この俺にも腹の底から滾るものがあるだな。

 
最近は、お母さんも、お父さんも、お前もあなたもなくなった。

主語がなくなってゆく生活になってきた。

「お~い」も他人が聞いたら誰を呼んでいるのかわからない。

外ゆく熊かキリギリス。

そういえばあみだ様も無量壽如来や不可思議光仏というけれど、どこをとらまえホントの正体は主語のない諸仏諸神の生命集合体のようなもの。

永遠に動きはたらき移動している一種の無我意識集合体だ。姿も形もないものを言葉や仏像で捕まえようとするけれど、尻尾も掴めぬ命そのものの塊だ。やはりここも主語がないのがホントの姿。

それでもなんまんだぶつの声にまでになってくれたおかげで、まるで夢の永久小型核融合発電所のように、どこの誰の命でも心の芯から温める。

なんまんだぶつと滾らせる。

なんまんだ 

こずえさんの宝物

『自由奔放な30年、闇を彷徨った30年、そしてこれから40年?』
3人兄弟の末っ子に生まれ可愛がられ自由奔放に育ちました。一方で人懐っこく世話好きで面倒見の良い近所の子供たちのお姉さん的な存在の私でした。
そんな私は、30歳目前にしての電撃婚!日本有数の畜産農家の跡取り息子の嫁。180度違う生活環境、古い田舎の価値観での暮らし。馴染むことはできませんでした。
拒食症に始まり適応障害、躁鬱病、解離性健忘症等。ついには統合失調症、治癒の見込みなしの精神障がい者に。

それでも農場の稼ぎ手として肉体労働、単純労働をこなして来ました。心と身体は極限状態となりながらもかろうじて命を繋いで来ました。それが私の30数年の結婚生活でした。

還暦の歳、たまたま行った接骨院の院長が私の人生を取り戻すきっかけとなりました。また、車上生活を続けていた私を、数日寝泊りさせて下さった駆け込み寺ビハーラハウスの律子さんとご住職との出会いは転機となりました。
現在私は、自分を見失い人生の迷子になっているかつての私の様な方たちに、そうした現実を作っているのは自分自身の思考と行動パターンの癖であること。その癖を書き換えることで自分らしく輝く人生を送ることが出来ること。それは訓練により身に着けることが出来ることは脳科学的にも説明されていること。私は今こうした事をお伝えするセラピストとして、人生を取り戻すサポートをしています。
私と一緒に自分の思考、行動パターンの見直し書き換えをしませんか
                 セラピスト 吉澤こずえ 

 少しでも光蓮寺が吉澤さんのお役に立てて何よりでした。なむあみだぶつ。

馬鹿になれない馬鹿な俺。

「馬鹿になれ」現代の妙好人木村秋則さんの言葉。

馬鹿になればみんなうまくいく。
という意味なんだろうが、馬鹿は何も知らないのに小さな事しか知らないくせにすべてを知っていると思いあがっているから、

神の如く全知全能の俺が地球を一人で背負って一人悩んでいると思っているから、
まるで自分自身を神様仏様と同じぐらいに深く信じていると思っているから知ったかぶっているから、

その傲慢な自己中心の思いがたった一つの無理だという事実にぶち当たってパンと風船のように破れた時に初めて自分が中には何も入っていない、空気しか入っていなかったことを知ったことを自分は身の程知らずの全否定のバカだと知ったという事だな。

人間は考える葦というけれど、馬鹿になれではなく、もともと真理に対して無知蒙昧の馬鹿なのだ。

もともと身の程知らずの馬鹿だったと言う事なんだ。

真理に対して謙虚になれと言う事なんだ。

罪悪深重の凡夫とはこの俺ことなんだ。

なんまんだ 

なんまんだぶつと木魂する。

 
 命はみんな生老病死の暴れ馬の上に乗って生きている。

 いつ暴れだすかわからない。

 今日か明日か次の瞬間か誰も分からないけど、それが来るとき
 私は知っていて知らんぷり。

 そんな馬を手なずけ、飼いならし一緒に生きて行くのは厄介
 だ。
 馬に乗りながら天上から滴る蜂蜜に舌鼓。

 その馬はきっとあみだ様。

 人馬一体のあみださま。握る手綱に血が通う。

 今までのあみだ様の過去現在未来のご苦労までが私が馬の手綱
 から伝わり私のそれも知れてくる。

 
 そんな手綱念仏をしっかり握り、この広い人生大地を自由自在
 に闊歩出来れば、カッポカッポと蹄の音が果てない大空になん
 まんだぶつと木魂する。

 なんまんだ

不安に立つ。

護法「成唯識論」の「安危共同」。

安心と不安を自らの自体として生きることとある。

「不安に立つ」は安田理深師の言葉だが、不安と共になる、安危共同にならないと生死の闇は晴れないのではないのか。

不安や死や病、老いは嫌なものだが、人生の底に何時でも問いかけられている人間の根本的な課題でもある。

それを嫌っているうちは、それらの真の意味が理解できていないのでいつでもそれらに圧迫されていること、不統一な人間になっていることになる。それらと共に、それらは我が真の友である、真実の人生の意味を教えてくれる反面教師であると思うようにならなければならないのである。

