カラスの独り言

アミダ様はそれでも命がけで救います

 日本には八百万の神様がいる。学問の神様、川の神、山の神、岩の神、雨や雷の神、太陽の神、建築の神様は聖徳太子だという。それぞれの分野の神様と出会って仲良くしたり、いじわるされたり、生かされ、諭され、何とか日本人はやって来たらしい。
 アミダ様も同じ事。いつまでも会えないままでいる人もいる。たった五歳ぐらいでアミダ様に出会った子供もいるらしい。生涯求めても、つれなく袖にされる人もいるだろう。それぞれの出会いがあったとしても、やはり、アミダ様がみんなを救うと言っても一度に全部一派一絡げとはいくまいに。やはり一人一人の仏縁精進次第なのだろう。
 如何に万能の本願だとて何世もかけて一人一人を育てて救うほかに救うも手立てはないのだろう。そして無量寿が尽きるまで、永遠の課題を背負い続けていくのだろう。

なんまんだぶつ
なんまんだ

この世は慈悲の世界に包まれて

 ブッタはこの世界は仏の愛に満ちていると悟ったのだ。慈悲の世界に包まれている世界に一人一人が生まれたのだと愛の世界を開く智慧を与えられて覚ったのだ。
 この世界は慈悲の世界に包まれて存在している。言葉にすればそれだけのことだが、現実世界と言われる今の我々を包んでいる世界のことを現している。この世界を自我意識で理解するから真実の慈悲で繋がれている世界が見えてこないだけで真実と言う現実の世界を見ることが出来る心のまなこを開けば誰にでも見えてくる真実の世界なのである。その世界を見る目の働きを智慧のまなこと言い、その慈悲に包まれた優しい世界を見ることが出来るまなこと慈悲世界とのつながることのできる世界の根源を理解できる広場を信心ともいうのである。

なんまんだぶつ
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吾と我

第一願の法蔵の仏願に三悪道に落ちるものなしとあるが、これは私がこの世界に落ちている時には私の主体である浄土を完全に亡失していることを現しているのではないのか。つまり、その時の主体は三悪道であり、浄土ではなくなっている世界を現している。しかし、浄土は普遍的な存在世界であるから一時的に忘れていても完全な亡失ではない。浄土を主体としたとき三悪道に落ちている主体も我であるが真の吾の主体である。我ともいうべき浄土世界から見れば真吾浄土に包まれた世界になるので、この第一願も48願全体も人間の自己内における精神的段階的な完成への心の様相を表現しているものだと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

一人の本願がみんなのものになる

 浄土を願うもののこころは宗教心善心から起こるからだ。五逆誹謗正法は自我悪心から起こる。共に一人の心の中に起こる事象である。一人の人の心の中の真実と虚偽の心である。
 全身善心や全身悪心を持った共命鳥の人間がどこかにいるのではない。私の心の中に実存在している事実である。
 この二つの心が一人の人の心の中で、それぞれのその存在感の働きを主張してバラバラに動いているのである。この二つの主張を統一したのがアミダの本願なのである。
 この本来対立軸にあるように見える二つが言葉にはできない真実一如が本来調和統合させようとする不思議な力によって対立したまま同じ道を歩んで行けるように道筋がつけられたのが18願から派生した主要な五願の解決方法なのである。善心は善心を輝かすためには悪心が必要になり、その逆も二つして新たな第一歩を、それぞれの人の18願の新たなる歩みとして成立することにより、一人一人の本願成就によって総合的で表象されている18願が個々人において成立することが総合的な本願の歴史的証明につながってゆくのである。
 この二つの心が共存する平和な世界が個人に存在することによって、この調和的な関係が終われば真実一如の世界に再び包まれることになるのである。無量寿無量光を全身で実体験が全員出来る日が来るのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

死ぬことが怖くない生き方

親とか子どもが困っていたら親でも子でも死んでもいいと言えるような、相手の苦しみを取るために、わが身を捨てることがいいことだと思える時がよくある。ここで死んだらもう二度と親に会えない事だと知りながら相手の苦悩を無くしたい一心が起こってくることは、仏の慈悲の心が芽生えて慎重に自分に死を選んだ人間の最後の自利利他の宗教心の心が本来の人間の誰にでも備わっているものだと思うのである。親と子であっても、夫婦であっても個人と国の関係であっても、一人の人間の心の中にはすでに生まれた時から育っている静かで自然な心だろうと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

