「もののあわれ」とは物と事が自然に刻々変化する川の流れのように変化してゆく姿を正しく諦観した真実のとらえ方や認識を言うのだろう。
変化しては壊れ、また生成消滅されてゆく変化の中に、それを主催しているともいうべき主体を仏の命の流れと観た人たちがいたのである。
仏の命の流れとは、かくもダイナミックな様相を呈していることへの驚嘆と畏敬の念、その真実を体得し覚悟し信心することができること。
それを正しく見定めるためには常に不動の澪標の如き道標を心中にとらえておかねばならなかったのである。
もののあわれとは一言で言えば宗教心とか、まことのこころとか真心であり、それを体得していたのは禅僧であり念仏者や一部の学者たちではあったが、なにも、それだけではなく、平安の女官たちは何の学問教養や悟りがましき事を言わずとも、多くの女性や生女房たちと共にそれらを心の常識として自然に信じ、生きていたのである。
それを平安の女官たちは漢学に囚われた高官の男学者たちに皆無だったので、面白くも哀れと驚いていた時代も日本の中世にはあったのである。
現代も漢魂(からごころ)ならぬ西洋魂(ようごころ)をもった洋学者というインテリが闊歩してやまぬ今と聊かも変わらぬ様相を呈しているのを嘆いているのは、いつも健康な常識を持っている大和なでしこ達なのである。
日本人は現代も海の外から押し寄せてくる思想と対峙してゆかねばならない辛い民族なのである。と言った小林秀雄の言葉は今も生きているのである。(小林秀雄参照)
なんまんだぶつ。
お釈迦様は35歳で成道し80歳で滅度した。
親鸞は29歳で回心して90歳で亡くなった。
宗教心に目覚めてから釈迦は45年。親鸞は61年生きていた。
ブッダの肉体年齢は35才で宗教心年齢は45歳。親鸞は61年だ。
宗教年齢が若ければ、赤子のごとくよちよち歩きで危なっかしくて見ていられ
ないが、そこからやがて一人歩きして落ち着いてから、初めて自らが得た宗教心の中身が見えてくる年頃になってくる。宗教心もその人とともに成熟発展深化するものらしい。
ブッダが初転法輪の時は五人の弟子が、涅槃の時は多数になったのは、数だけの問題だけでなく、宗教心が練れてきたからだと思います。
親鸞も吉水の草庵から越後、関東と、そして、教行信証を生涯にわたり熟読玩味修正し、また関東の弟子が増えていった姿からもう伺えるからと思います。
なんまんだ。
現代人は頭で歩いてる。足は天に向かっている珍しい動物になってしまったな。
それを見ていた魚や、亀やウサギやキリンは、早く足で大地のリズムを感じて走り、天に頭を向けて、大きく息を吸って、俺たちと同じように歩き、泳いでくれと人間たちに願うように悲しげに泣いている。
いつから人間だけが逆さに歩くようになったのか。お盆の「ウランバナ」でもあるまいし、空から逆さ吊りにされていることさえ気づかないでこの世を平気で歩いてる。
真実の大地に足が付いていないからそこに触れて一歩も思うように歩けていないままだ。真実の味が分からないままだ。
全員逆さで歩いているから、誰も気が付かないし、物を見る価値観さえもみな同じ逆さまだ。
どうしたら自分が逆さまだと気づくのか。それは綱が切れて大地に叩き落ちた時。初めて自分が吊るされていたことに気がつく時。
宗教心もその時はじめて目覚めて真実の大地を歩みだす。
その時から足の裏から毎日毎日死ぬまで真実の息吹が染み込んで、一歩一歩、真実の終わりの扉に近づいてゆく。
諸行無常四苦八苦が私を縛り上げ吊り下げている逆さの人生の綱なんだ。
それがなければ命の大地に落ちることもなかったからな。
それはつらく悲しいものだけど、それのお陰でほかの動物たちと同じ命の大地を歩むことが出来た大恩人でもあったんだ。
諸行無常はあみだ様に違いない。
私を仏にまでさせてくれる悪魔のような大天使だったに違いない。だから諸行無常はなんまんだぶつに違いない。
なんまんだ。
私達には今がない。
遠い過去の今を今と思ってる。
未来の今を今だと思ってる。今の今が分からないから今の今が分からない。
本当の今は今しかないのに、その今が目に見えないから過去や未来を今に夢見てる。これを酔生夢死というのだろう。
今の今は仏様といる時にしか与えられない永遠の無限の時空の中にいるという自覚が今が今としか言えない今なんだ。
その本当の今に立っていれば、今の今に安住して本当に生きて行けのことに人間は自然に生きてこれらることになっていたはずだ。
それが頭のいい人間が、あっちこっちと探して、結局、本当の今に代えられなくなって永遠の過去と未来の時空にさまよっているしかなくなった人間になってしまった彷徨える今の現代人になっちまったんだ。
今の今に今気が付けば、そこには本当の未来も過去も今の今に安住して御座る世界が私にも見えてくることになっている。それを信じて、今の今を正しく知ってにそこに立って生きてゆきましょう。
それは、いつでも今の今しかない今なんだ。
それを与えてくれるのは、自分の努力じゃなくて、あみだ様から与えられるなんまんだぶつの信心中にいつもあることなんだ。
その中に生きて死んでゆく、いつものことの中にあるものなんだ。誰でも信じればすぐわかる世界のことなんだ。
なんまんだ。
親鸞は親鸞は親鸞は約百日六角堂に参籠し夢告を得て、また百日法然に生死出づべき道を問い続けたが理論的に理解できぬまま自力作善の仏教理論地獄に落在してしまった。
