うのです。
 私達は様々なことをすでに超えてある、100%満足してすべてのものに満足している神仏に願うときがある。そんな願いだらけの私を憐れんで、アミダ様や神様達がその願の全てをかなえてあげようという大いなる願いを先に立てておられる。
 全てに満足するとは、満足していないものすべてを最後まで尽くして満足させなければ永遠の満足が得られないから、どんな願いであれ、その願のもとにある人間の根本の本当の幸せを得たいという願いを求めるものがいる限りその満足が根本的に完成しないからなのでしょう。
 私の底なしの願いの根本をすでにお見通しの仏様の方が先に私を憐れんで拝んでいたと知った時にそれを知ることになり、それが、そのまま私の欲望のはたらきの虚しさを知らされ、救われることになる原因になったと思うからです。
 だから、だれでも拝むときにはすでに拝まれていたから拝もうとする気持ちが神仏に呼びかけられていたからと思うのです。
特にアミダ様はすでに願いの中に私たちがアミダ仏の声を聞くだけで、私たちの願いの根本から全てが満足できるようになっていたのではないのかと思います。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

―仏言葉に挑む戦士たち―

 大蔵経を五回も読破した
法然上人は仏様を掴みたかったんだ

自分の確かな理解力でしっかり
掌中の物にしたかったんだ
物にしたかったんだ

 伸ばし掴もうとした人より長いその腕で
ついに届きそうで届きそうになれば
なるほど離れてゆくことに

 「順彼仏願故」という善導大師の
言葉の方が法然上人をつかみ取り
仏の言葉の世界に引きずり込んだんだ

 何時でも仏様の方が偉いのに
どうしてこうも人間は自惚れが強いのか

 何かが善知識になるかわからない
近づこうとすればするほど離れてく
本当は人間は仏様なんで大嫌い

 この世で一番大嫌いなはずなんだ
それをいい子ぶりっこしてだ好きだなんて
仏様はそれでも尾顔で接してくれるから騙される
仏様は厳しいところも持っている
 そこに気が付かないとあのアルカイックスマイルに
みな騙されて美しい神秘的な仏様だと
絵葉書部屋に飾って喜んで仏の願いは
私の願いなんてうぬぼれご満悦

 切り離されて捨てられて
それですっかり己の自性を知らされて
すみませんでしたと無慚愧懺悔と
知らされなけれりゃあ
ほんとの仏様と会った知った
分かったとはなりません

 こっちのことは仏様の方がオミトオシ
子供の心は親がオミトオシ
それを知らずに仏様の心は親の心はこうだと
グダグダグダグダとかしましい

 だけどそこまで逆らわないと反抗期
分かったわからないを繰り返さないと頭の
いい人悪い人問わず伝わらないのかもしれないな

まるであみだ様に頭の限界試験を試されているような
どんな小さな言葉でもそこに仏の心が
込められていることに気が付けば

 誰の言葉でも事象でもアミダ様に出会えます
仏言葉の世界のいつも勝利は決まってる
だけどみんな一度は戦いを挑んでみないと
負けてみないとホントの仏とは出会えない
ホントの自分とも出会えない
だからいつの時代の仏に挑む戦士たち
戦うものにいつでも勝利の栄冠あれと願ってる
ナンマンダブツ
ナンマンダ

―あなたの優しい言葉で救われたい―

救う言葉のもとはナンマンダ
救われる言葉は無限大
その人その人それぞれだ

仏法聞いたご縁のある人や
それを書いた人の本の言葉で
翻訳されて一人一人が救われる

に極まった求める心境に
ぴったり合った時に皆その
一言で一つの言葉で心が開く

人は言葉に含まれている
阿弥陀様の痛みや智慧のはたらきに
直接触れることが出来

それまで一本の輝く
小枝に出会うまで
言葉の森をさ迷う事になるのかな

それでもその枝に出会ったら
この小枝が言葉の森の全ての母木
だったことが分かるだろう
   
その時あみだ様のナンマンダブツが
そろいもそろってみな同じ
ナンマンダブツナンマンダブツと
みな同じ言葉になって喜べる
そんな時の中に私たちは今生きている
私を救う言葉の森で輝く
小枝を探してみんな生きている

