カラスの独り言

ゼロ愛なんだこの自分。

 
 数字の1は大根1本の1。

 2はニンジン2本の2。

 真実一如の一は永遠にダイナミックに活動している真理のゼロ活動からの一。

 そこから無限の数字が生まれ出る。

 そのゼロの本質を無量寿・無量光といい、我らには智慧と慈悲の働きだ。

 智慧は正しい思考方法で、慈悲は透明で純粋な愛情で人間にはないゼロから
 生まれる働きだ。

 この二つが一つになって、いつも私を純粋ゼロの無我の、信心空の原点に連れ    
 戻し戻し、常に正しく安らかな道を取り戻してくれる。

 煩悩に妨げられず、仏の念仏はゼロからの一。私もその手つかずの一つを与え 
 られ、二つが純粋な一つになって再びダイナミックな純粋ゼロの、真実一如と 
 いう無限のゼロの世界に帰ってゆくばかり。

 そんな、来たり帰ったりする仏の用く相をなんまんだぶつの往還二回向という
 のかもしれません。
 
 なんまんだぶつなんまんだ。

矛盾な人間だ。

 人間の世界には時効があるが、仏の世界は無量無限に続くから恐ろしい。

 最大の罪は自身を知らないことだ。

 だから人間が生まれ続く限りその課題は個人において限界はない。

 仏の救いの根本の目的はそこにしかないから、この世での人間の生まれた唯一のチャンスを最大限に生かせと本願念仏を建て、その自覚を待っているのが念仏世界。

 裁判で刑期を無事勤め上げても仏の世界ではまだまだだ。

 本人が気づくまで、本人が意識していない仏の世界で無期懲役の罪は現在も個人レベルで永遠に継続しているから恐ろしい。

 無意識の無明の罪を自覚できない人間原罪を、仏の真実の働きに出会ってしか自覚できないのが矛盾した悲しい人間存在だ。

なんまんだ。

ホカホカだよ、おっかさん。

 悩んでいるときも、喜んでいるときも、毎朝、忙しく会社へ行くときも、ご飯やテレビを見る時も、いつでも言葉は私の心の中を右や左に駆け回る。

 心と体のバランスをいつも自分に都合のいいように安定させようと一生懸命にあれだ、これだと回っている。
 
 まるで言葉はジャイロスコープ。

 いつも言葉だけは事実を無視して高速で回っている。

 きっと息を引き取る時まで高速で本人の意思を無視してでも高速回転をやめることはないのだろう。

 心と言葉が入れ違う。
 そんな心のほんとの願いを無視して言葉だけが先走る。

 二つの不安定なバランスを取ろうとしているジャイロ自身はどこへ行くのか知りやしないから不思議だな。

 どこへ連れていく言葉か知らないが、それでも安心して生きていられるのは、ジャイロがいつも立っているところを支えてくれているすべての言葉を許すホカホカの念仏の大地があるからだ。

なんまんだ。

月が浮かぶ。

 月が私の心に浮かびます。

 あの人が私の心の上に浮かんできます。

 きれいな桜が心に浮かんでいます。

 楽しかった思い出が心に浮かぶ。

 亡くなったあの人が心に浮かぶ。

 いろんなものが浮かんでは消えてゆく。

 二度と浮かんでこないものもあるのだろう。

 浮かんでは消えてゆく。

 いいものも悪いものも浮かんではやがてみんな沈んでいくのだろう。

 あみださんもきっとそんな私の泥のような

 思い出の中から蓮の花のように咲いてきたのだろう。

 やっと長い思い出の中から咲いてきてくれたのだろう。

 なんまんだぶつ、なんまんだ。

私の誕生日。

ヴォーリストのabbieの・k訳「Feeling good」

空の彼方を飛ぶ鳥たち、私の気持ちが分かるでしょ
照りつける太陽よ、分かるでしょ
やさしくそよいでくる風よ、分かるでしょ
夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる
最高の気分だわ
海を泳ぐ魚たちよ、聞こえている?
あてなく流れる川よ、分かってくれる?
木々に咲く花たちにも聞いてほしい
夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる
最高の気分だわ
照りつける太陽の下に飛んできたトンボよ、分かるでしょ
自由に飛び遊ぶ蝶たち、分かるでしょ
一日が終わる時、安心して眠れる場所、それが私の求めるもの
そしてこの古かった世界は、今や新しく生まれ変わったの
私にとって自由な世界に
星たちよ、輝くその時に、私の気持ちがわかるはず
松の香りよ、私の気持ちがわかるでしょ
そう、自由をやっと掴んだの、そしてこの気持ちをかみしめる
夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる
ずっとこの瞬間を待ってたの

 何かに目覚めたとき、今までの与えられた狭い価値観の世界観から抜け出た時のすべての命の根本的な自由と平等と平和と愛の世界を謳った音楽だと思いました。なんまんだ物誕生の歌でもいいなと思いました。自分自身の命の誕生日でも。
なんまんだ。

命の目覚め。

FIFAランクのアルゼンチンは第1位。18位の日本。メッシが生まれるまでには何百年かかったか。 
  
 いずれ日本もそうなる時と人が生まれるに違いない。

ブッダもインドの多くの人々の中にも生まれ、その後の人類の命運を背負っていくようになっていった。

阿弥陀の本願も多くの諸仏の願いの結晶だ。ちっぽけな私の今の存在もきっと多くの命達の願いがかけられているはずだ。

諸仏と言われる宗教心に目覚めた人たちも、そうなる人たちの願いにもかけられているに違いない。

ブッダは次のブッダを生むに違いない。そんな願いの中に生きている私たちなんだ。次の仏を生む尊い真実の仕事の中にいることも知らずに平気で毎日生きている私はやっぱり馬鹿に違いない。
なんまんだ。

