長生不死の法を生きてみる。
本人の死は本人が自覚できないと言う哲学者がいるそうだ。
死の定義にもよるが、神仏の無限の救済に出会ったら有限だと言っている心身を超え包まれて救済され、一瞬でも永遠を悟りや信心の自覚のうちに収めるのなら永遠の純粋経験を経たといってもよいのではないのか。
それならば自身の相対的な死を心身において自覚できたことになるのではないのか。
生死の迷いを超えることが仏教の仏の救い、仏の覚り、あみだの信心なのであれば、なおさらのことである。
生死を超えた道に立つとは、心身がアミダの無量無限の永遠の生きた記憶を持ちつつ、真理の世界に向かって濁世を生きるのであるならば、死の不安を煩悩や本能に妨げられながらも、正々堂々とこの不条理を凡夫として生きて死に切ることができるような人間になってゆくことにこそが、本来の死を自覚して生きてゆくという長生不死のほうに生き切る意義が今世に生まれてくるのではないのかと思うからなのです。
なんまんだ。
死の定義にもよるが、神仏の無限の救済に出会ったら有限だと言っている心身を超え包まれて救済され、一瞬でも永遠を悟りや信心の自覚のうちに収めるのなら永遠の純粋経験を経たといってもよいのではないのか。
それならば自身の相対的な死を心身において自覚できたことになるのではないのか。
生死の迷いを超えることが仏教の仏の救い、仏の覚り、あみだの信心なのであれば、なおさらのことである。
生死を超えた道に立つとは、心身がアミダの無量無限の永遠の生きた記憶を持ちつつ、真理の世界に向かって濁世を生きるのであるならば、死の不安を煩悩や本能に妨げられながらも、正々堂々とこの不条理を凡夫として生きて死に切ることができるような人間になってゆくことにこそが、本来の死を自覚して生きてゆくという長生不死のほうに生き切る意義が今世に生まれてくるのではないのかと思うからなのです。
なんまんだ。
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