今を生きる時という事

 仏の時間のない時間と時間のない人間が作った時間が二つある。作った時間、造られた時間。
 永遠の時間のない時間こそが本当の時間であって、分割した時間は永遠の一時を目に見える形で刻んでいるだけで、それは仮の時間なのである。
 実際の実時と言うのは法界で減りもせず増えもしない、そういう実時間の中にいるのが私たちなのだけれども、私たちの限定的な心と体の関係で長いとか短いと感じているだけなのだろう。永遠の時間と言う無限の時間の中に生まれ、その中に帰って行くというのが本当の私達の命なのではないのか。
 私にとっての本当の時間は私に与えられた限定的な命の時間と仏の永遠の命の時間がクロスするところに真実の一念の仏の命の時間が現れて私の本当の命の時間がそこに現れてくる。それを根本として生きることが今を生きるという事なのだと思うのです。

なんんまだ

仏の貌

「虚無之身無極之体」とは念仏が純粋な救済活動している現在形である。
 念仏は私の自力意識や他力意識や煩悩心本能心など身体的肉体的な制約の全ての心を離れて如来本来の呼び声なんまんだぶつに帰ってゆき、そして、私の耳に純粋無垢な清浄心と智慧と大悲を念仏と言う独立しながら私の耳に救うと呼びかける往相の回向と言う見えない用を言葉にまでなって仏と言う見えない姿の形として私に救いをはたらきかけているのだ。
 私の耳に「我が国に来たれ生まれよ、そして仏になれ」と耳元に囁き続ける確かな生きた言葉の仏になっているのだ。
 たとえ、どんな人の心から口から出た念仏であっても、それは如来の真実一如であり色も姿も形もましまさぬ、という真実の相そのもの、精神の相、本願の生きた相そのものとなって、救われ続けなければ助からぬ私の耳に心に囁く。
 救われてゆけと。そして、完全涅槃仏になれと。なんまんだぶつになるのだと。

なんまんだ

言葉になってもうた仏様

言葉になった仏様と言うのが阿弥陀様という。救われたときには真実一如と言う心も言葉も及ばない仏の世界に触れたのだから、普通の言葉を超えた世界に触れたのだからまともな言葉なんか出てこないものなのだろう。
 全身全霊打ち震えるものが心の底から響いて来ているのだから、まともな思考が働かないものなのだろう。
神か仏か宗教心か、それがアミダか分からないものがこみあげて、少し時間が経ってから言葉となって出てくるものがナンマンダブツ申しなさいと、感謝と懺悔の心がいっぱいになって、まるで親不孝息子が親に懺悔、不幸を謝るようなものなのだろう。
そのことを思い出す時、いつもお母さんお父さんごめんなさいと言うようなものだ、ナンマンダブツの言葉だけで許されていくようなものなのだろう。それから、その念仏には真実一如を象徴する、体現した私の主体として血の通った言葉としての、私を真実一如の故郷に導いてゆくこのような実働的な象徴言語がなかりせば私の心は煩悩林を遊び回ることが出来なくなるのでしょう。

なんまんだ

救われるという構造

 頭の先から足の先まで煩悩で全部で出来上がっている私。煩悩が起こればそれに支配されてしまうようにできている私。生きていくということと煩悩が無いと宗教も成り立たないという非合理的な私の心。それに従って動かされてゆくからだ。
 体自体は本能の自然要求が満たされれば決まった寿命まで生きて行くだけだ。心だけはそれに反して、いつまでも生きて行きたいと思っている矛盾。
 その矛盾のままで救うという阿弥陀仏は基本的な精神構造が真実一如であるにもかかわらず、人間を救うに就いてその精神構造に応じ三段階に分けて救いを始めた。所謂三願転入である。すべての人間の救済に掛かった時の精神構造は、まず仏という真理に近づくと客観的な対象としてみる。
 次に見様見真似で念仏をする。そして、その念仏の精神に触れてアミダの根本精神が自我意識の根本精神になるのである。
 だから、こんなアミダ様は仏の中でもよほど変わった仏様だと思うのだが、逆に人間の精神構造の複雑さによく答えている仏だと思うのです。つまり、本来の人間精神の主体の回復がこの本願によって正しく成り立つことが出来るという事なのでしょう。
 一般的な宗教的な基盤とは人間の努力意識の高い人が一番誉められ仏として最初に救くわれてゆくのでしょうが、人間の意識から見れば、努力こそが人間を救済する基準とおもうのだが、しかし仏の基準は一番煩悩で傷ついている方から救いたいというものなのだ。
 人は死んでしまうから真実の救済の声を聞かずに去ってしまうから、一番先に掬ってしまわないといけないらしいからなのでしょう。救われるとは自分自身で自分自身の心の構造を知るという事になるのだと思うのです。
 汝自身を知れという事がアミダの本願と言う精神構造に触れることによって誰でもが自分自身の世界の全てを知り得るという事が成り立つという事です。