 それらを受け入れ共同出来なければ人生の側面だけの生を生きたと言わざるを得ない。

安心と不安が、危険が両立する唯一の道が、清浄無分別の真の智慧と慈悲のはたらきから生まれたお念仏に出会い救われた世界にしかないと思うのです。  

なんまんだ

仏がここに現れたいときに。

 なぜ阿弥陀仏は念仏となって私の口から現れ出たのか。我らの要求があったからというが。

 本来、元々人間の一つの心のかたちとして備わっていたまごころとか宗教心とか仏心といわれていたものなのではなかったのか。

 それは、それを必要とする人に対して現れて来ただけで何ら特別な一人の宗教者と言われている人々達の独占品ではなく誰にでも、どこにでもあるすべての命に生来備わっていたものではなかったのか。

 それが、いざ危急存亡の時に出現しただけで何人にも、その時が来ればその本来の命に目覚め、死さえも乗り越えて行ける清浄な意欲の力となっていたのではないのかと思うのです。

 本来、人間や命あるものの根底に秘められていた人間のこの真の命に目覚めること、覚る事、信心を獲ることに現世の死を超えた働きがあることを見ても、来世への真実の生の世界につながる生をここで得ることによって、それは理解できることになるのではないかと思うのです。

 なんまんだ

まじで。

 
まじで、いままで実に多くの人に多くの迷惑をかけちまったが、仏法的に見たらこんな俺にとってはいい人生だったと言えるかもしれないな。

 その一番はアミダさんに助けられて人生の見方が今までの私の見方から仏の見方に180度変わったことだな。

 こんな幸運はめったにないことだと私は思う。

 100億の宝くじに当たるより、毛筋一つ狂ったら出会えていなかったのだからな。奇跡のような困難至極のことがこんなつまらん人間に起こったのだからな。 

 もう、なんまんだぶつで、この人生このままつまらんままでいいんじゃねえかなと思ってもう幕引きしたい心境だ。

 そんな気分で死ぬまで暮らしたいもんだな。ナンマンダ。

そんな日が来たら嬉しいな。

 人間はまるで機関車のようだ。
 機関車は石炭を焚べて蒸気や汽笛を鳴らしながらレ―ルの上を走っている。人間も他の命を食べて叫びながら人生のレールの上をいつ終わるかもしれない終着駅へ一直線に走っている。

 時が到ればどちらも散り散りバラバラになって砂の上のお城のように流れ去り後には何も残らない。

 人生は一時預かり仏様からの貰い物の集合体。

 肉や魚を食って私が出来ている預り所。

 この小さな細胞の私の意識を離れて毎日死ぬまで励んでいる離散集合する姿が痛ましい。

 それでもそれに必死に縋りつき、泣いたり笑ったり悲しいな。

 まるで蛍の輝きのようなのに、それが永久に続くと信じて悲しいけれど必死にしがみついて泣いている。

 こんな命のやり取りを何時までも自然の道理が許すはずはない。それを何時までも許すはずがない。

 それを何時か静かに迎えることが出来る日が、何時か来たら嬉しいな。

 なんまんだぶつなんまんだ

死が教える大切なこと。

 
 生死の迷いとは生と死を分別する自力意識の心が迷いなのであって、その根本には仏の教えを疑う心があると言う意味です。その生と死を成り立たせている根本の真実が分からないと生死の迷いの中に入る事すらも知らないで生きていることになり、死を迎えてもその問題は解決しないままに死んでゆく無自覚の死という事になります。

 もともと生きる自身にも死自身にも迷いはもともとないのです。例えば念仏一つで救われるとアミダさんがいくら言ってみても、それを信じない限りそれに対し疑いがなくならない限り救われないし、苦しみが続くと言う事になります。

 ですから、もともとの真実を知れば仏の教えを疑う事も起こらないのですが、それに気が付くまでは迷っていることも知らないで人生の生と死を繰り返してゆく事になるのでしょう。
 
 心ひとつ体一つ取ってみても縁と時が到れば様々な命が寄り集まって心や体を作り、さるべき縁が来れば離れて行くという縁起の道理があって、その働きしているのが生死を包む、繋いでいるところの一如の世界、つまり様々なものを生み離れさせるいわば躍動的なゼロの世界という生死を繋いでいる救済の役割をしているものなのです。

 姿形あるものはここから生まれ、ここに帰ってくる存在としてみなここに在らしめられていると言うわけなのです。

 ここには分別される以前の一つに統一された世界があるばかりなのです。ですから生の根本は真実一如から来てそこに帰るだけの話なのですが、それを許さない我執一杯の私がいるだけなのですが、それを宗教的な自覚をもって生き、死をつつみ超えて生きて行くしかないのでしょう。

 そんな真実の世界に帰ってゆく事をこの世で知ることが生死の迷いを脱出するキッカケになっていくのだと思うのです。

 なんまんだ

念仏の水車小屋が回ってる。

 まるで仏様は水車のようだ

 地獄へ一直線に流れ去る凡夫たちの命を

 くみ上げては又くみ上げる繰り返し

 人は本来仏とは言いながら、仏様が実際にやっていることは

 自らは永遠に仏にならない菩薩のままの仏様

 一人救ってすぐまた菩薩に戻って救い上げ

 くめども、くめども尽きぬ地獄行が決まった

 人間を救う永久運動の水車

 くみ上げられた者が仏になる間も

 惜しんで救う方に回る菩薩仏の水車

 救う命がある限りグルグル回る水車小屋

 小屋の中では国土荘厳本願成就の

 お浄土がガタゴトガタゴト建設中

 素知らぬ顔でいまもなんまんだぶつなんまんだぶつと

 目の前でグルグルグルグル念仏小屋の水車が回ってる

 なんまんだ
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