言葉になってもうた仏様

言葉になった仏様と言うのが阿弥陀様という。救われたときには真実一如と言う心も言葉も及ばない仏の世界に触れたのだから、普通の言葉を超えた世界に触れたのだからまともな言葉なんか出てこないものなのだろう。
 全身全霊打ち震えるものが心の底から響いて来ているのだから、まともな思考が働かないものなのだろう。
神か仏か宗教心か、それがアミダか分からないものがこみあげて、少し時間が経ってから言葉となって出てくるものがナンマンダブツ申しなさいと、感謝と懺悔の心がいっぱいになって、まるで親不孝息子が親に懺悔、不幸を謝るようなものなのだろう。
そのことを思い出す時、いつもお母さんお父さんごめんなさいと言うようなものだ、ナンマンダブツの言葉だけで許されていくようなものなのだろう。それから、その念仏には真実一如を象徴する、体現した私の主体として血の通った言葉としての、私を真実一如の故郷に導いてゆくこのような実働的な象徴言語がなかりせば私の心は煩悩林を遊び回ることが出来なくなるのでしょう。

なんまんだ

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