ビハーラとは何ですか?

 源信僧都の「往生要集」には、死が迫った人間に起こる様々な愛の姿が描かれています。自体愛(じたいあい)(自分存在が体に対する愛着となって表れる。手をさする、自分の体をなでまわす)。境界愛(きょうがいあい)(家族・財産・地位・名誉に対する愛着)。当生愛(とうしょうあい)(死後に対する不安)。この三愛は死を意識しなくても人間の心に何時でもある愛情という名のこの世と親族に対する普通の感情でしょうが、それを押し進めているのが死後に対する不安だと思います。

ビハーラケアではこれらの不安を取り除くために、例えば「死後にはあなたを愛している家族が待っていると思いますよ。私たちも必ず後から行きますから」と言って慰めたりしているようです。
 しかし、死後にたいして本人が確認してもいないことを、すでに多くの人が往ったのだからと,二度と帰ってこないことをあげて、根拠づけるのは、はなはだ心もとない所業だと思うのです。

 法然上人も「三部経釈」に、この三愛は弥陀の来迎によって滅すべきだと言っていますが、本来は弥陀の本願で平生業成しておくべきだというのでしょう。親鸞に至っては来迎さえ否定していますし、現生での信心獲得こそがこれらにとらわれない人間本来の生き方になり教行信証・化身土・本(p339)に阿弥陀如来の真実の中での人間の自力意識からの変換こそが三愛を日常から駆逐する如来の願心なのだと言っているようです。また、御消息に「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず」とあります。

 ですから現代と言わず、何時の時代でも人間誰にでも備わっている大いなる宗教心に目覚めることが、死を目前にして煩悩や本能によっておこるこれら三愛の不安が消えることはないとしても、その心の底に起こってくる真実の如来の慈悲と智慧いう、大いなる愛情意識に目覚めることによって、誰でもが平生の意識を持ったまま自然な死を、今までに誰にも感じたことのない、真のあたたかな仏に抱かれる感覚を持ったまま、如何に安らかに死を迎え入れることができたことかという歴史的な事実の歴史を今までの人間は無意識のうちに必然的に持っていたのだと思うのです。

 死という人生最大の危機的状況を多くの人間が乗り越えてきた背景には、その時いつでも発動する宗教心という救済手段が、誰にでも備わって、その時には目覚める用意がすでにあるのだという事に、またそれは日常生活の中で誰でもが感ずる、悲しい時でも、苦しい時でも、何時でも気が付く時が用意されてあるのだという宗教心が目覚める時代が、いまここにビハーラケアという死を真剣に迎える覚悟がいる時代がいまここに、我々一人一人に来ているのだという事だとも思うのです。
 ですから、この三愛を発見した覚醒者から見た迷いの世界からの脱出はすでに用意されているという事だと思うのです。つまり信心の中にこそこれらの妄念妄執を断ち切った人からの真実の呼びかけがあってこそ、これらの愛が根本から断ち切られるものではないのかと思うのです。

 ビハーラに携わる人々すべてが、否、人間すべてが。ビハーラを知らなくとも本来持っている、自分自身の危機は自身でケアできる方法があるのだと気が付き、それに目覚めることこそがビハーラの最終目標でもあると思うのです。ビハーラという言葉がなくなった時こそ、真のビハーラが完成した時だと思います。
ナンマンダブツ
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     参考文献   仏教とターミナルケア ――仏の救済をめぐって
大正大学 准教授 曽根宣雄氏  

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