前世の記憶を思い出しました。

 人間も全宇宙の記憶をもって今この世に生まれてきたタイムマシンのようなもの。

 遺伝子や心の記憶を静かに辿ってゆけば、曇鸞大師「遠く通ずるに 四海の内みな兄弟とするなり」とあるが、念仏遺伝子の声に耳を澄ませば、この命が時空を超えて真理の中で繋がっている事実が見えてくるのだろう。

 自我意識が未発達な子供がぬいぐるみの犬や、花や魚たちとすぐ仲良くなってしまうのは、この意識があるからなのだろう。

 また過去の見知らぬ事件などを詳細に語ることもそうなのかもしれません。

 心の記憶と体が持っている純粋記憶が因果律に基づく自我意識に妨害されない時と、真実に目覚めさす働きそのものをする念仏の心に目覚めれば、この肉体と記憶を超えた命のつながりの事実に誰でもが気が付くのだろう。そうすれば浄土の記憶も自づから開かれてくるのだろうと思います。

なんまんだ。

私の命になった願い達。

 心と体の中心は脳ではなくて腹底にある。脳にあると思っている人はそう思っていればいい。

 腹蔵なき身の潔白を証明するなら脳を切腹すればいい。心の中心は宗教心が根本だ。

 それが深いところでつながっているならば、一人一人に全人類の過去の人々の生きた体の遺伝子レベル心と無意識レベルの歴史が詰まっているはずだ。姿かたちは違ってもきっと、私のどこかに生きていることになる。

 不思議な気もするし、おかしなことかもしれないが、46億年から地球ができて、いや宇宙ができるその前からあった命の歴史から見れば様々な命の形を記憶して、その心の働きさえも命達は覚えているに違いない。

 そしたら、様々な人々の歴史を経験してきた私が今ここに出来上がって生きていることになる。

 そして昔の人や動物、植物が見たこと聞いたこと、涙したこと喜んだこと。直近ではブッダの説教を違った形で聞いていたこともあったのかもしれないな。

 そして今また、そんな教えに遇って念仏するようになったことも、そんな命達の見えない聞こえなくなった願いが私に成就したからに違いない。そんな私をそんな諸仏という何かになった命達がいま一番喜んでいてくれているに違いない。
 なんまんだ。

中州に遊ぶ。

 
 ブッダの悟りは「この世はすべて縁生存在」。つまり、全ては繋がりながら消滅と生成を繰り返している存在だという事らしい。

 私の体も生まれてから、食べ物を取って肉や骨になり、それが精神活動になっているが、毎日が新しい細胞の消滅生成の中で、私が生きていることが事だと知っている。

 しかし、心は、そうは考えなくて、いつも変わらぬものが私の中にあって、少しは体が不自由になったが、まだまだ年をとっても、心は変わらないと思っていることが、変化をしていることへの逆証明になっている。

 事実を認めず忙しく生きている。しかし、やはりあらゆるものが一つとして独立した存在ではなくて、主体という自我があるものとして生きている。

 この主体も自我意識も、他の主体による連続し継続しているその時の一時のつながりに過ぎないという。

 例えば、すべては川の流れのごとくに生きているのである。一時点、一方向の表れは確実に存在するように見えるが、それさえも変わるものは変わらないという事実に基づいているのである。

 仏も人も縁生存在であるが共時することによって対象同士が繋がって見える信心確立の時もあるが、やはり一時のつながりに過ぎない。

 しかし、自我意識から解き放たれた縁生存在の自己であり、真の縁生存在の主体的存在が仏であることをその時初めて認識することができるのだろう。「中州をよりどころとして生きよ」とのブッダの真意がここにあるのだろうと思った。
なんまんだ。

ライオンとウサギ。

 
 宗教心は一旦動き出したら死ぬまで止まらない。

 泥のなかのハスのように、煩悩本能を敵とせずむしろそれを友としてエネルギーとして、いつでも何処にいても誰といても、いやな夢や、いい夢を見ているときも休みなく働いている純粋な精神機能だから。

