庶民一般大衆という人はどこにもいないけど。

 従来の修行仏教公式から外れて、念仏門は非公式に仏になれるあみだ浄土へ行って仏になると言われていたが、従来の聖道門修行による仏への公式入門コースが実は仏が入れる大きさの門構えなので、なかなか一般の人が入れなくて、入って覚った人のおこぼれに与かっていた。

 しかし、念仏門の方がもともと人間が入れる大きさの門になっていたので、庶民大衆一般の誰でもがドシドン入ることが出来ることが分かった。

 しかも、どちらもあの世に生まれるまでは内定で、同じように僧侶も出家者も妻帯肉食をしているので見分けがつかないのだ。

 方やネクタイやジーパンだし、方や剃髪に黒の僧服だ。

 だから念仏門の方が説得力があって庶民の誰でもがその門に多く入ることが出来たのだ。果たしてブッダは我々庶民にどっちの道を選べと言っていたのでしょう。

 人間の精神的な原型に適合した救いとその方法が念仏以前になかっただけなのだと思います。

ブッダ自身も多くの経典にナムアミターユス・ナムアミターブハ
と言っているし、最近では念仏の信心も座禅の悟りも同じ中身という学者までいるほどだ。人間の心の構造が同じなら同じ宗教心の開花に相違ない。

なんまんだ。

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