カラスの独り言

身も心も生まれ変わらなきゃあ意味がない。

 浄土に生まれるとは身と心が生まれることだ。心だけだと自覚したとか、気付いたとか、主体となるとか悟ったでは物足りない。

 赤子が母体の水中生活から肺呼吸の陸上生物になるように全身生まれ変わらなきゃ意味がない。

 宗教心を獲る様な儀式で、水の中に一時沈んでまた出てくる洗礼の儀式があるように、この世で本当に生まれ変わるとは本物の宗教心がわが身に生まれ、中から外まで全身全霊生まれ変わったようになることだ。

 もうそれでいいのだ、ここですでに罪悪深重の大悪人が大往生で充分だ。

 浄土に生まれ変わるのはたった一度この世の一度で十分だ。

 体ごと生まれるのだ、体ごと。

 そうだ、浄土に生まれるとは身と心が生まれなけりゃあ意味がない。

 しかも、今ここでこの身この心このまま極重悪人唯称仏でなきゃあ意味がない。

なんまんだ。

極楽鴎が飛んでくる。

 如来の願船にのって船酔いする私がここにいる。

 乗ってももとも唯除五逆の煩悩五欲を持ったままだから願船の揺れと自分の煩悩の揺れの波長が時々合わない時に酔う。

 調子のよい時はアミダの願船有難いと上機嫌の酔い方と、体調や世間とのいざこざに悪酔いする時がある。

 お浄土行の船なのに、なにを世間に振り回される。

 裸一貫丸ごとのお救いだったのに、いつの間にかに自我意匠の煌びやかな衣装を纏ってる。

 それが綻んでミダの願船で嘆き悪酔いゲロッパだ。

 沈む!沈む!あてにならぬと沈む身を頼んで不沈空母の中を行ったり来たり大慌て。

 眦を決して大空を見上げてみれば、見上げる前途洋々天気晴朗なれど波高し、順風満帆もうすぐお浄土東岸まじかに極楽鴎もオリーブの枝を咥えて出迎えだ。

 なんまんだぶつ。なんまんだ。

影と光と二人の仏。

 映画パーフェクト・ディズの二人の煩悩苦悩の暗い影を足せばもっと暗くなる。

 それだけ如来の光が強くなるのではなく平等な光の質は変わらない。

 それだけ二人の煩悩苦悩が深く暗いという証明の場面。

 それは如来の光が正しく強く二人を救いに向かって射しているという事だ。

 あみだの愛と智慧の光が二人の底知れぬ過去と未来の罪を射しているという事だ。そこに救いがあるという事だ。

 影は罪。二重の影の罪を背負ってアミダは生きてゆく。

 二人の罪は仏の罪だ。二人の悲しい涙はアミダの涙。

 そんな二人を涙流してアミダは今日もとぼとぼ二人とともに生きてゆく。

 それでもこんな二人こそ仏にさせるのだと仏は生きてゆく。

 光は如来の姿なり。影は仏と二人の涙なり。なんまんだとともに生きてゆく。

 なんまんだ。

perfect・days is now?

 映画パーフェクト・ディズの「今度」とは人間の価値や時間を指す相対的な未来を指す今度なのだ。

 今と言うのは仏が包む絶対的な永遠の今を指す今なのだ。我らにとって永遠の今とは皮膚感覚のアミダとともにいる今なんだ。口をきいてくるあみだとともにいる今なんだ。
 
 今の時は仏様の命の永遠の時の今なんだ。今の時はないんだ。私とほとけとすごしているときは本物の命だけなんだ。

 切り刻めない永遠の命だけがここにあるだけなんだ。

 生きて我らと会話ができるあみだと生きている今なんだ。

 永遠とは今に私に人を愛する心と智慧を与えてくれる心の灯となる人格的な意味を持つ見えない働きをしてくれているアミダ様と言う人なんだ。

 永遠とは死んでから実感できるのでなく、常に我らの身近に会って、見えなくとも愛するという動詞的な意味の愛なんだ。

 雪景色の季節に、ほっと息が付ける陽だまりのような人なんだ。
 それにみんなつつまれているんだな。

 私らにとって永遠とは常に目の前にある身近なブッダの悟った縁生存在の確認なんだ。

 自己証明なんだ。ただのなんまんだぶつになったほとけだけなんだ。

 なんまんだ。

忘れてる。

 
 みんな大事なものを忘れて死んでゆく。

 あれもしたしこれもした。なにも人生やり残したことはありません。

 一応人並みなに幸せな生だったし、それで充分幸せな人生を送れた多と思います。

 これで私の人生は100%です。

 それでも大事な忘れ物が残ってる。

 そう言わせている自分自身を忘れてる。

 こう言わせている、そう思っている俺自身を支えている本当の自分自身の満足を忘れて死んでゆく。

 それほど大事な本当の自分自身の幸せを忘れてみんな死んでゆく。

 たった一度の人生だってみんな言っているのに、その本当の目で気を忘れて死んでゆく。

 自己承認だけで死んでゆく。

 本当に幸せになりたい自分自身を置いて、私もみんなも忘れて死んでゆく。

 仏様だけが皆覚えてる。

 なんまんだ。

この世で生まれ変わる方法がある。

 人はこの世で生まれ変わろうとしても死ぬ以外、生まれ変われる新しい場所と空間がない。

 それでは人間本来の根源的な新生が出来ないので、それを新たにすべての人間に与えようというのが、というより、むしろ、本来の人間に生まれるためなのだが、あみだの浄土なのだ。

