カラスの独り言

因果魂

 ブッダにジャータカ物語があるのはなぜだろう。
 過去五十三仏があるのは全ての命は一つの命に共通する歴史があるならば、私たちにも科学的ではない宗教的な意味での命のと言うよりも、もはや一個の歴史的な魂の来歴とでもいうべきあってもいいのかもしれないな。それであれば、その時気付いてもその因果関係が見えなくなった過去や、見えない未来に置換することで、現在の傷の意味を説明できるような気がします。
 親からやられたら、その親に前世で私がやったことをしたからか、お互い因果魂の平等性があれば、今生も生きられるし来世もという期待も楽しくなるのではないかしら。
 平等だとなって行く。そうすれば現世での罪作りも激減して行くのではないのでしょうか。ただ仕込みの悪用は出来ません。

なんまんだ

時代語

 「名号は根本言」安田理深師。すべての言葉の生みの母だという。今書いている文字も言葉で思考している。音楽や絵画や仏像などももとは「ああしよう、こう表現しよう」と作者の言葉による思考から始まるのだろう。すべての言葉はこの母なる根本言の源流に遡ってゆくのだろう。
 そうでなければ母なる母川の資格はないのだろう。この根本言の深い意味は忘れたが、大行という言葉を英訳するとき鈴木大拙師は「リビング」と訳された。真実一如がここにはたらいて名号と言う言葉になって躍動しているという意味なのか。
 だからなおさら安田師のこの言葉がすごい言葉なんだなと思い出す。見えない本願のはたらきを言葉にするとき新しい言葉がいつの時代に手も生まれてくるものなのだろう。

なんまんだ

タバコとライター

 小林秀雄が信頼している掛かり付け医からタバコを止めなさいと言われ、その場にたばことライターを置いて帰ろうとしたら、忘れ物だと言ってたばことライターを持ってきたそうだ。俺はいらないと言ったら、「そんなことでやめられないよ。そばにおいてやめるんだ」と言われ感動したとい話を新潮社のCDで聞いたことがある。親鸞も生死即涅槃。生死と言う煩悩を持ちながら涅槃の悟りを得る方向と同じだなと思った。煩悩に振り回されてばかりの私でも信心を獲ればその煩悩を否定せず断ち切らないまま悟りの世界を生きている時にその一分を証明し知らせて頂けるというのである。
 こんな道が人間の現存在に一番適うもっとも正直に生きる認識の道、すなわち仏道になってゆくのだと思った。もちろん宗教心と言う主体に目覚めてからと言う事だ。

なんまんだ

名を聞く

 廣瀬杲先生の師であった正親含英師の言葉「母親に三つの姿がある。一つは戸籍。現身。我が声となった母親の姿があるが、声の母親が一番尊い」。 
 アミダの声を聞くとは、名号とまでなったアミダが私を包んで止まない宗教心のはたらきというアミダの智慧と慈悲を知りここで救われてゆくという事が、真実一如からの呼び声と言う形をとった自覚が真実一如の心をまとったアミダの召喚、誘いと言う声なき声、摂取不捨と言う慈悲智慧のはたらきに目覚めること。それを自らの主体となし生きて死んでゆく事が声を聞くということなのである。
 真実一如からのというより、すでにその中に生き死んで行った人がおりその中の一人としての私であったという安心感をもって生き死ぬという事なのである。その我を知って生きて行くことが名を聞き続けてゆく人生なのである。

なんまんだ

今を生きる時という事

 仏の時間のない時間と時間のない人間が作った時間が二つある。作った時間、造られた時間。
 永遠の時間のない時間こそが本当の時間であって、分割した時間は永遠の一時を目に見える形で刻んでいるだけで、それは仮の時間なのである。
 実際の実時と言うのは法界で減りもせず増えもしない、そういう実時間の中にいるのが私たちなのだけれども、私たちの限定的な心と体の関係で長いとか短いと感じているだけなのだろう。永遠の時間と言う無限の時間の中に生まれ、その中に帰って行くというのが本当の私達の命なのではないのか。
 私にとっての本当の時間は私に与えられた限定的な命の時間と仏の永遠の命の時間がクロスするところに真実の一念の仏の命の時間が現れて私の本当の命の時間がそこに現れてくる。それを根本として生きることが今を生きるという事なのだと思うのです。

なんんまだ

仏の貌

「虚無之身無極之体」とは念仏が純粋な救済活動している現在形である。
 念仏は私の自力意識や他力意識や煩悩心本能心など身体的肉体的な制約の全ての心を離れて如来本来の呼び声なんまんだぶつに帰ってゆき、そして、私の耳に純粋無垢な清浄心と智慧と大悲を念仏と言う独立しながら私の耳に救うと呼びかける往相の回向と言う見えない用を言葉にまでなって仏と言う見えない姿の形として私に救いをはたらきかけているのだ。
 私の耳に「我が国に来たれ生まれよ、そして仏になれ」と耳元に囁き続ける確かな生きた言葉の仏になっているのだ。
 たとえ、どんな人の心から口から出た念仏であっても、それは如来の真実一如であり色も姿も形もましまさぬ、という真実の相そのもの、精神の相、本願の生きた相そのものとなって、救われ続けなければ助からぬ私の耳に心に囁く。
 救われてゆけと。そして、完全涅槃仏になれと。なんまんだぶつになるのだと。