ナンマンダブツ
ナンマンダ

ー自分の殻は見れば見るほど美しいー

 自分流に分かりたい
自分が納得するまで理解したい
このまま分からないままじゃあじゃ死にきれない
 このままではいつ死んでしまうか
分からないから早く分かりたい
 
 自分流にあった言葉に早く出会いたい
早く私を救い出す言葉に出会いたい
そのためにはいろいろな本を早く人より良く理解ししなければ
 自分が分かる言葉で救われたい
蚕繭自縛で自分を縛り縛っていることも
分からない息苦しくなるばかり
 これほど人より真面目に求めているのに
人よりいい立派な救いが与えられるはず
 そのうち探した言葉の中でご臨終
早く早くだれかこのぐるぐる巻きを見ておくれ
 いっぱい貯めた言葉の森をみんな自分の手あかがついて光ってる
 元の言葉の慰労せるまで私の手あかで輝いて
 どんより濁って光ってる
 早くだれかこのぐるぐる巻きの中から私を出してくれないか
 最近年の割に息苦しくなって困ってる
この中に何時までここに居たってさなぎから蝶のようにはなれないが
 蝶の姿を望み手私も早く外に出て遇の青空を羽ばたきたい
 ナンマンダブツ
 ナンマンダ

―信心が早いとか遅いとか―

 

いつでもなんでも自分の中に問題を取り込んで
処理しようとするのではなく
たまには自分の頭の中の判断に頼らないで
一切の判断をあみだ様に任せてしまうと
分からないままで分かる世界があらわれてきます

分からない世界を分からないまま続けて行けば
自分の都合ではなく自然に向こうから
としか言いようがないのですが
あちらから必ずとは言いませんが
答えがやってくる時があります

こちらの都合よりもあちらの都合のように見えますが
こちらの都合が破綻するときにやってくるのです

こんなことを飽きずに苦しみながら
繰り返していくときに信心獲得が
見えてくる時があります
だからこっちの機が熟していれば
即の人もいれば遅い人も出てくるようです

ナンマンダブツ
ナンマンダ

山は山

 聖道門も浄土門も本願力で開かれる
人間の努力意識で仏の世界が開けたら
いつでも人間が土足で踏み荒らす
自力の力で覚れるならばそれは他力の世界の半自力

 最後は必ず自分を超えた世界を得るには
超えた世界から助けてもらう、開いて
もらわなけりゃならない道理は必然だ
その向こうからからくるはたらき力を絶対無
と言おうが本願力と言おうが人間が作ったものじゃなし
 そのはたらき力に一番近い言葉が無量寿無量光
この二言で事足りる
 真実のはたらきに一番近いはたらきが分かりやすい言葉になっている
だからお釈迦様もインドの言葉で同じ意味のことを言っている
 ナムアミターユスナムアミターバ翻訳すれば無量寿無量光これにご丁寧に
南無まで付けてまとめて南無阿弥陀
 山にいろいろな名前を付けても山は山
ただの山に違いない
ナンマンダブツ
ナンマンダ

ビハーラとは何ですか?

 源信僧都の「往生要集」には、死が迫った人間に起こる様々な愛の姿が描かれています。自体愛(じたいあい)(自分存在が体に対する愛着となって表れる。手をさする、自分の体をなでまわす)。境界愛(きょうがいあい)(家族・財産・地位・名誉に対する愛着)。当生愛(とうしょうあい)(死後に対する不安)。この三愛は死を意識しなくても人間の心に何時でもある愛情という名のこの世と親族に対する普通の感情でしょうが、それを押し進めているのが死後に対する不安だと思います。

ビハーラケアではこれらの不安を取り除くために、例えば「死後にはあなたを愛している家族が待っていると思いますよ。私たちも必ず後から行きますから」と言って慰めたりしているようです。
 しかし、死後にたいして本人が確認してもいないことを、すでに多くの人が往ったのだからと,二度と帰ってこないことをあげて、根拠づけるのは、はなはだ心もとない所業だと思うのです。

 法然上人も「三部経釈」に、この三愛は弥陀の来迎によって滅すべきだと言っていますが、本来は弥陀の本願で平生業成しておくべきだというのでしょう。親鸞に至っては来迎さえ否定していますし、現生での信心獲得こそがこれらにとらわれない人間本来の生き方になり教行信証・化身土・本(p339)に阿弥陀如来の真実の中での人間の自力意識からの変換こそが三愛を日常から駆逐する如来の願心なのだと言っているようです。また、御消息に「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず」とあります。

