人生の帳尻合わせは誰がする。

 
 貰ったものは与えたもの。

 奪われたものは奪ったもの。

 見えるものを与えれば見えるものを貰う。

 見えないものを貰えば見えないものを与えていたことになる。

 人生を長い目で見れば、すがた形は違っていても人と人。

 国と国。長い歴史からみれば不思議な因果関係が起きている
 ように思えるな。

 姿かたちは違っても、自ら進んでやったらやり返されている
 ように、どこか公平に出来ているように思えるな。

 これが、本人が心の底から納得し、その結果が出るまで続く
 天の配剤というのかもしれないな。
 
 みんなプラスマイナスゼロにならないと人生縁起の帳尻が
 合わないな。

 そして、いまも、いつものゼロから新しい人生がはじまって
 くる。

 そして、それに追いつく毎日がいつもはじまっている。

 なんまんだ

パーフェクトディズ。

 
 映画「パーフェクトディズ」は宗教的な確信を得て、市井の日々の生活の中から平凡な言葉でその心を吐露し、その宗教意識の高揚を静逸に生きている現代版妙好人の物語である。
 今を真実に基づいて深く生きているという意味を持った現代の宗教人の何気ない日常を描いた「日々是好日」の映画である。

 今に絶対的な安心感の心境を得ていないと日々の安らぎもないし、自我意識から日々揺れ動く心もありながら、人々と自身の心の振動が不安や恐怖も伴いながら、心の深みに神や仏に出会ったことを根拠に、それらを超えて行く日常の精神的な揺れと安定を描いている物語りである。

 トイレとは人間の自我意識と宗教意識が殺生しなければならなかった命達の亡骸への立ち合いの場である。その最後の立会と見送りがトイレ清掃人の仕事となっているのだろう。それは神や仏の使徒の仕事である。

トイレ掃除夫に身をやつして生きている姿は真摯な僧侶の姿は命の神の代理人でもある。そのエンゼルの平凡な生活と、その救われた者の言葉に救われてゆく人々との対話でもある。

 彼は常に天にまします神や仏からのメッセージを目に見える光から、「今日も生きていていいよ」の言葉を身に浴びて暖かい光から毎日確信して微笑んでいるのである。その光が見えなくなった時こそ彼の心と体全部の全身そのみ光に包まれることを知っているからである。

 また「今度」と「今」も「違う時間」も、今にあって今を超えている永遠の今であって、それの連続の次の日、今度は誰も何が起こるのか、神のみぞ知る今度になる世界なのであろう。

 誰でもが毎日過ごしているごく平凡にみえる日常生活の中に
ごくありふれたようにみえる精神生活を描いているので、なにがと思うのだが、その中には宗教というもので測らなければ何もわからないものがちりばめられているように思うのです。

 平山とはヴィム・ヴェンダース監督が小津安二郎監督主演の笠智衆の役名にインスパイヤ―されたものらしいが「平山」平凡な山と書くが、この平凡とは非凡ではないが非凡を超えた神や仏の使徒になった人に与えられた平凡を意味するのだろう。親鸞は罪悪深重の凡夫といい、法然は愚痴の法然坊と。

 平山が毎朝お天道様に微笑んでいる場面がある。平山はヴィム・ヴェンダース監督の話だと善修業した歌手レナード・コーエンのイメージだと言う。

 朝日に挨拶しているのではなく朝日から平山が挨拶され微笑まれているのである。神や仏様との平山の毎朝のご挨拶なのである。大事な毎日のお互いの確認事項なのである。

 恐れながら、私も食事の前にお天道様をあみだ様の光だと思って飯を食っているので、そこだけは同じだなと思った。 
「み光のもと、われ今幸いに・・・」見えないあみだ様の光をこの愚かな身に直接浴びているように。

 日々、神や仏の存在を直に確認し感謝して生きることは存外どこにでも誰にでも日常生活の上でごく平凡に表すことが出来る日常事になって、やがて誰の目にも見えないものになってゆくものなのかもしれません。