なんまんだ

言葉になってもうた仏様

言葉になった仏様と言うのが阿弥陀様という。救われたときには真実一如と言う心も言葉も及ばない仏の世界に触れたのだから、普通の言葉を超えた世界に触れたのだからまともな言葉なんか出てこないものなのだろう。
 全身全霊打ち震えるものが心の底から響いて来ているのだから、まともな思考が働かないものなのだろう。
神か仏か宗教心か、それがアミダか分からないものがこみあげて、少し時間が経ってから言葉となって出てくるものがナンマンダブツ申しなさいと、感謝と懺悔の心がいっぱいになって、まるで親不孝息子が親に懺悔、不幸を謝るようなものなのだろう。
そのことを思い出す時、いつもお母さんお父さんごめんなさいと言うようなものだ、ナンマンダブツの言葉だけで許されていくようなものなのだろう。それから、その念仏には真実一如を象徴する、体現した私の主体として血の通った言葉としての、私を真実一如の故郷に導いてゆくこのような実働的な象徴言語がなかりせば私の心は煩悩林を遊び回ることが出来なくなるのでしょう。

なんまんだ

救われるという構造

 頭の先から足の先まで煩悩で全部で出来上がっている私。煩悩が起こればそれに支配されてしまうようにできている私。生きていくということと煩悩が無いと宗教も成り立たないという非合理的な私の心。それに従って動かされてゆくからだ。
 体自体は本能の自然要求が満たされれば決まった寿命まで生きて行くだけだ。心だけはそれに反して、いつまでも生きて行きたいと思っている矛盾。
 その矛盾のままで救うという阿弥陀仏は基本的な精神構造が真実一如であるにもかかわらず、人間を救うに就いてその精神構造に応じ三段階に分けて救いを始めた。所謂三願転入である。すべての人間の救済に掛かった時の精神構造は、まず仏という真理に近づくと客観的な対象としてみる。
 次に見様見真似で念仏をする。そして、その念仏の精神に触れてアミダの根本精神が自我意識の根本精神になるのである。
 だから、こんなアミダ様は仏の中でもよほど変わった仏様だと思うのだが、逆に人間の精神構造の複雑さによく答えている仏だと思うのです。つまり、本来の人間精神の主体の回復がこの本願によって正しく成り立つことが出来るという事なのでしょう。
 一般的な宗教的な基盤とは人間の努力意識の高い人が一番誉められ仏として最初に救くわれてゆくのでしょうが、人間の意識から見れば、努力こそが人間を救済する基準とおもうのだが、しかし仏の基準は一番煩悩で傷ついている方から救いたいというものなのだ。
 人は死んでしまうから真実の救済の声を聞かずに去ってしまうから、一番先に掬ってしまわないといけないらしいからなのでしょう。救われるとは自分自身で自分自身の心の構造を知るという事になるのだと思うのです。
 汝自身を知れという事がアミダの本願と言う精神構造に触れることによって誰でもが自分自身の世界の全てを知り得るという事が成り立つという事です。

なんまんだ

今に与えられるもの

 機が熟したら一念が即の時だ。どうしたら得られるのかと言っているうちはどうしても得られない。
 悲しいけれど、どうしようも、こうしようもなくなり、ついに手も足も出なくならないと、向こうからお出ましにはならないのです。引っ張り出そうとか、叩き壊そうとしても出会えないようになっているのです。
 柿が熟して地面に落ちるのを下で待っているようなものです。だからと言って違う方へ行ってしまえば柿が食えなくなるのです。あちらも決して意地が悪いのではなくこちらの方の求道心が熟すのを待っていないのでしょう。
 出会えるまでのこちらの願いがまだ本物になっていないというか、まだ未熟なのでしょう。菩提心がまだ浅いのです。まだ信じる心を受け入れられない心のままなのでしょう。
 いつでも信心は与えられるのでしょうが、今ではない、今に必ず与えられるものなのでしょう。

なんまんだ

罰当たり

「この罰当たり奴!」と小さい頃よく言われた。その時どんな意味が変わらなかったが、分らない分その語気に仮脅されたことがあった。予想できない第三者から悪いことが与えられることを予言されたような呪いの言葉のようで心が騒いだ。
 罰当たりとは、見えない誰かが決めたことに背き気が付かない事だが、それをしたことで、そのまま行けばその罪が増幅して罪の海の底に沈潜し、魂の抜け殻だけとなり、ついに生きながら死ねない彷徨魂になってしまう。身を亡ぼすことだという事を今知れという事なのだろうと思うのです。
だから、いま真実を知らず生きているが、いずれ真実とともに生きることが正しい生き方なのだとすれば、真実のはたらきに逆らって生きている今の生き方が罪なのだから、その罪のままでは生きてはいけない、だから、罪を持ったまま今生きている根拠を、逆に真実から教えられ、真実と共に今生きていける信念を見つけて完全に涅槃死できる死即成仏の道を得よということが「罰当たり奴」と言う言葉の真意なのだろうと思った。
なんまんだ
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