各国原点に返る。

 仏伝は真理を様々なものが相関関係によって物事の現象が休まず動的に調和して成り立っていると縁生の道理をこのようにわかりやすく隣国に玄奘三蔵などが伝承したが、この道理に相当する伝統的な言語がなくて「空・無我」などと、一見統一された思想言語のようになったが、空に対する実。無我に対する有我と逆に本来の生きた縁起の道理の神髄が見失しなわれていったことは否めないと思うのです。

 ブッダの仏も、覚者としてではなく単に人がム(無)い、などと当て字もここに極まったのである。しかし、その困難を善導などが、人間の原点である宗教心に目覚め中国独自の浄土教や禅門になって巷間されたのである。

 言語が違えば自ずとその指し示す世界がことなってくるのだが、日本の法然・親鸞はブッダの縁起をアミダの思想に一旦変換して、その精髄を換骨奪胎して念仏一つに人間本来の精神的な本来性にいつでも回帰できるような念仏言語の創設によって躍動性を消し失わずして、いつの時代でもブッダの悟りと同質の浄土という縁起空間の自覚をこれによって開き、人間回復の言語的なルネッサンス運動としたのである。
なんまんだ。

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