 この世には幸せになった人とならない人がいる。なりかけの人は一人もいない。幸か不幸かの二択しかない。その幸せの基準は幸せになった人達だ。

なんまんだ

恩知らずは私です。

 命を助けられてもその恩を簡単に忘れるのが人間です。

 命を助けられたことを逆に恨むのも人間です。

 恩を忘れ親切にしてくれた人を逆恨みさえすることによって
 自分を正当化したいのが鬼にも劣る私の本性です。

 これを見抜いて、それでも、そのまま救うと言っているのが
 大慈大悲のあみだ様。

 このアミダさんに救われたら救われたで、今度はその恩を
 忘れて、俺が信じてやって、アミダを救ってやったと思う
 私です。

 そして、俺の信心は、お前と比べて深いと言うような
 暗い愚かな谷底に転げ落ちていることも知らず落ちて
 行くしかない闇そのものの正体が私です。

 どこにも光が見えない私です。
 コロコロコロコロスットントン。

 なんまんだぶつなんまんだ。

 いっぱいなんだから。

 アミダさんはみんなを愛し信じて救ってる。
 だけどそれはよくないな。

 私一人だけを愛し信じてくれないと私の自尊心が
 崩れてしまうから。

 だけどほんとに愛し信じられてみると
 もうだれかと比較しなくてもいい愛情だから
 ちっともそんなことを感じなくてもいいようになってくる。

 たった一人の母親とたった一人の子供のように
 私だけを愛し信じてくれていたことを
 もう十分なほどに感じ させてもらっているからな。

 むしろ、もう自分はいいから、
 ほかの誰かさんにその愛情を分けてあげてよ
 と言いたくなるほどなんだ。

 毎日毎日が有難うの気持ちでいっぱいなんだから。

 なんまんだ

もう胸がいっぱいなんだから。

 アミダさんはみんなを愛し信じて救ってる。
 だけどそれはよくないな。

 私一人だけを愛し信じてくれないと私の自尊心が
 崩れてしまうから。

 だけどほんとに愛し信じられてみると
 もうだれかと比較しなくてもいい愛情だから
 ちっともそんなことを感じなくてもいいようになってくる。

 たった一人の母親とたった一人の子供のように
 私だけを愛し信じてくれていたことを
 もう十分なほどに感じ させてもらっているからな。

 むしろ、もう自分はいいから、
 ほかの誰かさんにその愛情を分けてあげてよ
 と言いたくなるほどなんだ。

 毎日毎日が有難うの気持ちでいっぱいなんだから。

 なんまんだ

いつもときどき。

 輝いている人がいる、外側いつも時々。
内側が輝いているように見える人がいる、いつも時々。

 内と外が変わらず耀いて見える人は仏様そのものしかいないんだなろうなぁ。

 それと、仏様に出会った人でも晴れ時々曇りになるからいつもというわけにはいかないが、本人も気が付かない心の底ではいつも輝いていることを知らないだけなんだろうな。

 それはいつも変わらず耀き続けている仏様にしかわからないものなんだろうな。

 仏様はそんなみんなの心の底からの輝きを信じておられるからいまも命を懸け続けているんだろうな。

 なんまんだ

凛として。

私とあなたの間には空気という空間がある。そこには苦しみや悲しみや人間の喜びや痛みはない。空気は地球と宇宙を隔て繋いでいる。
 私とほかの個体の中にだけ怨みの海が果てしなく続いているだけだ。時として、その海全体が憎しみの炎に包まれる時もある。

 それも私という小さな宇宙の中での出来事だ。

 友や夫婦や人類で平和や争いの心を共有することが出来ても大きな宇宙から見れば小さな出来事にすぎないかもしれないが。

 そんな小さな宇宙がそれより大きな永遠の宇宙という悩みも苦しみも楽しみもない完全で絶対的な宇宙の絶対愛という本質との指導原理に基づいている宇宙に比べれば、小さな事だと言ったけど、二つは関連関係している一つの命として存在しているのだろう。
 この二つの言葉にしないと見えてこない関係存在の狭間の中で私は生きて来た。この小さな宇宙が崩壊したら、この眼の前の無分別の大きな宇宙の中の小さな波に凛として輝くことが出来たら、おもしろいなと思っているんだが。

なんまんだ

弥陀の願船何処へ行く。

 決して沈まぬ弥陀の願船に乗っても船が浄土へ進めば四海波静かな時もあれば煩悩の濁水海の怒涛に巻き込まれる時もある。

 人生の大波小波に遭えば船の中にいても心に漣が立つ時もある。向こう岸に着くまでは悲しみ嘆きが続くものと知りつつもである。 

 彼の土に着いたら着いたで、次の人を乗せるため浄土にほんの1〜2秒もいやしないユータウン。

 往ったり還たりするこの船の名前はあみだ丸だが、諸仏の手作り、諸神の手作りナンマンダで出来ている願船だ。

 船にはどこのどなたが乗ってもいいけれど乗ったら乗ったで、次の人を助ける本願力になって手助けする仕事が待っている。

 作り手の苦労がしのばれ大苦海に浮かぶる大船だから一度に大勢の人を乗せて渡すことが出来るサービス満点の船旅だ。

 今日も行く行くナンマンダブツの汽笛を鳴らし、今日は日本かアメリカか。ヨーロッパインドの仏跡聖地ナンマンダブツの船が白い煙をあげて走ってる。

なんまんだぶつなんまんだ

1つで二つだったんだな。

もともと一つのものだったのに

正反対の世界は一つにつながって

いたなんて知らなかった

もうここでいいんだな

もうどこへも行かなくても

ここでこのままなんまんだぶつと

言っているだけでよかったんだな

そんな100%満足できる世界に

生きることが出来たんだからな

それを知らなかっただけなんだからな

なんまんだ

この俺にも腹の底から滾るものがあるだな。

 
最近は、お母さんも、お父さんも、お前もあなたもなくなった。

主語がなくなってゆく生活になってきた。

「お~い」も他人が聞いたら誰を呼んでいるのかわからない。

外ゆく熊かキリギリス。

そういえばあみだ様も無量壽如来や不可思議光仏というけれど、どこをとらまえホントの正体は主語のない諸仏諸神の生命集合体のようなもの。

永遠に動きはたらき移動している一種の無我意識集合体だ。姿も形もないものを言葉や仏像で捕まえようとするけれど、尻尾も掴めぬ命そのものの塊だ。やはりここも主語がないのがホントの姿。

それでもなんまんだぶつの声にまでになってくれたおかげで、まるで夢の永久小型核融合発電所のように、どこの誰の命でも心の芯から温める。

なんまんだぶつと滾らせる。

なんまんだ 
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