ものあわれと悟りと信心。

 「もののあわれ」とは物と事が自然に刻々変化する川の流れのように変化してゆく姿を正しく諦観した真実のとらえ方や認識を言うのだろう。

 変化しては壊れ、また生成消滅されてゆく変化の中に、それを主催しているともいうべき主体を仏の命の流れと観た人たちがいたのである。

 仏の命の流れとは、かくもダイナミックな様相を呈していることへの驚嘆と畏敬の念、その真実を体得し覚悟し信心することができること。

 それを正しく見定めるためには常に不動の澪標の如き道標を心中にとらえておかねばならなかったのである。

 もののあわれとは一言で言えば宗教心とか、まことのこころとか真心であり、それを体得していたのは禅僧であり念仏者や一部の学者たちではあったが、なにも、それだけではなく、平安の女官たちは何の学問教養や悟りがましき事を言わずとも、多くの女性や生女房たちと共にそれらを心の常識として自然に信じ、生きていたのである。

 それを平安の女官たちは漢学に囚われた高官の男学者たちに皆無だったので、面白くも哀れと驚いていた時代も日本の中世にはあったのである。

 現代も漢魂(からごころ)ならぬ西洋魂(ようごころ)をもった洋学者というインテリが闊歩してやまぬ今と聊かも変わらぬ様相を呈しているのを嘆いているのは、いつも健康な常識を持っている大和なでしこ達なのである。

 日本人は現代も海の外から押し寄せてくる思想と対峙してゆかねばならない辛い民族なのである。と言った小林秀雄の言葉は今も生きているのである。(小林秀雄参照)
なんまんだぶつ。

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