死は第二の人間のスタートだ。

 死ぬことは人生のゴールだという人は多い。
 家族との別離や苦悩からの脱却もあるから、だからこそこの人生を有意義に過    
 ごすべきだという。

 その意義を宗教に問えば、悲しみや別離や苦悩からの脱出だけではない。あな
 がちこの世からだけの視点だけでないことがある。

 宗教的に言えば、この世で生死の苦悩を超えれば、この人生には二重の生活が
 見えてくるようだ。

 一つはこの世で人生を完結する方法と目的を探すこと。もう一つは宗教的な信
 念に基づけば、自身のための真実の信念の確立がなされれば、それは自己から
 あふれ出す慈悲と智慧が永遠のものであることで、この世の終わりが、すなわ
 ち、人生の真実のスタートになってゆくということである。

 この光と命の真実が永遠の活動をするものならば、その世界を認識したのな  
 ら、その働きの中で生き続けることこそが、人間の人生の意義になるからであ
 る。

 だから肉体の死をもって、人間誰しもが、この世でその死を迎えても、その永
 遠の輝く命の中にすべての短い命が溶け込み限りない世界の渦に巻き込まれて
 ゆくのであるから、輝く命の願いに生きるものとなる以上、肉体の人生の死を 
 もって永遠の命の世界への、真実の意味での人生の再スタートになると思うか
 らなのです。

 今その道をみんなが意識しようが、しまいが、一人でもその道を一歩ずつ歩い
 ていくというところが人間として意義のあるところであろうと思うのです。

 なんまんだ

死は第二の人間のスタートだ。

 死ぬことは人生のゴールだという人は多い。
 家族との別離や苦悩からの脱却もあるから、だからこそこの人生を有意義に過    
 ごすべきだという。

 その意義を宗教に問えば、悲しみや別離や苦悩からの脱出だけではない。あな
 がちこの世からだけの視点だけでないことがある。

 宗教的に言えば、この世で生死の苦悩を超えれば、この人生には二重の生活が
 見えてくるようだ。

 一つはこの世で人生を完結する方法と目的を探すこと。もう一つは宗教的な信
 念に基づけば、自身のための真実の信念の確立がなされれば、それは自己から
 あふれ出す慈悲と智慧が永遠のものであることで、この世の終わりが、すなわ
 ち、人生の真実のスタートになってゆくということである。

 この光と命の真実が永遠の活動をするものならば、その世界を認識したのな  
 ら、その働きの中で生き続けることこそが、人間の人生の意義になるからであ
 る。

 だから肉体の死をもって、人間誰しもが、この世でその死を迎えても、その永
 遠の輝く命の中にすべての短い命が溶け込み限りない世界の渦に巻き込まれて
 ゆくのであるから、輝く命の願いに生きるものとなる以上、肉体の人生の死を 
 もって永遠の命の世界への、真実の意味での人生の再スタートになると思うか
 らなのです。

