カラスの独り言

言の葉の母

 
 あなたが話している言葉は誰からもらったんですか。親から、本から、学校で、世の中から。
 いろいろあるけど、言葉そのものの本質にある心を考えたことがありますか。どんな言葉でもいいんですが。その言葉の意味をずっと探っていったら、言葉の成り立ちにある人間の心にたどり着くのだと思うのです。
 そこまで言って、もう少し行くと、そこには言葉を生み出す言葉の母親がいると思うのです。
 その母親に会えば、どうして言葉を生み出したのか、生み続けているのかを聞くことができると思います。
 その言葉は「みんな愛情と勇気と希望を持って生きてゆくため」ときっと答えてくれるとおもうのです。そうでなきゃあ、言葉を紡ぎ、語らう意味がないと思うのです。もちろん暴言や凶暴な言葉の裏側にある悲しい記憶を癒すためにも、思い出して元に戻るためにも。 
ナンマンダブツ
ナンマンダ

人間道

 ブッダの出世本懐は弥陀の本願を説いて一切の衆生を救う事だった。阿難に限らずこの世に生まれた本当の意義である一人一人の出世本懐とは、いかに生きるかではなく、なぜ生きるのか、何を最大最終目標としていきるのかという問いを含んでいる。
 この問いに答えることができる人生でなければならぬ前提を持って人間は生まれて来たのだと思います。
 その意味で、ブッダの理解と私との理解は最終的に同質のものであり、進む道は涅槃道一つなのだと思います。人間として生きる意義と喜びが得られる道こそ、生死いずべき最大の深さであり、それに自らが答えるべき道がすでに私の前に人間道としていま見えているのであります。

ナンマンダブツ
ナンマンダ

まだ証明は出来ないけれど

ブッダの出世本懐は弥陀の本願を説いて一切の衆生を救う事だった。阿難に限らずこの世に生まれた本当の意義である一人一人の出世本懐とは、いかに生きるかではなく、なぜ生きるのか、何を最大最終目標としていきるのかという問いを含んでいる。
 この問いに答えることができる人生でなければならぬ前提を持って人間は生まれて来たのだと思います。
 その意味で、ブッダの理解と私との理解は最終的に同質のものであり、進む道は涅槃道一つなのだと思います。人間として生きる意義と喜びが得られる道こそ、生死いずべき最大の深さであり、それに自らが答えるべき道がすでに私の前に人間道としていま見えているのであります。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

良薬口に苦し

念仏とは、今まで一度も味わったこともない、経験したこともないものだから、匂いを嗅いでも初めてだし、本能を擽るものでもない。
 見た目も何となく怪しいし、触った感じも、いかにも軽々しいし、しかも、バーゲンセールで売って入そうな感じが否めないから、こんなものでと、つい手が出ないで後回し、こわごわと一度手に持って見ても、何が出るのかわからないから震える手からおっことす。だから持ち路に、食品コーナーにあったとしても見ない、知らない、感じないの、三無い尽くしのナンマンダ。
 やがて、死に神が身近に迫って余命一日となりました。ギバに無理やり進められ、いやいや飲めば、すぐに聞く効くナンマンダ。良薬口に苦し、とはこのことか。これなら毛嫌いせずに早く飲めばよかったと、飲んだ途端にナンマンダ。間に合ったのか間に合わなかったのか、アミダさんだけが知るナンマンダ。ナンマンダブツのナンマンダ。

―自力の執心断ち難し― 

 私は自分の体力を信じて生きて来た
それなりの能力や経験で生きて来た
その生活の中から有用な所を生かして生きて来た
これらの能力全てを出し切って仏様をこの範囲の中で
信じようとしている私がいるが仏様はそれ以上の全てを救う能力を持っているので私のようなちっぽけな血から能力では間に合わないのに、相和思わない所にその違いが出てくる。
 それが内に破られたとき、包まれたときにそれらには救われず、その世界を持ったままで生きて行けるという御赦しがあって自力の執心を持ったままの自力意識が立たなくても信じて生きて行くことが出来るのようになりました
ナンマンダブツ
ナンマンダ

信心は生ものだ

地獄にあって地獄に落ち続けている私。地獄に落ちていることを知らせてもらっているから、そのままの救いがよくわかる。地獄も極楽も、わたしにとってはいつも一緒の現在進行形が身にしみて感じるホントの実感だ。

 念仏もあみだ仏が今、私に称えてくださっている進行形だ。跡形もなく、あっという間に素通りだ。そして、すぐにまたナンマンダがやってくる。現在進行形の念仏だ。ナンマンダブツの念仏だ。

 諸仏もみんな、今の今の説教の活動中だ進行形だ。私たちの信心もいつも現在に信じ続けているという進行中という初事だ。地獄も極楽も信心も往生も念仏も、これがホントに生きている、私にはたらいている信心だ。フレッシュナンマンダブツダだ。
ナンマンダブツのナンマンダ。

人生は苦なの?

人生は苦である。人間は苦の存在である。たまに気休めの楽があるから人間はその間で行ったり来たりするので、人生は楽もあると思って錯覚しているだけだ。実際は、真の現実はみんな一緒に手を取り合って、一斉に生まれた時から地獄に落ちている真っ最中なのだ。平行移動でみんな煩悩の闇に真っ逆さまに落ちているので、自分も落ちていないと思っているだけだ。だから親鸞はこの身の現実を仏の目に照らされて知ったから「地獄一定住処ぞかし」と現実のありのままの、如実知見の真実をそのまま述べただけなのだ。苦しい時もあるが楽しい時もあるなどと、呑気に自我意識的な心境を吐露したのではないのだ。人生は苦であると見抜いた仏様に出会って知ったから、そのありのままのすがたを受け止めただけなのだ。

―人生―

 真実に近づくほど真実から遠ざかる
 真実の愛に近づくほど遠ざかる
 そして、また、近づくほどに遠ざかる
 人間に真実は遠い道、真実からは近い道
 その繰り返しで今まで迷って生きて来たので
 真実との距離感が分かって来たので
 自然に心に猶予余裕が出来て来た

この余裕が迷いを乗り越えなければ人に真実の信など
獲られるものじゃない
いつまでも論理と理論で武装して逡巡しているがいい
自分で自分を許し続けてさらなる深みにはまってく
疑城胎宮でもいいのならそれでもそれは浄土の中で安心だ
そこまでセフティーネットを張ってもらっていながら
そんな中途半端に甘えないで
身も心も全部捨てなくちゃ身も心も棄てて
おられるあみだ様には会うやしない
あみだ様は最初から丸裸何もすべてを
さらけ出し素肌であなたと会いたいと心の
隅までさらけ出しているのにこちらは
正装燕尾服礼装ですまし顔ではあみだ様は困り果て
ナンマンダブツ
ナンマンダ

念仏カラスが今日も地獄へ飛んでいく

 念仏カラスは生まれた時から真っ黒け、いつも、自由に空を飛んでいる
 いつも墨染の衣着て、どんなところにでも着て飛んでゆく
 銀座、パリ、ニューヨーク、田んぼの上を飛ぶときも
 着替えのジーンズや背広やティーシャツなんか持ってない
 着たきりスズメの一張羅。食事の時も、朝から晩まで誰が来てもおんなじだ。
 空を飛んでりゃ同じ衣を着た仲間たち、みんな仲良く集まって
 今日の布教の話し合い、喧々諤々大騒ぎ、だけど何時もみんな仲良く
縄張り決まり、教化活動に飛んでゆく
飛んで行っても下手な活動は致しません。ただ念仏のナンマンダ、
ナンマンダブツのカァカァカァ。これでいいんだナンマンカァ。

 聞いてる方の思考回路は遮断され、ただカァカァだけで
誰が来たかがすぐわかる。鳴いてる意味はわからなくても聞いてるうちに
 そこはかとなく、もの悲しさを感じます。
これでいいのだナンマンカァ、これが真の布教だナンマンカァ、ナンマンカァのカァカァカァ。如来直伝の ナンマンカァに栄光あれ。
念仏カラス万々歳。ナンマンカァのナンマンカァ。

なぜこんなに美しい

 どうして宗教心という美しい心が醜い人間ごときに生まれたのだろうと思うときがあります。
たぶん、それは地中深くうずもれていた石炭が長い年月かかって思い重圧を受け、一番圧力が強かったところだけが綺麗なダイヤの結晶になるようなものかなと思うのです。貴重で希少なダイヤの鉱石ですが、人間が持っているダイヤのような美しく永遠性を兼ね備えた宗教心を発掘し、発見することはダイヤ以上に奇跡なことだと思います。
 「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」(愚禿悲歎述懐和讃)と親鸞は言いましたが、このような人間がもつ悪の限りを尽くしていたら、漆黒のダークサイドの悪性の塊の中から、その闇に耐え切れなくなった悪性から、考えられないような善性を持つホワイトサイドの宗教心が変質的に生み出されてきたと思うのです。
 この世には単独で成り立っているものは何もありません。すべては何者かに支えられ与えられ、まじりあって生きています。そう考えると悪性といえども、その中に善性が少しぐらいこもっていても不思議ではありません。そう考えた方が自然ではないのでしょうか。
 また例えば、硬い蓮の実はまるで石のような硬さです。しかし、その中から,外の環境を敏感に察知して泥を味方に付けた中だからこそ美しい蓮の花を咲かせるようなものだと思うのです。
 この秘密の扉はその中を覗き込むことができた人間にだけに限られた特権かもしれませんが、その特権は普遍的な特権ですから、けっして特殊なものではありません。その中を覗けば仏と何時でもずっと楽しく生きてゆける世界ですが、それは誰にでも与えられるダイヤのように永遠に輝く自由な世界なのです。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
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