一つを二つにして最後は一つにして出すのだ。

 仏縁を感じる機微によって宗教心がはたらきだすと自然にその感動や畏敬や尊崇の念がなんまんだぶつという言葉と心が伴ったものとして口から出てくる。

 信か行かというが、信心のはたらきが最初で、それが最初になければ念仏も正しいはたらきのないものとなり心無いのは当然の所作になるのである。

 だから、信ずることと行は仏のところでは一緒であるが、人間のところにくれば、それを人間の分別意識が二つに分けたほうか理解しやすいと判断して、二つを意味のないものにしてしまうから信行は本来一つの仏の純粋な宗教心のはたらきであって、そこに戻ることが聞法の課題として我らの意識に困難を与えているだけなのである。信行を一つと体得することは人間の課題なのである。
なんまんだ。

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