仏様から拝まれている

 何かを拝もうとするとき、すでに私たちは神様や仏様から拝まれていると思うのです。
 私達は様々なことをすでに超えてある、100%満足してすべてのものに満足している神仏に願うときがある。そんな願いだらけの私を憐れんで、アミダ様や神様達がその願の全てをかなえてあげようという大いなる願いを先に立てておられる。
 全てに満足するとは、満足していないものすべてを最後まで尽くして満足させなければ永遠の満足が得られないから、どんな願いであれ、その願のもとにある人間の根本の本当の幸せを得たいという願いを求めるものがいる限りその満足が根本的に完成しないからなのでしょう。
 私の底なしの願いの根本をすでにお見通しの仏様の方が先に私を憐れんで拝んでいたと知った時にそれを知ることになり、それが、そのまま私の欲望のはたらきの虚しさを知らされ、救われることになる原因になったと思うからです。
 だから、だれでも拝むときにはすでに拝まれていたから拝もうとする気持ちが神仏に呼びかけられていたからと思うのです。
特にアミダ様はすでに願いの中に私たちがアミダ仏の声を聞くだけで、私たちの願いの根本から全てが満足できるようになっていたのではないのかと思います。
ナンマンダブツ
ナンマンダ

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