救われるという構造 | カラスの独り言

救われるという構造

 頭の先から足の先まで煩悩で全部で出来上がっている私。煩悩が起こればそれに支配されてしまうようにできている私。生きていくということと煩悩が無いと宗教も成り立たないという非合理的な私の心。それに従って動かされてゆくからだ。
 体自体は本能の自然要求が満たされれば決まった寿命まで生きて行くだけだ。心だけはそれに反して、いつまでも生きて行きたいと思っている矛盾。
 その矛盾のままで救うという阿弥陀仏は基本的な精神構造が真実一如であるにもかかわらず、人間を救うに就いてその精神構造に応じ三段階に分けて救いを始めた。所謂三願転入である。すべての人間の救済に掛かった時の精神構造は、まず仏という真理に近づくと客観的な対象としてみる。
 次に見様見真似で念仏をする。そして、その念仏の精神に触れてアミダの根本精神が自我意識の根本精神になるのである。
 だから、こんなアミダ様は仏の中でもよほど変わった仏様だと思うのだが、逆に人間の精神構造の複雑さによく答えている仏だと思うのです。つまり、本来の人間精神の主体の回復がこの本願によって正しく成り立つことが出来るという事なのでしょう。
 一般的な宗教的な基盤とは人間の努力意識の高い人が一番誉められ仏として最初に救くわれてゆくのでしょうが、人間の意識から見れば、努力こそが人間を救済する基準とおもうのだが、しかし仏の基準は一番煩悩で傷ついている方から救いたいというものなのだ。
 人は死んでしまうから真実の救済の声を聞かずに去ってしまうから、一番先に掬ってしまわないといけないらしいからなのでしょう。救われるとは自分自身で自分自身の心の構造を知るという事になるのだと思うのです。
 汝自身を知れという事がアミダの本願と言う精神構造に触れることによって誰でもが自分自身の世界の全てを知り得るという事が成り立つという事です。

なんまんだ

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