 この世で心身ともに生まれ変わって、新しい、本来の人間の根本精神を復活させて、一から人生をやり直せるのではなく、仏の視点をもって見直すことが出来るようになるために。本来の人間とは、生まれながらに知らずに持っている深い宗教的な精神に目覚めれば肉体的、空間的にも変化が感じられるから、今まで見てきたもの、聞いてきたものに新しい宗教的な真理の輝きが見いだせるようなものに、この世の時間と空間が仏の真理につつまれ、変化したように思われるようになるからだ。

 この世に居ながら、さながら涅槃浄土の中にいるようなものである。

 ただし我が劣悪な煩悩と共にではあるが。しかし、この新境地に誰でもが念仏一つで生まれ変われることが出来るようになるのである。

 そこに今ここに生きている証明が本来のなんまんだぶつ一つなのである。

 これがこの世で生まれ変わり黄泉がえりの生まれ変わりの唯一の具体的な方法だ。
 
なんまんだ。

人生はプレゼント。

 過去はPast tense。現在はPresent tense。未来はfuture tense。現在Presentは贈り物。与え。ギフト。値打ちあるもの。寄付。親しい人の間の贈り物。との意味がある。

 英語で語り継がれてきたこの言葉の原語は知らないが、洋の東西を問わず同じような人生に対する問と答えがそこにあるような気がするのである。

 全ての私たちの今の人生は一体誰からの贈り物か。何をするための人生か。自分の人生は自分だけの人生でよいのか。自分の人生だから、ただ自分の人生を謳歌するだけでよいのか。

 人生、そこには何かの秘密があるに違いない。その秘密を説いたものが人生の本当の蜜を吸えるようになっている気がしてならないのである。

 真宗の妙好人源左が法座の講師が顔を赤面し出てきた。酔っていなはるのかと問うたら、講師が「お与えじゃ」と答えたという。私たちの人生も神仏からのお与えと思って尊重すれば自ずから、そこにお与えの人生を正しく生きてゆく道が見えてくるのだと思うのです。
なんまんだ。

これでいいのだ。

 他の原因や自らの原因で起こったことも、大きな自然の道理の仏縁として、全てが事実として起こるべくして起こっている。

 そこに人為的に介入できたと思っていても、大きな自然の道理の構造の中での真理への道筋への行為の表現とすれば人間には自由という精神も行為も真理の運命に従っているなかでの真実の中の大事な一事実という事になる。

 すべての命はその中に生まれ、その中で終えてゆくことを知って生きてゆくことが最善の生き方になるのであろう。

 抗えない真実の構造は人間が妄想する自然への優越や勝ち取るべき人類の歴史などはもともと人間の妄念が描いた虚構に過ぎなくなる。しかも、それさえも真理の構造の中での人類の真理へ向かう一つの思考方法の一形態に過ぎないという事になるのだ。
 
人間の自由意志もその中ではすべて許され、真の自由への第一歩に変容してゆくものになってゆくのだ。
なんまんだ。

多分救済の構造。

 我らがブッダと同じ精神構造を持っていなければ、全ての人に救済の差異が生まれる。能力に優劣の差こそあれ、基本構造の基本に同じ発現性がなければならないし、むしろ、真理と俗諦が距離を置いているのであればどちらが近づきやすいかは一目瞭然である。ブッダの坐する姿はどこまでも人間ブッダであろうが、そこにブッダが真理の構造につつまれて悟ったのであれば真理の構造が人間ブッダを超えて、人間ブッダとして形作ったのであれば真理のはたらきの構造こそがブッダの求めるものであり、我らの求める真理の形なのだろう。

 その真理の形の構造こそが、念仏精神的の救済の構造となって我らに言語化された形で付与されているのである。

 その言葉になった救済の構造の中に存在していることを知ることが我らの救いなのである。
なんまんだ。

ブッダの悟りと親鸞の罪悪深重。

 親鸞の罪悪深重の凡夫とは我無しという仏教の諸法無我に通ずるところがある。

 それは罪悪深重を自覚認識する時、自己の我痴我執我慢の根本無明を自覚することは、知る我と知らせる仏との間に間接的でありながら直接的な接続関係が成立したという事であり、その精神的な俯瞰距離の客観的な状態からこの二対の両立関係を見ることにより、一時的にでもそこから距離を置くことが出来、相対的にでも絶対的にでも苦悩から救われたという事になる構造があるからである。

 それは真の無我に近づき縁起の理法を知ることになり、生死の苦悩を永遠に離れ、無我自在の精神科的な境地を誰でもが認識できるような精神構造がすでに人間には未完成のままで付与されていたという事があるからである。

 その根本にはあみだという真実一如の無我の精神的な時空が真如一実として与えられていたからである。

 これらの一実世界の人間と神仏との結実空間がそれぞれの自我意識空間に限定的に与えられていることにより、人間には自己の中に自由自在ともいうべき精神的な空間を持ってここに生きてゆく意味と目的に気が付くべき存在としてのこの心身が与えられていたという事になるからである。
なんまんだ。
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