 今その道をみんなが意識しようが、しまいが、一人でもその道を一歩ずつ歩い
 ていくというところが人間として意義のあるところであろうと思うのです。

 なんまんだ

蒼天のキツネ

 足して足して足して、加えて加えて加えて、上に上に上に。

 風船や凧じゃあるまいし、いつか糸が切れて行方不明になって落ちてくる。

 それはそれで高いところからいいものを見たからいいかもしれないな。

 上も下も見たからいいのかもしれないな。

 みんながみんな世のため人のために尽くさなくたって、尽くせなくたって、ど 
 こかへ飛んで行方不明になったっていい世界があってもいいのかもしれないな

 ときには山女や山男となって、どこかでひっそりキツネのように、一人で広い 
 草原に寝転んで、どこまでも続く蒼天を見上げたまま死ぬのもいいかもしれな
 いな。

 なんまんだぶつなんまんだ

花と人と雲。

 釈迦は涅槃に入った。キリストは天に召された。
 親鸞はかの土(魂の故郷)に帰る。
 みんな生きているときに宗教を語るので死後
 のことは語っていないようだ。

 それなら、肉体の死後は完全なる無に帰るから
 生きているときの浄土であり、 

 天であり、涅槃ということになる。

 それぞれ呼び方が違うだけで、生きているときの
 浄土や天や涅槃も、宗教的に 
 はみな同じ精神世界のことを言っているのだと思う。

 生物学的には人間の体も心も昔と
 そんなに違いがないのなら
 西洋人も東洋人もアフリカ人も
 きっと行先は同じじゃないのかな。

 そして、人も植物も、昆虫も動物もみな同じ命なら、
 みな同じような感受性や 

 考えを持っていて行くところもみんな 
 同じところに行くのなら、同じ命とし 
 て平等で平和な世界を目指してみんなこの世を
 生きていることになるのになあ。
 
 なんまんだ

輝いている言葉。

 
 真心を込めて物を作る。
 誠心誠意を尽くして説得する。
 気持ちを込める。
 みんな目に見えない測れないものばかり。

 行動や形でしか知られないけれど、
 形と心が一つになって見えてくるときがある。

 その大事な、その人の真心も見え作る行為の
 形と心が一つになることは、人にはなかなかできないが、
 仏さまだけはその心と形が純粋に一つになった
 命の言葉の形を持っている。
 南無阿弥陀仏と心が純粋な輝く言葉という
 形になったものを持っている。

 それが私達の心に育つとき、その純粋無垢な
 一つの心と形の純粋形に導かれ、
 その行く先まで安心してついていけば、
 いい形と心がだれにでも与えられてくるに違いない。

 なんまんだぶつなんまんだ

なんじゃこりゃ。

 
時は残酷で優しいな。

時なんて最初からないものを。

人が美しさと、醜さで埋めてゆく。

 その時が来れば、その時が来ればと念じつつ、いつまでも、その時が来ることを待つ悲しさよ。

 その時が来た時は、いつも、その時は来ていたけれど、初めて来たかのように受け止める。

もうすでに、一度経験済みのことなのに。

 なんまんだぶつも初めて会った気がするけれど、ほんとはすでに会って知っていて、そこに生まれて、そこに帰る旅の途中の一里塚。

 なんまんだぶつ。なんまんだ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

 夜もすがら なむあみだぶつを称うれば むかし称えし我が名なりけり
                          詠み人知らず

なんじゃこりゃ。

  時は残酷で優しいな。時なんて最初からないものを。

人が美しさと、醜さで埋めてゆく。

その時が来れば、その時が来ればと念じつつ、いつまでも、その時が来ることを待つ悲しさよ。その時が来た時は、いつも、その時は来ていたけれど、初めて来たかのように受け止める。

もうすでに、一度経験済みのことなのに。

なんまんだぶつも初めて会った気がするけれど、

ほんとはすでに会って知っていて、

そこに生まれて、そこに帰る旅の途中の一里塚。

なんまんだぶつ。なんまんだ。

なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

なんじゃこりゃ。なんじゃこりゃ。

もういいよ。

 
ここで本当の幸せを味わったからもういいか。
仏様との約束もろくに果たせなかったからもういいか。
仏さまのお手伝いもろくにしなかったからもういいか。
いい人間関係も築づけなかったからもういいか。
なんまんだぶつに救われたからもういいか。
今日も晴れだからもういいか。
今日は死ぬのにいい日だからもういいか。
もういいかい。
まあだだよ。
もういいかい。
もういいよ。

なんまんだ

宗教的な自覚なんて今ここに見えているのにな。

 
 もともと仏教の自然の道理は、人間の身心のありのままを如実知見することであり、その中で生きてはたらいている真実一如とともに生きる大切さを説いているものである。

 人間が育んできた理性的な道理や修道主義などは、一如の用きからすれば知的空想の産物のようなものである。

 真理がわれらに共同せよと呼びかけている真実の用きは、我らに一真実の仏道の悟りの世界の場に向かう用きを一切必要とさせず、いま、ここに、その身そのままの今のそこへの用きに、ありのままの心のままで一切を手放されて、真実一如の働きに任せてゆけば、おのずから向こうからの真実の声がここに届いていたことを知り信じられ、それがありのままのこの心と体に聞こえてくるということだけなのだと思うからなのです。

なんまんだ

どうしてもかっこいい自分意識。

 
 人間の普遍的な意識という合理的、知性的な自我意識の判断が正道とする自分自我意識が持続しているから、今日まで仏教の初動の総合的で純粋な縁起の道理の教えから現実のわが身、わが心の実質的な救済の実態からかけ離れていったのではないのか。

 いわゆる理性的に判断すればという人間がその自我意識を超え包んでいる仏教の道理の用を、真実のわが身の現実に正当に信受理解する時、一見矛盾する非合理的な仏教の悟りや信心世界は後からついてくるものだとして、総合的な実践体得を後回しにして、人間の理性の理想主義的な理解に出てしまった初動から持っていた課題だったと思うのです。

 そこから、聖道浄土の変わり目が継続してしまったのではないのかと思うのです。この葛藤は宗教が続く限り抜きがたいこの自分意識を解決すべき総合的な個人課題でもあると思います。

 なんまんだ
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