この橋渡るべからず。

昔、仏教の学校で「中道」を学んだことがある。真ん中の道だから「この橋を渡るな」の注意書きを見て、一休さんのように橋の真ん中を歩けという事ではない。

 極端な快楽や修行を避けるとも言うが、思想信条も偏るなという事でもなく、心に縁起の理法を働かせる、有るとか無いという判断を超えた宗教心に目覚めて生きよという事に最近気が付いた。

 すべての存在は人間の目には光と影があり、生と死があると考え思っていくような思考方法が生まれた時から身についている。だから人間は善やら悪やら浄穢、美醜、損した、得したとか不条理や不合理に悩んだり、すべて得する方に思考方法が出来上がっているだけだ。

 古来、中道とは楽器の弦を強くもなく弱くもない状態が一番いい音が出ると比喩されてきた。強くとは、自我意識の協調や自力意識を中心に生きていくことであり、弱くとは、怠惰で享楽的な生き方、今だけ金だけ自分だけというような現代の風潮に表さられているようなことである。

 これは、今言った本来の宗教的で中道的な生き方になってゆく真実に目覚めていない、動物的な意識生活を否定した悟りという中道意識の世界を言うのである。

 しかし、本来人間の能力には本能と煩悩があるように、さらに宗教本能も根本的にあるから、ここに目覚めて生きてゆくことが、それらの障壁を乗り越えて生きてゆくことを古来から人間の歩むべき本来の正しい精神活動を中道と言い慣わしてきたのであろう。

 すなわち、その真実一如という宗教世界から立ち上がって我らに呼び掛けてくるようになった阿弥陀仏の言葉を超えた真実の言葉である我らの魂の故郷念仏が我らに表現された中道が中道の本道としての念仏道こそが中道の本質であり、それが、ここに我らに開かれてきたという事でもある。
なんまんだ。

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