丸っと一つなんだがな。

  生死一如とは生と死が一つという事らしい。生の中に死があり、死の中に生がある。のではなく一如の中に人間の生死の迷いがあり、生死即涅槃と言って涅槃を体験したものは、完全に煩悩の火が消えさったものという意味をもち、宗教的な確信を得た時に全ての人が一瞬の刹那に体得した世界である。

それを知っているからこそ、ましてや涅槃を知らなければその真実一如の涅槃界という言葉も人間の口からは決して出てこないのであるから、その世界を認識したものは自らの生死に伴う迷いの一切を知って、それを一如の世界に還元してゆくことが出来ると言う意味なのだろうと思うのです。

還元という言葉は表現としては大いに違うのかもしれないが、自ら認識した二つの悟りと迷いの世界の根本にある不適切なはたらきをする無明の闇から脱出した時に現れてくる真実の世界に身をゆだねて行くことが完全に出来るようなときに我らにも一如なる世界が念仏として言語化された真如の世界に対して相反しているような世界が実はその底に通底する一如との出会いでお互いが成立するためには相互に欠かせない成立関係があるのだという。つまりは「即」という繋がりでもって知らせてもらう事が少しは理解できてくるのではないかと思うのです。

 ひと言で「生死即一如」「証知生死即涅槃」をいうと「おいらは地獄かかえて、ここは極楽なんまんだ」という事だと思うのです。

仲良くしようや。

極楽往生は真実一如の縁起空の世界を認識し、その世界に目覚め帰ってゆくと言う事なのでしょう。

それでは念仏とか信心とは一体何でしょうか。それは真実縁起空の世界への扉であり誘いなのでしょう。

その内に生きていながら分別苦に一生悩まねば生きていけない人間の業ともいえます。

それ無くしては生きてはいけないと言う無分別との共存があればよいのでしょうが、ともすれば分別心の方が我々は理解しやすく、人間の意識の認識に叶う味方なので、そちらを大切にしてしまうのですが、そうではなく否定的な肯定存在としながらも両立してこそ真実に生きて行けると言うのが本来の人間の生き方として先人が仏の智慧を持って生きてきた真実への精神的な歴史があったからなのではないかと思うのです。

その徹に従って生きてみれば真実のはたらきの自然さが我々には本来必要だし、道理にかなった生き方に本来なっていると思うからなのです。

なんまんだ

アミダを喰らうもの

 アミダを食らう者

 キリスト教会ではキリストの血という葡萄酒を飲み、肉体のパンを食べるそうだ。

 宗教の「宗」の解字では屋根の下で神に生贄を捧げ、その血が滴っている姿がその成り立ちのようだ。

 浄土教のアミダ様をその例に譬えると、あみだ様が我々を救うために修行していた厳しい法蔵菩薩の時代に流した血の泪であり、その体は本願となって我らを救うアミダ様の身体なのではないのか。

 念仏をするという行為はそれ自体あみだ様の身体本願をわが身に食し、その口が血塗られていると言う事になりはしないのかと思うのです。

 法蔵菩薩のご苦労を思えば、たかが念仏一声称える念仏の声の中にも悲しくも申し訳ない忝いと言う思いが、当然そこに沁み出てくるのではないのではないのかと思うのです。

 それによってこそ、我らもやがてあみだになることが出来るのでしょうし、古代人がマンモスの肉を食べれば英雄のごとき様相を呈したのではないのか。

 現代であれば大きな牛の肉を食べると元気が出るとか、大谷選手のグッズを手に入れて元気になるなら、握手したならもっと元気になるかもしれないし、古代の戦争で勇猛な敵の心臓や肉を食べれば勇猛な敵の特別な力を得る言う話もあるように、信心を獲ると言う事はアミダから救済と同時に特別な智慧と慈悲という力を我らが与えられていくと言う事になるのである。

 つまり、アミダとは我らが食う命の全てに籠っているのではないのか。

 我が命をむさぼってアミダの命になってすべての人を救う手伝いをしてくれまいか。という願いが籠った食べ物である。

 我らは美味いか高いか安いかで食うが、アミダの血と肉体を食うのだとなれば、そこには念仏一つにもアミダの力強い悲しみと痛みが籠った念仏となって我らの口から出る念仏一つ一つにも籠っているのであると私は思っている。

 それでもその命がけの御恩を忘れ果てて生きている私がここにいるのである。
 毎日、血を滴らせながら、口に真っ赤な血をこびり付け、我らはアミダを食らう者となったのである。

 念仏するものに祝福あれ。

 なんまんだ

フワッと死んで行きたいな。

たった三段の階段にけつまずいて肩をしたたか打った。

フワッと宙に浮いたとき一瞬ジタバタしても落ちるだけと観念した。その時は椅子の角に肩をしたたかぶつけて無事着地した。

親鸞聖人は歎異抄で「ちからなくしておわるとき」と言ったが、この時も同じだなと思った。

いくら生きようという意思があってもダメなものはだめなんだな。

死ぬ時はいくら延命治療してもダメな時があるように、いくら生きたくても生きられない時がかならず誰にでもやってくる。

いざと言う時は一切お任せの人生を生きていながら何をする。

だったら最初から命の全部をお任せして生きてくればよかったな。

フワッとするときが必ずみんなに来るからな。

だから私一人だけでも一足先に一切をお任せしておくことにした。

 なんまんだ

因果同時なら生死即涅槃。なんまんだぶつで即お浄土のはずなんだ。

 
この世は因果同時の世界。それを人間の分別心に合わせて因と果に分けている。

 種があるから花が咲くという因から果は人間の見方。花の果があって初めて種の因が見えてくる。花が咲いたから種の存在が認められる。種があったからとなるのでしょう。

 親が最初からいたのではなく、子供が生まれたから親になれたと言うのでしょう。

 親と子供は同時に生まれたと言うのでしょう。このおかげで親になれたともいえるのでしょう。生があって死があるなら、これも死も生も同時であって、生死即涅槃と表現してもいいのかと思います。

 この世はもともと因果同時の世界で出来ているのかもしれません。

 服を着るときボタンを掛ける。ボタンが手段で服を着ることが目的という。服を着ればボタンを掛けることは余計な手間なのか。手段と目的という因があって果があると言う。その通りだが、因果同時であるならば、ボタンを掛けることがすでに服を着ることと同じになってゆく。

 お寺で法話を聞くために家を出る。目的は法話を聞く事だが、家を出た時に既に法話を聞いていることになる。

 だから念仏を称えれば既に極楽に着いたことになっているはずだ。

なんまんだ

悟ったまま死にたくないと言って死んで行くしかないんだな。

 心の死、自力意識の喪失を経験した元禅宗の一休さんは、覚ろうと言う努力意識を捨てさせられ真理に目覚めた時、真理から真理そのものを体得させられた。

 しかし、残るこの身の痛み、哀しみの煩悩熾盛、死にたくないと言う声を一生の間き続けることが出来たのであろう。

 自力執心の心が、なお死にたくないと言う盲目的な意識ともいうべきものが一生続いていた。

 しかし、素直にわが身を見る仏の目がそこにあったから最後までこの五濁悪世を好み、友や妻と別れたくない、死にたくないと言う率直な言葉になったのでしよう。

 この身が、この肉体が必死に死を忌み嫌うのですが、その肉体の直接の反応と沸き上がるそのどうしようもない心の動揺をどうしても防ぎようがなかったのだと思うのです。

 なんまんだ

幸せはいつも向こうから

 
 本当の幸運なんて、一生に一度向こうから勝手に来るものじゃないかと思います。

 あみだ様の救いも、こちらから求めても結局は自力婿の原則に従って、あみだ様の方から愚かな我らに差し伸べられた御手に縋るしかないようなものだと思うのです。

 また、ギリシャの諺に「幸運の女神には前髪しかない」。自分の力で過ぎ去った幸運の神様には掴むべき後ろ髪がないとあるように、この神様のもとは時の神様カイロスだと言うので、過ぎ去った時は戻らないとも考えられる。

 しかし、永遠の時を刻む宗教心と考えれば、我々からすれば時には永遠の時もあれば一瞬の時もあるように、ともに諸行無常の姿をして現れてくるが、それを乗り越えようとして、その一瞬の時や無常の正体を知れば無常ならぬ永遠の時という有常世界を掴むことになるのだろうと思うのです。

 しかも、その時は向こうからくるとありますが、有限の我々が求める時はやはり有限の感覚でしか無限をとらえきれないのですが、無限からすれば有限の我々を捕まえることは出来るのでしょうし、それを知らされることは我々にも感知できると思うからです。

 それではその実感は永遠にないのかと言えば、そうではなくて、永遠の時を持つ宗教心に捕らわれた時の無自覚の世界でしか会えない一瞬に我々はそれを自覚できるのでしょうから。

 それが宗教的な自覚の原点であり出発点であり、そこが既に終点にもなるのだと思うのです。

 そして、ここに人生の永遠の真理の究極が詰まっているのだろうと思うのです。平凡でまじめな日常生活をしていれば無常はいますぐ誰にでも見えてくるものなのでしょう。

 それと真摯に向かい合うこと以外に本当の幸福の神様の前髪を掴むことは出来ないんじゃないかと思うのです。

なんまんだ

信心いただき、悟りも開いて悲しいままに仏になる。

 悟りを開いたブッタであったからこそ、この世はすべて縁生存在であるから諸行無常と喝破できた。

 親鸞さんも一休さんも信心とか悟りという宗教心に目覚めた仏の目でこの世と自己を見ることが出来たから、無常の厳しさと自己の執着心の醜悪なる実体を直視できたのだ。

 私たちはお念仏も空の世界あるのですが、なかなか信じられず、ましてやブッダの如く座っただけではなかなか悟れなく、信心も得難いので、なかなかこの世の無常を驚かないで平気で毎日を忙しく、死を心の倉庫にしまい込んで真剣に動き回っています。

 しかし、病気や事故や老を迎えると、やはり一番は死の問題が首をもたげてくるのです。

 無常に驚くとは、その反対の有常というか永遠なる仏の世界を持って生きて働いている宗教心という悟りや信心に初めて目覚めることが即、生死の相対的な考えから離れることが出来るようになっているので、そこを乗り越えなければ生老病死が目の前に迫るまではその根本的な死に対することもなく、問題解決への道は困難なのだと思います。

 それを超えたとしても、諸行無常の中でそれを悲しみ、喜んで生きて行かねばならないのが人間の宿命であって、それを持って生きて行くしかないのが人間の限界人生だと思うのです。

 そして、諸行無常を抱えて永遠の浄土へ向かって正々堂々粛々と生きていくことのみが人間に残された最後の最後のひと息まで人になってゆく、仏にならせて頂くということのみが人間に残された、仏道に生きる我々の道になると思うのです。

 一生涯無常を驚きながらお念仏を喜ばせてもらいながら、ただただ仏になるための人生であった、そして、いまただただ死んでいくことが何とも有難い人生だったと言えるようになっていくということが生きると言う真意なのではないのかと思うのです。

 なんまんだ

花が咲いてこそ種がある。子供が生まれて親が生まれる。

 きっと仏教は「従果向因」。

 悟りを開いたら根本の無明の闇に気が付く。救われたら仏の浄土と私の地獄が見えてくる。

 救われたら救われないわが身が見えてくる。救われたらわが身が凡夫と見えてくる。救われたら、宗教心に目覚めたら人生の四苦八苦が初めて見えてくる。悟りの眼から諸行無常が見えてくる。

 科学は「従因向果」。

 無明の闇があるからそれを破るために自力努力意識を持って修行する。知識としての無明からの努力意識による修行による仏への方向は仏からの信心の開眼が前提なので無限の限界に気が追加ない限り不可能の道になる。

 仏に成る場合は宗教心が主体になるので、神仏という果からのはたらきを信知することが正しい道になる。

 それを他力という。間違っていたらごめんなさい。この責任は私一人が引き受けます。

 私→仏・・・因から果への道。「従果向因」
 仏→私・・・果から因への道。「従因向果」

なんまんだぶつなんまんだ

たった一人の小さな仏様だけでも私を認めて下さいね。

 死によってこの世の悩みの全てはなくならない。

 ブッダのように生まれて来た人生の意味を知った人が
 この世にいた以上いる以上。

 それを知ったら人生いつ終わってもいいように。

 人生という字は人と生きるからできている。

 この字の中には生きることだけでなく人が

 死ぬ人死という字が隠れているのだ ろう。

 人生は生きると死ぬという迷いの続く中でもがきつづけ最後に本当の死を迎えた時に、これでよかったと神仏に承認されるほどに意義深い生き方を、生も喜び死も喜べるような、行き先のわかった生き方をしているならば、という意味で。

 人にとって本当の人生を生きたと言う事がみんなにも認められ、いや一人神仏だけにでも喜ばれるならば天国の門も浄土の門も、いつでもその人の前に開いているのではないのだと思います。

 死はいつでも私たちの生を脅かす存在ではなくて、人間の人生の正しい意味を尋ねて行ってくれと身をもって教えてくれる本当の人生の師匠なのでしょう。

 この死の師匠の問いに応えられる生の答えを得ることが
 人生の本当の意味になるのではないのかなと思います。

 人生
 ───=人生
 人死

 なんまんだ
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