 心の働きはいろいろあるけど、こんな働きをする因果律を包む機能があってもちょうどいい具合だな。

 いつも、常時、自分のことばかり考え疲れ果てている自分だから、たまには外に出て森の中を散歩するような清清しさが感じられるのだ。

 このように二つが親しい友となり、さらに純粋機能が私の主体になれば、心の中にいつでも砂漠の中のオアシスのような安堵感がもてるからな。

 今まではまるで獣性と神聖の戦いだったけど、ライオンとウサギが仲良く草の上に寝そべってきれいな夕日を眺めている世界も満更でもないような気がしてきたな。

なんまんだ。

この橋渡るべからず。

昔、仏教の学校で「中道」を学んだことがある。真ん中の道だから「この橋を渡るな」の注意書きを見て、一休さんのように橋の真ん中を歩けという事ではない。

 極端な快楽や修行を避けるとも言うが、思想信条も偏るなという事でもなく、心に縁起の理法を働かせる、有るとか無いという判断を超えた宗教心に目覚めて生きよという事に最近気が付いた。

 すべての存在は人間の目には光と影があり、生と死があると考え思っていくような思考方法が生まれた時から身についている。だから人間は善やら悪やら浄穢、美醜、損した、得したとか不条理や不合理に悩んだり、すべて得する方に思考方法が出来上がっているだけだ。

 古来、中道とは楽器の弦を強くもなく弱くもない状態が一番いい音が出ると比喩されてきた。強くとは、自我意識の協調や自力意識を中心に生きていくことであり、弱くとは、怠惰で享楽的な生き方、今だけ金だけ自分だけというような現代の風潮に表さられているようなことである。

 これは、今言った本来の宗教的で中道的な生き方になってゆく真実に目覚めていない、動物的な意識生活を否定した悟りという中道意識の世界を言うのである。

 しかし、本来人間の能力には本能と煩悩があるように、さらに宗教本能も根本的にあるから、ここに目覚めて生きてゆくことが、それらの障壁を乗り越えて生きてゆくことを古来から人間の歩むべき本来の正しい精神活動を中道と言い慣わしてきたのであろう。

 すなわち、その真実一如という宗教世界から立ち上がって我らに呼び掛けてくるようになった阿弥陀仏の言葉を超えた真実の言葉である我らの魂の故郷念仏が我らに表現された中道が中道の本道としての念仏道こそが中道の本質であり、それが、ここに我らに開かれてきたという事でもある。
なんまんだ。

六代目圓生。

 六代目圓生の「佐々木政談」に桶屋の息子に「饅頭くれる母と小言をくれる父とどちらがいいか」と問うた。
 息子が「二つに割った饅頭。どっちが旨いと思います」と返事したという話を聞いたことがある。

 あみださんの本願と名号どっちが大事と同じだと思った。

 本願はあみだ様の心の智慧と慈悲の働きだ。

 名号は愛しい我が子を呼ぶ声だ。二つか一つで、一つが二つになっている。

 心配する心があるから、我を頼めという言葉の声になる。

 この二つを理論的に分け分析できるけど、その声を直接わが胸に響いて聞こえた時に生きているあみだ様に抱かれたような心地になって、ただ一つになって救われるから、二つは一つという事は後で考えられた理論でそれも有難い。
なんまんだ。

南無阿弥陀仏は人間の魂の実在を示す言葉。

 
 あみだ様が法蔵菩薩の修行時代に、自らの命を捨てても、すべての人が本来の人間の宗教心に目覚めてほしいと自らの命を捨てても救うという願いを立てたことが現在も個々の救済によって証明されている。

 この法蔵魂の宗教物語が人間の人格形成の原点としたら、人が人になるためには自らの命を捨てても人を救うことを惜しまない精神を育てなければならないようにできていることになる。

 その完成した喜びが宗教心と私から一つになって初めての出会いの感嘆の声がなんまんだぶつであり、そこにはそれまで私を育ててくれた宗教心の感動を持った人々である諸仏の喜びも詰まっているのだ。

 アミダと私と諸仏の出会いが時空を超えて私のなんまんだぶつとなっているのである。多くの言葉をこえた魂の言葉が本当のなんまんだぶつとなってきたのかもしれません。人間の魂の実在がなんまんだぶつという形になっているのかもしれません。
なんまんだ。

死は我が人生の完成。

 自力という自我意識は自己保存本能と強く結びついている。自覚的でありながら無自覚的に自我意識を教化してゆく働きである。

 この生来の自己保存本能というべき本能がより以上の自我意識の増強ために煩悩を起動しだす、人間にとって生きることは大切ではあるが、それ以上に宗教的な本能ともいうべき自我意識を超えた働きをする主体的なこの働きに目覚めないと、自我意識が作り出す自身をも覆いつくす無自覚な根本無明の闇に覆われた人生のまま終わってしまうのである。

 そのような未知のブラックボックスの根本無明の鍵を宗教意欲の光によって開かないと自己の宿命が作り出した過去久遠劫の罪悪の深さが自我意識さえも覆いつくしてしまうのである。

 このような過去と未来にわたる自身の苦業を現在に解決する道はそれらを超えた時空存在にある超越的な働きをしている宗教意識の本来性によるしか、その罪業の道に真実の光は我に届かないのである。

 自己自身が生来持っていた宗教本能の働きに目が覚めれば、現在、過去、未来の三世の世界は常にその宗教本能が働き輝き、現にその自我意識と対立しながらも真実の智慧と慈悲の光明に包まれた世界に生まれ共存していたことに誰でもが目覚めることができるようになっていたのである。

 そのなかで懴悔、慚愧の心がとめどなく溢れ出た時、その終わりには死をもってそれらが全て完成した形で我らに一大安心とした世界が与えられるのである。死をもって人間の一生の完成となるのである。
なんまんだ。

 「である」が多くてすみません。

99歳の誕生日おめでとうございます。

 4は死と同じ発音だ。9は苦。7は質流れ。死も苦も嫌なもの。死も苦できるだけ避けたいけれど、それでもいつかは必ず出会うもの。

 それじゃあ、8は末広がりで縁起がいいから数字をすべて8にすればいい。生きているときにいやなことを忘れて8だけで生きてはいけないと知ってはいても、車のナンバーが4949だとちょっとと考える。
 
 みんな死の恐怖と苦の痛みを恐れていることに変わりはないな。

 4と9の恐怖は一生なくならないけど、それらも生の一部だし、死の恐怖から悟りを開いた白隠禅師もいることだから、悪い面だけ考えず死と苦のいいところ、うかうか過ごしてはいられない人生だと、蓮如さんのように後生の一大事にでる地獄からきた極楽への天使だと思えるようになったら、すこしは不安が薄まるのかもしれません。

 4と9の言霊はこんなことを伝えたいのかもしれません。今日、じいちゃんが四月九日の四時四十九分に四苦八苦しながら99歳の誕生日を迎えることができました。

 なんまんだ。

いやでも繋がっていたいんだ。

 宗教心は自己を正しく知らせる真実を映す恐ろしくて愛に満ちた鏡だ。今の自身が行為することは例えば縦軸に私の先祖父母がいて、子供や孫となってゆく三世の縦軸だ。

 横軸に私の減殺過去未来の魂の救済までのあみだ様との関係が頂ける。この二つの歴史が多くの命に支えられていたことも証明されてくる。私の横軸を取り出せば、救われてみれば私の深い闇と仏の光に包まれていたことも知れてくる。

 二つの軸が交わる中心にいつも宗教心という無限宇宙につづく基点に支えられていたことに気が付けば、私の救いが全宇宙の命が救われている。いままさに躍動しながら輝き歓喜懴悔したまま真実につながっているという事だ。

 宗教心という無限の大いなる働きが無限宇宙に繋がっていないわけがない。

 こんな宗教宇宙の真実ならばその中に生かされている私の不思議を喜ぼうではないか。宇宙の果てまでインターステラしなくとも、なんまんだ仏の中に全宇宙がすでに包含されているのだ。 

 だから私一人のなんまんだ仏の宇宙空間があるから、全ての宇宙の命達と無機物たちとも今も知らぬうちに一体となって呼び合っていはずだ、呼応しているのだ、今の私たち。

なんまんだ。
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