なんまんだ

今に与えられるもの

 機が熟したら一念が即の時だ。どうしたら得られるのかと言っているうちはどうしても得られない。
 悲しいけれど、どうしようも、こうしようもなくなり、ついに手も足も出なくならないと、向こうからお出ましにはならないのです。引っ張り出そうとか、叩き壊そうとしても出会えないようになっているのです。
 柿が熟して地面に落ちるのを下で待っているようなものです。だからと言って違う方へ行ってしまえば柿が食えなくなるのです。あちらも決して意地が悪いのではなくこちらの方の求道心が熟すのを待っていないのでしょう。
 出会えるまでのこちらの願いがまだ本物になっていないというか、まだ未熟なのでしょう。菩提心がまだ浅いのです。まだ信じる心を受け入れられない心のままなのでしょう。
 いつでも信心は与えられるのでしょうが、今ではない、今に必ず与えられるものなのでしょう。

なんまんだ

罰当たり

「この罰当たり奴!」と小さい頃よく言われた。その時どんな意味が変わらなかったが、分らない分その語気に仮脅されたことがあった。予想できない第三者から悪いことが与えられることを予言されたような呪いの言葉のようで心が騒いだ。
 罰当たりとは、見えない誰かが決めたことに背き気が付かない事だが、それをしたことで、そのまま行けばその罪が増幅して罪の海の底に沈潜し、魂の抜け殻だけとなり、ついに生きながら死ねない彷徨魂になってしまう。身を亡ぼすことだという事を今知れという事なのだろうと思うのです。
だから、いま真実を知らず生きているが、いずれ真実とともに生きることが正しい生き方なのだとすれば、真実のはたらきに逆らって生きている今の生き方が罪なのだから、その罪のままでは生きてはいけない、だから、罪を持ったまま今生きている根拠を、逆に真実から教えられ、真実と共に今生きていける信念を見つけて完全に涅槃死できる死即成仏の道を得よということが「罰当たり奴」と言う言葉の真意なのだろうと思った。
なんまんだ

身につく

着物が身に着く。宝石が身に着く。
 だけど、これらが本当に身に付いたものになるには時間と経験が必要だ。地位もお金の使い方もそうだと思う。それなら念仏も信心もそうだろう。
 なむあみだぶつが身につくには、身に染み込み味や後光が射してくるまでには時間がかかるのだろう。
赤ん坊のような念仏信心から老人のものになるには、中身は同じでも本物の念仏者になるには、この身の芯までしっかり染み込むまでには、お浄土まで持って行けるまでには、それなりの時間がかかるのかもしれないし、そのままでもいいのに違いないい。

なんまんだ

時の神様

 時の神様がいれば私ほど時間を無駄に使ったものはいないのだろう。無駄とは仏のもとに生まれながら仏の心を知らずにいたことだ。
 こんな年になって残り時間が少なくなって、今更、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、やっと会えて、今までの無駄に過ごした時間はこの時の為だったんだなと思うのです。
 時は命なり、と仏教ではいうそうですが生活のための時間も、勉強や遊びやテレビなんかも、みんなここに来るために必要だったと思い返せば、そこで過ごした時間にも少しはその意味が生まれてきて、無駄ではなくその底にも仏の永遠の命が流れて来ていたからだと信じることが出来るようになってきた今日この頃です。
 そう思えば少しは時の神様にも許してもらえるのじゃないかと思うのです。

なんまんだ

宗教的表現

 あらゆる職種や環境心境乗り超えて宗教心とか仏に目覚めたことを救われたと言うのならば、その後の生き方からくる種々の生活表現が出てきます。
 例えばモーツワルトなんかもたぶん作曲にその心を現しているし、親鸞聖人は教行信証に宗教哲学的に表している。自然農の山口由一師も畑を仏として生きている。蓮如上人は手紙と言う今でいうSNSで。空也聖人は念仏踊りでその生きる喜び現し、ブッダは対機説法というカウンセリングで真価を発揮した。
 金子みすずは詩でもって、釋貞聞さんは油絵で、棟方志功は版画でその心を強烈に表現していった。
 フランチェスカも同じで人々に感動を与えた人はみな、どうもこの仏ごころと言う宗教心に目覚めた人々達に違いない。
 なんまんだ

つらい波がやって来た

 今がつらい時、今までやって来たことがもとだったりすることがある。生まれる前から背負ったものだとか、生まれた時からもらったものや知らずにしてきたことだとか。そんな無自覚のものだったりすることがある。
 それらが、ほったらかしにされたまま自然に増幅して現れて来たものもあるかもしれないな。
最初は小さな波でも次第に振幅が膨れだす。
 この世も私も自然すら自因自果だとするならば、救われたことは自身の全ての悪業を知らされることだとするならば、それらの悪業が救われ難い原因ならば、今の私が救われたなら、それらの結果を引き受けること、知らされて恥ずかしいという世界を知らされること、救われないほどの業縁を抱えて生きて来ていたという事はその業縁があって、これ以上、人間として生きられないというところまで来てしまって小さい時にその原因を基から知っていたならば、真実世界を知っていたならば、救いを早く求めていたならば、悲しい人生最後の時になってからでは手遅れになってしまう時がある。

なんまんだ
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