その地の底を突き破って存在の根本的な故郷である浄土から「親鸞救うぞ」という声が本能欲生動して大地が六種に振動したのだ。
その中から救いの声自身になったあみだ仏の純粋言語になった声なき声のなんまんだぶつが湧き上がり、一帯が大音声に包まれた途端、自然浄土からの念仏の渦の中に親鸞が巻き込まれ、なんまんだぶつになって大叫した。
私地獄が如来大地と一体になり、その渦の底から湧き上がる自然の浄土の永遠の現在の大地に呆然としながら屹立した。
なんまんだ。
宗教の時間は常に永遠無限として偏在するものとして常に現在に存在している。法蔵の五劫思惟もあみだの不可思議も48願も普遍的な世界を表しているから命あるものの前に常に実在しているものだ。
アミダの十劫成仏も、私が宗教心に目覚めたところに宗教的に実在するものなのだ。
しかも、それは自覚する命の時空のなかに偏在する真理の縁起のはたらきの中にいる自覚なのだ。
はるか遠いあみだの成仏もいまここに開かれれば常住の真理として誰にでも開かれてくるものなのだ。
過去も未来も現在の中に包含されている我であり、その救いのなんまんだぶつとともに、ここに存在の自由さえも開かれてくるものとしてあるようにしてあるのだ。
それらは、すでにその我々の真実の世界の構造が経典に表されている大いなる物語として我らの小さな物語を支えている存在としてあったのである。
その意味で我らはすでにあみだ浄土の一国民としての未来を今に生きている存在でもある。
なんまんだ。
宗教の時間は常に永遠無限として偏在するものとして存在している。法蔵の五劫思惟もあみだの不可思思議も48願も普遍的な世界を表しているから命あるものの前に常に実在しているものだ。
アミダの十劫成仏も、私が宗教心に目覚めたところに宗教的に実在するものなのだ。しかも、それは自覚する命の時空のなかに偏在する真理の縁起のはたらきの中にいる自覚なのだ。はるか遠いあみだの成仏もいまここに開かれれば常住の真理として誰にでも開かれてくるものなのだ。
過去も未来も現在の中に包含されている我であり、その救いのなんまんぶつとともに、ここに存在の自由さえも開かれてくるものとしてあるようになるのだ。
それらは、すでにその我々の真実の世界の構造が経典に表されている大いなる物語として我らの小さな物語を支えている存在としてあったのである。
その意味で我らはすでにあみだ浄土の一住民として未来を今に生きている存在でもあるのだ。
なんまんだぶつ。なんまんだ。
外を変えようとしたりすると永遠に変わるものも変わらない。どこまでも外を見ている自分自身の内側に、悲しみをかかえているその中に原因があると信じて問題意識を持って解決する道を信じて歩んでゆくことを内道や内観の道という。
ついには仏のまなざしで真の自己を発見する時にこそ、悲しみの糸がほぐれることがある。
いくら外をぐるぐるめぐっても、外の道に救いを求めても,所詮は、それを良し悪しで受け止めている限り切りがない。
命が尽きても果てがない。
これを外に解決を求める道を外道と言って仏教ではなくなるな。
本来の仏教は命のすべての問題を根本的に解決する道だ。
それを解決する答えはすでに自身が持っているという事だ。
そこに気が付けば、正しく自己自身と世界を見ることが初めてできて、その後の生死にまつわる解決もやがて明るさが見えてくることになりましょう。
なんまんだ。
仏伝は真理を様々なものが相関関係によって物事の現象が休まず動的に調和して成り立っていると縁生の道理をこのようにわかりやすく隣国に玄奘三蔵などが伝承したが、この道理に相当する伝統的な言語がなくて「空・無我」などと、一見統一された思想言語のようになったが、空に対する実。無我に対する有我と逆に本来の生きた縁起の道理の神髄が見失しなわれていったことは否めないと思うのです。
ブッダの仏も、覚者としてではなく単に人がム(無)い、などと当て字もここに極まったのである。しかし、その困難を善導などが、人間の原点である宗教心に目覚め中国独自の浄土教や禅門になって巷間されたのである。
言語が違えば自ずとその指し示す世界がことなってくるのだが、日本の法然・親鸞はブッダの縁起をアミダの思想に一旦変換して、その精髄を換骨奪胎して念仏一つに人間本来の精神的な本来性にいつでも回帰できるような念仏言語の創設によって躍動性を消し失わずして、いつの時代でもブッダの悟りと同質の浄土という縁起空間の自覚をこれによって開き、人間回復の言語的なルネッサンス運動としたのである。
なんまんだ。
「念仏は自我崩壊の音である」金子大榮師。今まで経験し、気づき上げたものが、一瞬にして崩れ去ったとき、どこにそれを立て直す力を見出してゆけばよいのか。
今までの経験で立て直す人もいれば、根本から見直す人もいるのでしょう。その時、人生は諸行無常であったと気づき、変わらぬ世界を求めることが出来るならば、人は確固たる信念を求めてゆくのではないのでしょうか。
その時のセーフティーネットライフになるのが念仏一つであり、そこから真実の仏の信念が与えられるという。そこの、あみだの本願念仏に気が付けば、それが、壊れないこれからの人生の精神的な再建の根っこになることが出来るのではないのでしょうか。なんまんだ。