 ですから現代と言わず、何時の時代でも人間誰にでも備わっている大いなる宗教心に目覚めることが、死を目前にして煩悩や本能によっておこるこれら三愛の不安が消えることはないとしても、その心の底に起こってくる真実の如来の慈悲と智慧いう、大いなる愛情意識に目覚めることによって、誰でもが平生の意識を持ったまま自然な死を、今までに誰にも感じたことのない、真のあたたかな仏に抱かれる感覚を持ったまま、如何に安らかに死を迎え入れることができたことかという歴史的な事実の歴史を今までの人間は無意識のうちに必然的に持っていたのだと思うのです。

 死という人生最大の危機的状況を多くの人間が乗り越えてきた背景には、その時いつでも発動する宗教心という救済手段が、誰にでも備わって、その時には目覚める用意がすでにあるのだという事に、またそれは日常生活の中で誰でもが感ずる、悲しい時でも、苦しい時でも、何時でも気が付く時が用意されてあるのだという宗教心が目覚める時代が、いまここにビハーラケアという死を真剣に迎える覚悟がいる時代がいまここに、我々一人一人に来ているのだという事だとも思うのです。
 ですから、この三愛を発見した覚醒者から見た迷いの世界からの脱出はすでに用意されているという事だと思うのです。つまり信心の中にこそこれらの妄念妄執を断ち切った人からの真実の呼びかけがあってこそ、これらの愛が根本から断ち切られるものではないのかと思うのです。

 ビハーラに携わる人々すべてが、否、人間すべてが。ビハーラを知らなくとも本来持っている、自分自身の危機は自身でケアできる方法があるのだと気が付き、それに目覚めることこそがビハーラの最終目標でもあると思うのです。ビハーラという言葉がなくなった時こそ、真のビハーラが完成した時だと思います。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
   
     参考文献   仏教とターミナルケア ――仏の救済をめぐって
大正大学 准教授 曽根宣雄氏  

人格変容

アミダさんは本能と煩悩を持って生まれて来た人間が作り出す善悪に基づいた幸福を与えようとしているのではなく、その善悪を生み出す根本の末那識である、心の無意識的な支配者が永遠に作り出している無明の闇を抜き取ろうとしているのである。そこから人間の根本的な清澄性を伴う人類に基本的な新たな人間の人格変容、存在の新たなる価値観を見出させるためのはたらきをしてくださっているのだと思うのです。 

コンタクト

 諸行無常とは人間から見た真実の永遠性だとすれば、仏の智慧と慈悲の実践である念仏、愛と智慧も同じであるが、人間はこの二つを別々のものと考えているのだと思うのです。もともと、永遠という、何時までも変わらない世界があるのだとすれば、その中に人間も有限性を持って生きてきたのであるから、永遠性からのコンタクトが人間になければ人間には永遠に永遠の世界は理解、体得、認識はされてこなかったはずであり、諸行無常という真実のはたらきも到底、理解されるはずもなかったのだと思うのです。
    しかし、いずれかの人間の精神史の中で永遠が知られ、人間に正しく認識されるようになると、そこから見たそれまで「我」が考えていた瞬間の連続にすぎないと思われていた存在や時間の中に、あるいは、つつむものとしての真の永遠性の発見があったから、そちら側、仏や神の領域から見た、こちら側の無常性というものが有常性、永遠性の世界が新たに発見され記憶されて、その真実のはたらきが伝承されて今日に至っているのだと思うのです。
    もし、永遠とコンタクトができるのなら、すでにコンタクトができる心の装置が人間に備わっていなければならない所を見ると、心の機能として自然成長に伴い、全ての人間に、今では備わっているものと考えた方がいいと思うのです。

永遠に得られないもの

 本当の自由とは何か、本当の安心とは何か、本当の安全とは何か、この中で一番大切なものはどれだろうか。身体的なものと、精神的なものが、これら三つにかかわっているのだろう。とすれば、これらはすべて人間が永遠に希求すべきものではあるが、絶対に今には与えられないものではないかと思うからなのです。
何故なら、それらの純粋さを求めるのであれば、そこに永遠のという言葉が付け加えられなければならないからです。
そうなれば人間の領域のものではなくなるからです。しかし、それでも不完全ながらそれらの三項目を生きることができないわけではなく、それに、近づこうとするところにその意義があるともいえるのではないかと思います。
簡単に言ってしまえば、例えば、自由という事も完全なものではないにしろ、それを完全に人間のものとすることは、永遠に生きている、はたらいている命にふれることによって誰にでもその匂いが感じられるからです。そこから、はじめれば、先ほどの三つの世界に至る道もみんなに見えてくるのではないのかと思うのです。
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