凡夫の浅智恵。

 凡夫の浅智恵だが、仏教は仏になるためのブッダの菩提樹下の端坐を真似る瞑想修行から限定的な場所での集団鍛錬による宗教心への目覚めへの普及から、それらを支えている現実の我らに浸透した浄土往生の具体性は真実性へとその方法と表現が変化してきたのだと思うのです。

 一個人の何気ない日常生活の場における言語化された仏への帰依という簡易でありながら真実と直結している阿弥陀信仰はいつでもどこでも誰でもが特殊な条件や制約を離れていてもそれを可能にすることが本来の仏教であったと自覚されてきたのです。

 この誰でもが持っている宗教心の普遍的な欲動性を持つ六字は、修行以上に困難を極める日常を送っている人々に簡潔な救済方法として、真実の世界を直裁することが多かったので、さらに、それの真実性が普遍的になって今日に至ったものである。

 ブッダ以前の諸仏の原点に帰れば、ブッダの修行形式が普遍的であるのではなく、それ以前の多くの諸仏が体得してきて六字の信仰がその源にあり、それがブッダによって端坐するという外形を取りながらも、内面では六字の信心獲得、宗教心の目覚めにこそ、その真意があったとみるのが諸仏という多くの諸仏が真理を極めた源流とするならば、その普遍性は今日の我らの本願念仏と相当する姿を取っているものではないのかと思われるからです。

 ブッダも諸仏も肉体の限界を持った人間であればなおさらのこと大無量壽経に書かれている諸仏の歴史が我らの歴史と符合してくるのではないかと思うのです。親鸞も信心の人は菩薩というのであれば、なおさらのことではないのでしょうか。
なんまんだ。

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