死後まで守ってくれる人。

 死んでも髭と爪は伸びてくる。
 
 私が、私がというわりにはその私より長生きだ。

 爪や髭はなんの用あってかご主人様を守るため。

 今更、何の用あって伸びるのか。私の厄介な僕(しもべ)ぐらいに思っていた が、意外と忠誠心が強かったのかもしれないな。

 私が死んだ後まで生き残って私を守ってくれる髭や爪かもしれないけれど、それはいまの私よりよっぽど偉いのかもしれないな。

 それを考えたら、あみだ様の本願念仏は私が生まれる前からあって、死んだ後も多くの命を救うのならば、きっと、私より偉い人の願いに違いない。

 それなら、いまからこっちのほうを私の命より大切にしておいたほうが、よりお得な人生を得られるかもしれないな。

なんまんだ。

石に聞く。

 龍安寺の石を見て俺はこう考える。こう見えるとすぐに私は何か言葉と答えを導き出したがる。

 考える暇もなくてすぐ自分という個性で感想を言いたがる。石の声を聴く暇もなく一方的に思いのままに語っていないことまで語りだす。

 石は石でお前はこう見える、こういうことが言いたいのだと語ってきているのにだ。

 だから黙って三年も石を見ていたら、石のほうから、もっとなんだかんだと語ってくるようになってくる。

 その声が私の耳に自然に聞こえてくるようになるまで待てないのだな。答えだけがすぐに欲しいのだな。

 私が知ったり語ったりする前に、私が生まれる前から泰然自若に私が知らぬ天然自然の真理の道理を体得し、多くのものに無言の言葉で多くを語っているのにな。

 なんまんだぶつも同じこと。名号を見ていたら向こうから多くのことを語っていることが、無言の声で語って来ていることが自然に聞こえてくるのに、すぐに答えが欲しいから解説書を読むのだな。それでわかった気になっているのだな。

 なんまんだぶつに間と言う物はいらぬもの。なんまんだぶつ即往生大涅槃の悟りの分がこの世で与えられる仕組みになっていることを今の人間も昔も未来の人も自意識過剰に育ったせいか、こんな自然で当たり前の既得の精神作用すら忘れられた世界がここまで営々と続いてきたんだな。

なんまんだ

動詞と助詞の使い方。

これから救われるだろう。すでに救われたからあとはどうでもいい。救われたが死ぬまでは救われていく深さがある。すでに救われつつあるが、まだ救われていない。これらは金魚掬いの話ではない。人間が真実の働きに今どうなっているのが正しく救われているのかという話だ。同じように見えてくる世界観だが助動詞一つでまったく違ってくる。生きているときは救われていく、如来はつねに救い続ける動作をやめないのだから、我らも救われ続けながら救われていくという継続的な動詞が最も正解に近い表現なのだろう。

一人称の死を超え生きる。

 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは三人称の死。二人称の死。一人称の死があるという。赤の他人と知り合いと自分だ。

 一人称の死だけは死後の認識ができないという。肉体の死後の自覚はないというが、生と死を一つ一つの命の塊と考えないで、仏教でいう縁生存在の寄り集まっては離れていくものとしてとらえれば、最初から実体的な生死はないものであり、その都度その都度に生々流転した肉体として生存しているし、精神でさえも同様に働いていくものなのだろう。

 そして、その中で細胞レベルで生と死を交互に繰り返しながら今を生きているということが今知ることができる生というものになるらしい。そこに自我意識があるから、その分別する心で生きているとか死んでいると分けるのだろう。

 私たちの体も川の流れのごとくに毎日が同じように見えても日々刻々様々なもので体は成り立っては消えている。そこでは、実体的な体や心はどこにも存在しないことになる。そんな中で、自我意識が一時停止して宗教意識が興りその働きを深く自覚する時がある。

 自我意識がいったん終われば即ち自然の浄土が自我意識の底に再認識される、つまり意識滋養に生まれるといっている。そこでは自我意識が一時的に仮死自様態になり、宗教心という全的意識が全身を凌駕する時があるというのだ。それを親鸞は「前念命終後念即生」といいい、そこに浄土意識なるものが別世界として現在するようになるというのだ。そこには自我意識が意識する生も死もなくて、ただ単に今ここにある自分が、絶対なる仏や神の御前に正座していることが心地よくて懺悔の命を尊ぶ世界が意識上に常に現れるようになるのだ。

 そうなれば、そこには永遠無限の世界意識だけが我と仏の会う共感意識として意識されるだけの絶対無限の満足世界に包まれるようになる。

 ここまでくれば、こんな世界が与えられたら、誰でも一人称の生死を超えた世界が体験できることになるのではなかろうか。
 これが一人称の死を自覚することであり、仏教でいう生死の迷いを超える道であり、生や死を諦める道元禅師や親鸞の念仏の悟りの道にも通ずる実存の自覚を得歌ということになるのではないのかと思うのです。

なんまんだ
NEW ENTRIES
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
身も心も生まれ変わらなきゃあ意味がない。(11.13)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS