カラスの独り言

罰当たり

「この罰当たり奴!」と小さい頃よく言われた。その時どんな意味が変わらなかったが、分らない分その語気に仮脅されたことがあった。予想できない第三者から悪いことが与えられることを予言されたような呪いの言葉のようで心が騒いだ。
 罰当たりとは、見えない誰かが決めたことに背き気が付かない事だが、それをしたことで、そのまま行けばその罪が増幅して罪の海の底に沈潜し、魂の抜け殻だけとなり、ついに生きながら死ねない彷徨魂になってしまう。身を亡ぼすことだという事を今知れという事なのだろうと思うのです。
だから、いま真実を知らず生きているが、いずれ真実とともに生きることが正しい生き方なのだとすれば、真実のはたらきに逆らって生きている今の生き方が罪なのだから、その罪のままでは生きてはいけない、だから、罪を持ったまま今生きている根拠を、逆に真実から教えられ、真実と共に今生きていける信念を見つけて完全に涅槃死できる死即成仏の道を得よということが「罰当たり奴」と言う言葉の真意なのだろうと思った。
なんまんだ

身につく

着物が身に着く。宝石が身に着く。
 だけど、これらが本当に身に付いたものになるには時間と経験が必要だ。地位もお金の使い方もそうだと思う。それなら念仏も信心もそうだろう。
 なむあみだぶつが身につくには、身に染み込み味や後光が射してくるまでには時間がかかるのだろう。
赤ん坊のような念仏信心から老人のものになるには、中身は同じでも本物の念仏者になるには、この身の芯までしっかり染み込むまでには、お浄土まで持って行けるまでには、それなりの時間がかかるのかもしれないし、そのままでもいいのに違いないい。

なんまんだ

時の神様

 時の神様がいれば私ほど時間を無駄に使ったものはいないのだろう。無駄とは仏のもとに生まれながら仏の心を知らずにいたことだ。
 こんな年になって残り時間が少なくなって、今更、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、やっと会えて、今までの無駄に過ごした時間はこの時の為だったんだなと思うのです。
 時は命なり、と仏教ではいうそうですが生活のための時間も、勉強や遊びやテレビなんかも、みんなここに来るために必要だったと思い返せば、そこで過ごした時間にも少しはその意味が生まれてきて、無駄ではなくその底にも仏の永遠の命が流れて来ていたからだと信じることが出来るようになってきた今日この頃です。
 そう思えば少しは時の神様にも許してもらえるのじゃないかと思うのです。

なんまんだ

宗教的表現

 あらゆる職種や環境心境乗り超えて宗教心とか仏に目覚めたことを救われたと言うのならば、その後の生き方からくる種々の生活表現が出てきます。
 例えばモーツワルトなんかもたぶん作曲にその心を現しているし、親鸞聖人は教行信証に宗教哲学的に表している。自然農の山口由一師も畑を仏として生きている。蓮如上人は手紙と言う今でいうSNSで。空也聖人は念仏踊りでその生きる喜び現し、ブッダは対機説法というカウンセリングで真価を発揮した。
 金子みすずは詩でもって、釋貞聞さんは油絵で、棟方志功は版画でその心を強烈に表現していった。
 フランチェスカも同じで人々に感動を与えた人はみな、どうもこの仏ごころと言う宗教心に目覚めた人々達に違いない。
 なんまんだ

つらい波がやって来た

 今がつらい時、今までやって来たことがもとだったりすることがある。生まれる前から背負ったものだとか、生まれた時からもらったものや知らずにしてきたことだとか。そんな無自覚のものだったりすることがある。
 それらが、ほったらかしにされたまま自然に増幅して現れて来たものもあるかもしれないな。
最初は小さな波でも次第に振幅が膨れだす。
 この世も私も自然すら自因自果だとするならば、救われたことは自身の全ての悪業を知らされることだとするならば、それらの悪業が救われ難い原因ならば、今の私が救われたなら、それらの結果を引き受けること、知らされて恥ずかしいという世界を知らされること、救われないほどの業縁を抱えて生きて来ていたという事はその業縁があって、これ以上、人間として生きられないというところまで来てしまって小さい時にその原因を基から知っていたならば、真実世界を知っていたならば、救いを早く求めていたならば、悲しい人生最後の時になってからでは手遅れになってしまう時がある。

なんまんだ

宗教心

 宗教心を得ることはアミダさんの苦労を我が事ように深く想像し思い出すことなんだ。
 生きている時に信心得れば、やがて私のご主人様になるけれど、その後、その後は、やがて私もアミダ様にならせて頂くことになる。
 その変わらぬ無量無限の命の片割れの主体になることは、その命がいま私に生きているという事だ。今、アミダ様が法蔵菩薩になり下がり、成り上がり、生きた私の主体となっているという事はアミダとなって私を救うという事は、今の私が未来の仏に成ることは私が法蔵菩薩の時代に修行していたことを自らの過去を自らの今の記憶力を動員して全部おもいだし、それが私の過去の姿と知る事だ。
 そこまでの想像力妄想力を働かせたら今に信心もわがことのように考えられるのでしょう。
 他人事ではない自分自身の深い願いに目が覚めてゆく事なんだから。信心は私が今まで解決してこなかった私自身の問題なんだと気が付けば、自分自身の問題仲だと思うのでしょう。

目の宗教 耳の宗教

 目で文字を読んで頭で理解する。かたや文字を読むことが出来なくても他国の言語を読むことが出来なくても発音されて耳で聞くことばで心に直接響く、言葉を超えた言葉になったものがあるのではないのか。
そのような宗教的総合的象徴的な言語があるのではないのか。意味が分からなくても心の深いところである宗教心を呼び起こす言葉が念仏あったのではないのか。つまり、言語を言葉として発音するだけで相手の宗教心を呼び起こす言葉が、呼び起こされる言葉としての念仏であったのが念仏ではなかったのではないのかと思う。
「続・親鸞」と言う映画の中の話なのですが、山形龍之介扮する法然上人が助けを求めて来た農民に一言「ただ念仏じゃ。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と言うと農民も同じく念仏を称え出して救われていったという場面があったようなきがする。
ブッダが「ナムアミターユス、ナムアミターバ」と言っただけでその響きに応じて多くの弟子達や悩める人々が救われていったのではなかろうか。
親鸞聖人がここにおられ一声念仏されただけで吾らは、それがアミダの呼び声として直説法として聞こえてくる人もいたのではないのか。
それが言語化され哲学化され難解な思想的教理学になってくるとさらに観念化してきて念仏の初期の精彩を失って来てしまったのではないのではないのか。
念仏の理性的な観念化によっても念仏の魂は精彩を失う事はないのですが、それらを学問的に理解しないと真理を知らないものとされてしまってきた事ではないと思うのです。
そんな理解を私がしなくとも、畑で生きる人や様々な仕事をしている人たちの現実的な悩みを宗教心自身が、念仏自身が解決してくれているので私は安心しているのですが。

なんまんだ

言葉になった真理

 「食前の言葉」でも心の籠った言い方がある。それを聞いただけで、この人は本当にこれから食事を謙虚に頂こうとしている人なんだなとさえ思える時がある。いわゆる心が籠った言葉だ。それと同じように詩人の言葉は詩の神様が囁いた言葉を写し取ったものなんだろうなと思います。
 ブッダ没後は悟りを開く人もいたが、やがて言葉の整理構成に追われ、ついに月を指す多くの言葉の指が現れ、多数多種に言語化されて、多くの解釈の言葉が語られ、後世には言葉の森の中に彷徨う人々が溢れ出してくる始末になりました。
 大乗仏教は聞くところによると、言語化を嫌う人々が、嫌気を指して仏跡巡礼というブッタの直言に遇いたいという人々によって再興されたものだと聞いたことがある。つまり、一人一人がブッタの金言にふれて直接悟りを開くようになった。しかし、言語化されたものの魂に触れることは極めて難解でもあったし、多くの人々はやがて教団を離れ里に帰って行ったのであろう。そして、言語の相をしながら言語を超え、真理そのものが真理を表現している念仏が大地から芽を吹いてきたのだ。
 これならば言語によらず言葉にもよらない真理として多くの人々が何の理屈もなく直接理解できる救いとして現代まで広がってきたのであろう。
 だから、もともと念仏は人間の宗教心という真理の心を呼び覚まし、目覚めさせるはたらきも持っていて、念仏そのものに任せていればどんな人でも真理のはたらきに触れることが出来る原理でもあるのである。
 それは念仏の数でもなく、大きな声でもなく、念仏そのものはたらきが発する呼び声にまでなっている声を聞くという事だけで助けるという人間の言葉にまでなっている真理の言葉を聞くだけで救われることなのである。聞くということがすなわち如来から信じられていたという事を知る信心の世界に目覚めるという事にもなるのである。
 そんな世界を誰でもが持っているのである。元のブッタの言葉も、こんな簡単な原理から出来ていたに違いないと心から思うからなのです。
なんまんだ

言葉と言語

 
言葉は言語を口頭で伝えるもの。だから、言葉には言語そのものが持って現したいものを伝えようとする時に、その人の思いを込め伝えることが出来るものでしょう。
怒りの言語は声高に。愛は柔軟な音程になって伝わってゆく。それなら阿弥陀仏の心も阿弥陀如来の真心が伝わり、その心に帰命し理解受納できた人が称えたら、それらしくアミダの如くに聞こえてくるのではなかろうか。
しかし、それとても阿弥陀如来の心が分かった人には伝わったとしても、いまだ出来ない人にはみんな平等におなじ念仏にしか聞こえないのかもしれません。
寡聞にしていわゆる私の身近にいた得心者と言われる人が称えたお念仏は、それだけで、有難そうに聞こえたし不思議を超えて怖そうな世界にいるんだろうなとさえ思えたこともありました。
なんまんだ

真理の魂を開放せよ

 
  ブッダは真理の言葉を話されたが、それを書籍にして後世に残そうとはしなかった。キリストもそうだ。生きて我らに用いている真実一如の世界を言葉とはいえ実体化、具体化できる言語の中にとじこめられるものではないものなのだろう。
 言葉さえも真理を指す指なのだから。真理はこの世に現れればすぐに人間の理性の闇に隠れ無常の風に吹かれてどこかへ行ってしまうからなのだろう。
 言語という箱の中に閉じ込められた真理の魂はやがて手垢で汚れ出し形骸化することは目に見えているからなのだ。そこに親鸞は真如一実の魂をもって真理の命の息を吹きこみ今一度仏典を蘇らせたのだ。それでも人はまた、その文字を通して己れの理性の言語空間の闇深い箱の中に閉じ込めてしまったのだ。
 その魂を己がものとするために。求める者は自身でその箱を開ける努力をしなければならなくなってしまったのだ。我らはその箱から真理の魂の自由を解放せねばならぬ使命をみな負っているのだ。

なんまんだ
NEW ENTRIES
(untitled)(05.19)
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS