金魚〜。金魚〜。なんまんだ〜。なんまんだ〜。

宗教心の表現は何もその道の専門家の得意とするところではないと思う。詩や絵画や農業やサラリーマンの人でもその道の言葉でいくらでも可能なのだ。

神の国や浄土だけにとどまらず、この世の矛盾と自己の矛盾を併せ持ったままで表現すれば、それはすでに深く尊いところからとどく仏の言葉として自ら頷くことができ、人にも深く伝わって行くものなのだと思うのです。

特定の時所で特別の修行しなくとも与えられた仕事を修行とすれば、それを創造してゆくことで宗教言語ではなくてもその仕事で使う表現でその世界を表現していると思うのです。

その調和的な表現を総称して昔から美しい言葉でなむあみだぶつとして伝わってきたのではないのでしょうか。
なんまんだ。

毎日お浄土へ出勤だ。

 浄土が四次元にあるのか10次元にあるのかは知らないが、我が魂の古里といって来た。

 この世の実家は地震雷火事親父で無くなるが、亡くならないのがわが浄土。しかも、個人のプライバシーも守られていて、仲良く共同で生きていけるところらしい。

 忙しいことに、そこに行けば、すぐこの世に戻ってあみだとしての仕事に従事しなければならないから浄土はいつも空っぽらしい。

 いわば肉体と繋がりながらも精神的に独立したものらしい。不即不離の関係だ。

 だから、なんまんだぶつはこの世からあの世に入るご挨拶。

 行ってきます、なんまんだ。おかえりなさい。なんまんだで毎日行ったり来たりで、なんまんだの精神浄化の往相還相二回向の浄土意識が皆にいまも与えられている。

なんまんだ。

やあ、しばらくでした。なんまんだ。

私が生まれてから仏さまがいたのではなくて、仏さまは私が生まれる前の先祖からここにいたのだと。そして、私達はずっと見られていたのだ。私が生まれてからずっと一緒にいたのだと。

 多くの人たちが一緒に生きていたことを信じることができたから、仏さまのいう事を見たり聞いたりできたのだろう。

 そんな実際の先祖達が救われてきた現実があったから有限の我らが無限の仏の存在を知ることができたのだろう。

 無限の仏を有限の理性で知ることはできないが、深い歴史的
存在だからこちらが理解されることによって、それを信じることができるようになる。こちらの考えが限界に立った時、その思案の頂上の上から信じることが向こうからやってくる自然構造になっていたのだろう。

 こちらの頭が上がらないものに出会って、初めてこちらの頭が下がった時に、この世で二つは矛盾したまま融合してきたのだろう。

 その時の双方の感動の言葉がなんまんだとなったのだ。
 なんまんだ。

謙虚になった人たち。

 インドの竜樹菩薩「十地にいたらず」。
 天神菩薩「満向」。
 曇鸞大師「初地に至らず」。
 道綽「初地」。善導大師「信外の軽毛」。
 源信僧「予が如き頑魯の者」。
 源空「愚痴の法然坊」。
 親鸞「愚禿釋親鸞」。 
 親鸞に至っては自らの名前に愚禿とまでつけてしまっている。

 近年では禅僧の鈴木大拙師。皆様当代きっての方々が仏の教え 
 を悟るとこうも謙虚なるのかな。
 皆様は世が世なら天下国家を論ずる人間だ。
 賢者の心は測りがたしだな。

 仏といえば自らの姿を映す鏡とたとえられている。
 
 その姿を見た時の心が忘れられなくて、救われた時の本物の自 
 身の姿を毎日毎日見続け言葉にすれば、こんな謙虚な表現にな 
 るのだな。
 そういえば宮沢賢治も「木偶の坊」と言っていた。

 なんまんだ。

変ることは変わらない。

 変わることは変わらない世界の中にいて、自分の意志意欲が変わらないと寸毫も疑わないで生きていることを鬼的存在とも、罪悪深重の凡夫存在ともいう。

 変わるのに変わらないと執着して健康に生きようとしている姿を、真実に逆らい続けて変わらないのだと執着している根深いすがたを救われぬままの鬼的存在として人間の意識を仏様は見ているのだ。

 それを、ことのほか哀れと思い、真実の仏の世界に気が付いてほしいと目覚めさせようと、自らが修行努力し我らの身代わりになり、その究極のを案じ、見出したのが我を信じ念仏せよ、なのだ。

 これによって釈迦も法然も親鸞も、そのほかに悟られた方々も向こうからくるあみだの救いの手を感じ信じて、それぞれの立場からその世界を表現しているのである。

 なんまんだ。

お帰りなさいませ。ご主人様。

 人間の本当のご主人様である宗教心に目覚めれば、このための人生だったことが誰でもがわかるようになっている。

 その時に初めて失敗続きの人生であっても、独りぼっちで寂しかった人生でも無駄なものは一つもなかったことに気づくことになっている。

 一番大切なものに目覚めたのだからその世界から、改めて自分自身や今までの世界を見直した時に全く仏の視点からの世界が広がってくるからだ。

 すべてが何一つ必要とするものだったと理解できるようになってくる。人生に時に無駄と言う物は一つもないと思えているから不思議だな。

 人と比べて無駄だと思っていただけなのだ。すべては自分自身が本当の世界に目覚めるための宝物だったのだと気が付き始めてゆくのだろう。
 なんまんだ。

阿弥陀仏よ!今こそ、ここに、出でませい!

 隠された人間の大主体がなんまんだ。

 なぜ人間が生まれた時から活躍しないのだ。

 求めなければ得られない、求めなければ得られないなんて今時ではない主体だな。

 なぜ隠されたのだろう、隠したものはいったい誰なのだ。

 もし生まれた時からこの宗教心が人間の主体として活動していたならば、人類はもっと平和な世界を築けていたに違いない。

 今なぜ、その理由がよくわからない。

 真理の大親分なら白昼正々堂々と大手を振って人類に貢献しないのか。

 五歳で一家を支える子供が死ぬときに一時の平穏のまま死ぬわけにいかぬことになる。

 こんな素晴らしい心の機能があるのになぜこの世に出てこない。

 国ごとに、その土地の色を帯びた宗教が出るから言葉も違う理解も違うから、大人同士が一神教だ、多神教だと忙しい。

 見えない主体よ、いまこそ、この世にいでませい。

 なんまんだ。

善悪の彼岸。

 変わらぬ悪人や善人はどこにもいない。
 
 時と場所と善の縁が与えられた善人はこの世で善行が可能で、悪人は悪行をしてなんらかの裁きを受けた人。

 という意味と宗教的な意味では自分の力で絶対善の仏になるために既成の努力してゆく人という意味がある。

 悪人と言われた人が犬や猫に餌をやったら食べないか。花や木に水を遣ったら育たないか。心境や環境や社会状況が作り出しては消えてゆく、その時々の様々な状況によって作り出されてゆくのが悪人善人の定義なのではないのか。

 その時その時で人は変わってゆく人がいるだけだ。

 憎しみをもったまま死んでゆく人や、それを愛に変えてゆく人もあるように、悪人が善人に変わるように社会も悪人を社会状況やその人の心境の宗教的な変化をみて善人とするように。その時だけの状況だけで判断するのが人間だけど仏の永遠の眼で人間を見てみれば、人間全員、真理に背く極悪人と見たのがあみだ様なのかもしれません。
 
 親鸞は絶対善に向かうのに相対善で限りのある根本煩悩を持つ人間にそれは不可能であるとした。最初から絶対善のあみだの本願念仏に任せることが全ての人間の相対と絶対を超えたあみだには、全ての人間意識が作る善悪をこえた絶対の救いがあるというのである。

 それを実感できる人は絶対極悪の自覚が知らされたところにしか絶対善が作用しないという絶対矛盾世界が作り出している安心静寂世界が一人一人に与えられ、それが人間最後の認識になるのだと思います。

 なんまんだ。

くるくるくる。

 来る。見えてくる。賜る。聞こえてくる。これらは如来が私たちに現れた時のすがたに使う言葉だ。

 宗教心の自立性、独立性、永遠性や無量性を現している。

 宗教心の種に伝統の水や無量の時が育てた肥料を施さないと信心の種から念仏の花が咲かないように、相対的、限定的な命に立つ我らの努力がないと枯れてしまう。

 最後の花の咲く春までは、こちらからの営為は意味をなさない時に咲くから、そこに目覚めるのは一層困難なのである。

 求めてもえられない、求めずして与えられる存在だから、それが永遠生保独立性を損なわないものが我らに残された唯一の仕草なのである。

 なんまんだ

大谷翔平のサイン。

 憧れの大谷翔平から貰ったサインは嬉しい一生の宝物。感謝状や表彰状に描かれたサインも有難い。

 仏教の「戒名・法名」も生前に頂いた弟子になった仏さまからのサインです。キリスト教の通過儀礼の洗礼も神と人間の結びつきを表すサインなのかもしれません。

 自分で書いたサインは味がない。何のつながりも感じないから自己満足しか残らないし、人に自慢もできないフェイク念仏になってしまうのでしょう。

 人に見せられないから一人喜んでいるだけで、やがて焼かれる棺桶までのサインになるのでしょう。

 本物の念仏サインはあみだ様から直接もらった私の心への生のサインだから、仏様とのつながりが深く感じられ、お浄土までも一緒に持って行けるサインで、人生の甘酸っぱい味がするものだ。
なんまんだ。
NEW ENTRIES
命の根っこ。(11.21)
夢を見る。(11.20)
(untitled)(11.20)
身。(11.19)
日々是念仏。(11.18)
ありのままの意味。(11.18)
ありのままの自分で生きる意味。(11.18)
動物と人間の違い。(11.17)
トイレと言う神殿。映画「パーフェクト・ディズ」より。(11.16)
身も心も生まれ変わらなきゃあ意味がない。(11.13)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS