空しいままじゃ終われないのが人間のさがなのさ。

 死後に救われる臨終即極楽往生とか、死ぬ間際に救われるという臨終来迎に間に合わない人もいる。

 臨終来迎往生とは死ぬ直前の宗教心の自覚だとすれば、自助努力をしても、それに間に合わないときもあるだろうし、死んでからではそれを自覚できないし意味がない、死ぬ間際にそれが本当に実現出来るとよいのだが、仏任せの来迎もいいけれど、その名のもとに、自ら求道もせずに、普段の生活を続けていては意味がない。

 仏果に至る悟りや信心の宗教心は生きているときに自覚し、それを生きることが目的なのであるから、ことさらそれを期待するぐらいなら、日常で自覚するべきが筋なのだ。

 救われるとは、いつ、どこでどうやって、何のために、どうなれば、それで私がそれから何をすればいいのかを知ることだ。仏教の教えは生きているときだけの救いであり教えなんだから。

 死んでからの自覚は全くあてにはならないからな。死んでからの救いもいいが、その証拠は誰も知らなし確証がどこにもないままだ。その中身を生きているときに知ることがないと根のない空しい人生を過ごすことになると思います。

 たとえ生前無自覚で死後に仏になったとて、救いにくんる阿弥陀仏となったとて、無自性空になるのだから、このいまの私を思い出せないのだろうから、やっぱり今しかそれはない。
なんまんだ。

救われてどうするの。

 
 死後に救われるとか、死ぬ間際に救われるという臨終来迎に間に合わない人もいる。

 来迎とは宗教心の自覚だとすれば、自助努力なしに、聞法もしない無力主義で死んでからではそれを自覚できないし意味がない、死ぬ間際にそれが出来るとよいのだが、来迎という名のもとに、自らの求道を否定し、普段の生活の上で宗教心は生きているときに自覚し、それを生きることが目的なのであるから、ことさらそれを期待するぐらいなら、日常で自覚するべきが筋なのだ。

 救われるとは、いつ、どこでどうやって、何のために、どうなれば、それで私がどうなれば、どうなって、それから何をするのがいいのかを知ることだ。

なんまんだ。

ピカソとあみだ様

 ピカソに道で偶然出会ったファンのご婦人が絵を所望したら気楽に30秒で鳩の絵を描いてくれたそうだ。

 そして「この絵は百万ドルします」と言ったら驚いて「たった30秒で書いたものが」。ピカソが「30秒で書くために私は30年と30秒の努力をしました」。努力の値段が入っていると言ったそうだ。

 あみだ様が作った念仏も五劫(100年に一度天人が160キロ四方の石を羽衣でなでて消えることの五回。この地球に命が誕生してから43億年というすべての命の悲しみの姿を救うための時間)も考えた思案の頂上が全ての人を救うという、たった一秒二秒の念仏一つという事だ。

 それは人間の意識を超え包んでいる永遠の平和の浄土国家に全ての命を安住させたいという人間本来もっている全ての人間成就の願いでさえあるのだ。
なんまんだ。

今を生きるという事。

 「今を生きる」という映画があった。

 机の上に立った先生の姿が忘れられない。

 今から見える世界は別々なのだ。

 机の上からは広い世界が見え、違うものの考えが出てくる。

 仏の目線から見た我々の時空は今までの人たちが見た世界と同じものだ。

 同じ価値観の世界を次の人たちにも継承持続させてもらいたいから、それを壊すようなものはその社会全体が承認はしない。

 そんな閉ざされている世界を一つ高い視点に立ってみたら自身の真の姿や真の目的や広い世界が見えてくるときがある。

 それが宗教的な視点だ。

 誰にでも与えられ自由で平等な視点に建てた時人間は世界のどこにいてもその社会構造に縛られない視点をいつも回復することが出来るようになるのだろう。

なんまんだ。

縁生存在。

 人間は自由気儘に生きることが出来ると思っているが、例えば車の一部分のようにタイヤやエンジンやシャフトの構造によって車が一つの名前で呼ばれているように人間社会の一部分の構造存在として生きている。

 さらに言えば、人間の心の構造のいまだ知られざる、意識化されていない無意識という無明や阿頼耶識といった唯識思想で知られる心の構造の相互関係によってできている。

 さらに言えば、末那識という絶えざる自我意識、阿頼耶識などの総合的な構造の働きに作用されて一人一人がそれらの盲目的な意識に導かれている組織的な大いなる意識の川の流れに流されながら現在の生が存在しているのである。

 そういう総合的な一つの意識の魂に帰ってはまた再生されるものとして今それぞれがあるのである。
 なんまんだ。

さまよう故郷さようなら。

 あみださんは自ら作った浄土世界を自らの手で捨てた最初の仏様。

 お浄土に立って静かに誰でも来る人は拒まずとしないで、自らの願いを満足させるためにも、一刻も早く衆生の迷いを晴らすために自ら人間の言葉の仏になってまで、浄土を捨ててまで、われ以外の浄土なりとして、今すでになんまんだ仏となって、ここに今、目の前に全ての人の前に来られているのがあみだ様の五劫という長い修業した結果の浄土の根本の願いなのでしょう。

 すべては人類のためではなくて、全生命のため。

 ただ私一人を救うための自らの故郷を捨ててまでの悲願が今に働いているのでしょう。

 人間は魂の故郷に帰りたがるのに、その本来の故郷には誰もいないなんて悲しすぎるな厳しいな。

 仏になるとはこういう事なのか。

 あみださんを我が本源とするならば、さまよう故郷にさまよいながら捨てながら故郷に帰れと叫ぶのだ。

 なんまんだ。

パリと浄土と地獄の時差。

 パリオリンピックと東京の時差は7時間。

 地獄の一日がこの世の百年。

 なんとか地獄から出られる時に、もうここへは来ませんという約束に、必ずこの世でお念仏の教えに出会い仏様になるように生きますという閻魔との約束が果たせないまま50歳ぐらいで死んだなら、地獄はまだ一日の午前中。

 閻魔大王との約束が果たされ仕舞いで、ほんまに永遠の地獄一定住処ぞかしになりまする。

 あの世があるのに自分の努力が足りないばかりに地獄行き。

 午後には閻魔が今か今かと首を長くして待っている。極楽とこの世は十劫らしい。信じれば近くて、信じなければ遠いところと不思議な時差関係だ。地獄や極楽がなくとも、信じなくても生きてはいけるが、二つが宗教心によって発見された私の本質ならば、その時差の距離は信ずればないともいえるし、信じなければ出会えない永遠に遠い時差の場所ともいえるのだろう。

 ブッダの悟りは縁生存在発見ならば悟りと迷いの時差が永遠とてもきっとどこかで裏表の関係で、それが人間の心の真理をあらわしているならば、いつかどこかで時差のない世界を見出すことが人間にとって一番大事な心の生存確認に なるのかもしれません。

なんまんだ。

目を瞑る。

 弱ってきたこの目は、楽しいことや泣けることや、辛いことや、どうしようもないことや、びっくりすることを沢山見てきて、ついに見えなくなってきた。もう見たくないという事か。

 もうなにも見なくてもいいという事なのか。

 仏様は半眼で半分開けて衆生を思い、自らの悟りの完成を願っている。半分は衆生の悲惨な生き方に目を瞑っていられないが、もう目も当てられないからかもしれないな。

 私はそれでも見るべきものを見てきたか。見なくてもいいものばかりだったのか。

 う〜ん。どっちも見てきたのだろうな。仏も自分自身もな。
だからもう何も見なくてもいいのだろうな。
最後に美しい今日の夕日を見て目を瞑ろうか。
なんまんだ。

浄土意識の時空の中に今います。

 みんな活動的なエネルギーを持った空やゼロの世界から、今ここに生まれた私の命だな。根源的にみんなそこに帰れば仲良しだ。

 なぜか地上に出ていれば喧嘩ばかりしているけれど、これも心が成長意識化し
地中の命の働きに今の命が目覚めるためのものかもしれないな。

 もともと、みんな同じ親だから生まれた故郷を忘れるはずがない。

 人は寂しい時に敵対し、憎しみ合う人生を送ってしまうけど、愛し合うことを忘れると、そんな心ばかりに押流される。心の地下のほんとの命がなんまんだぶつという真理そのものが人間の言葉にまで成り下がって、地上の我らに名乗り出て、おまえはもっと大きな世界をかかえて生きているんだぞとお出ましになっている。

 だから知らず知らずに我らを救うに尊い念仏をすれば自然に涙が出てうれしくなって、宗教心というお浄土の時間と空間をこの世で実感できるような人間に生まれ変わることが出来るように人間は全部なっているんだな。 

なんまんだ。

ブッダと私は同じ人間じゃけんど。

 ブッダが覚るきっかけになったのが中道精神だと言われる。「川が流れる船の上で弟子に楽器の弦は緩くもなく強くもなく張るのだ」と師匠が言った言葉を聞いて苦行から菩提樹への瞑想になった故事からだ。

 その後、根本の無明意識があみだ意識によって破られ、それを支配していた無意識の愚痴の根本の末那識意識の正体が弥陀の光明の白日の下に晒されたことによって、覚りという真実の自己と真実の縁生存在世界が釈尊ブッダに開かれた。

 しかし、生存本能と枝葉の煩悩の悪魔は去らなかった。人間の精神構造に能力の差異はあるにしてもキリストやブッダ釈尊や我々も根本的に同じ人間的な意識構造を持っていると仮定したならば、中道とは覚り意識という宗教心と煩悩本能と対立共存しながら真実の世界へ歩んでゆく人間の普遍的な精神的、肉体的な実存生活になってゆくものなのだろうと思います。

なんまんだ。
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