なんまんだぶつとしてあるもの。

 宗教の時間は常に永遠無限として偏在するものとして存在している。法蔵の五劫思惟もあみだの不可思思議も48願も普遍的な世界を表しているから命あるものの前に常に実在しているものだ。

 アミダの十劫成仏も、私が宗教心に目覚めたところに宗教的に実在するものなのだ。しかも、それは自覚する命の時空のなかに偏在する真理の縁起のはたらきの中にいる自覚なのだ。はるか遠いあみだの成仏もいまここに開かれれば常住の真理として誰にでも開かれてくるものなのだ。

 過去も未来も現在の中に包含されている我であり、その救いのなんまんぶつとともに、ここに存在の自由さえも開かれてくるものとしてあるようになるのだ。

 それらは、すでにその我々の真実の世界の構造が経典に表されている大いなる物語として我らの小さな物語を支えている存在としてあったのである。 

 その意味で我らはすでにあみだ浄土の一住民として未来を今に生きている存在でもあるのだ。
なんまんだぶつ。なんまんだ。

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