「除く」とは

 私の中の宗教心的精神界には五逆誹謗はないというのが正しい在り方であろう。しかし、それが、そこに混じっていたら純粋な宗教心としてのはたらきが出来なくなるのではないのか。本来の目的が全ての衆生を救うというのであれば、特別な救済枠などと言うものを造らねばならなくなり、純粋さが保たれなくなる。すべての者を救う慈悲と智慧が充分に用かなくなる。
「除く」はそれを完全否定するものであるが、私の中には存在し続けるものであり純粋な精神界宗教心を保つための主体がなければ十分機能しないし、それまでは、それぞれが混乱してどちらが主体なのかが判然としてこなかったものがここで完全に分離されることによってはじめて五逆誹謗正法に正しい居場所が確保されることになったのである。この時点で煩悩が煩悩の能力を十分に発揮できるように与えられ宗教心も同じく本来の個性が輝きだしてくるようになったのである。
 この除くという宗教心の分離と独立のはたらきという独立宣言によって二つのものが一つに統合され完全矛盾の自己統一の世界が初めて人間に与えられることになったのである。本来の人間の主体がどちらに当たっているのかが判然としたのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

やっと、何もできないただのジジイになってきた

 年を取ったせいか、最近はテレビを見てやたら批評などしなくなった。昔は右とか左とか偏っていたような気がするが、近ごろは右も左もどちらの側の意見を聞いても、相手を批判する側がどちらも嫌いになってきた。
 中立とか、超越とかではなく、どちらもよくないし、どちらも悪くないという中道の精神に近くなってきたのではないかと思うようになってきた。
 ここまで来るには歳と言うものが深く関係しているのではないのかと思っている。聖徳太子ではないが「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ」という、ただ、ただ、仏の助けがなければ何もできない、ただの凡人(ただびと)にやっとなって来たからなのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

永久歯

 乳歯が永久歯に生え変わる。仏様の話を子供は素直に聞くから、そんなに丈夫な歯はいらないし、それほど仏に噛みつく丈夫な歯はいらないな。
 それでも仏法を理解できないときは仏の教えを細かくかみ砕く丈夫な歯が必要だ。仏に刃向かうほどの、永遠に戦いを挑むほどの丈夫な歯が必要だ。
大きくなったらガリガリ音を立ててかみつくほどの歯が必要だ。我利、我利、我利、我利我ぁー利我利。そのうちいくら歯を立てても齧れないあみだ様の御身体。アミダ様の方から五逆誹謗の甘齧り。
 それで己の歯がみんな欠け、フガフガモガモガそれでも入れ歯でまだ齧る。それでやっとあみだ様の教えが丸呑みできる。一体、歯があった方がよかったのか、どうなのか。歯は一体誰の為に生えるのか、全部抜けてみたらわかります。それでも小賢しい人間は、入れ歯を作ってもうひと踏ん張りするから、阿弥陀様もご老体を助けがたいと困っている。自然のままで素直に阿弥陀様に齧り取られればすむはずの事。
 赤ちゃんの時に最初はみんな歯なんか生えてなかったはずなのに。生きてる限りに源は仏様に体撞く永久歯は抜けないな。これであみだ様も、こちらも困る厄介者だ。
 だけどこれがなければ、どちらも出会えぬ永遠に。この歯のおかげで、人間は仏様の智慧と慈悲の深さが分かります。学佛大悲心。おかげ様だよ永久歯。取るに取られぬ永久歯。

なんまんだぶつ
なんまんだ

 高上りの優越感に浸っていると、自分が引き落とした人に、いつどこで引き落とされるのか戦々恐々の不安が絶えず夢にまで襲ってくるのだろう。高く上がれば上るほど。多くの敵と戦って負けてしまった相手に叶わないと劣等感に襲われて生きていると、いつでも相手の足を引っ張っていたいと思っているけれど、何時も足蹴にされているような生き方を夢にまで見る。
 優越感は仏教の増上慢、劣等感は卑下慢でどちらも己だけを善と良しとする慢心に違いない。どちらも結局は人間の根本的な苦悩の一つに違いない。
 それに気が付かせてくれるのが慈悲と智慧の仏様。その二つの光に照らされてあ―あ、いまのは卑下だ増上だと気が付けば、もうそれだけで気が晴れる。そしたら、もうどうにでもなりやがれ、と念仏におまかせすれば、心晴れやかナンマンダになるだろう。

なんまんだぶつ
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絶体絶命の命

 絶体絶命の命とは誰の命かと思った。必ず命がなくなる時だと思っても、まだ命はあるのだろう。しかし、命がもうないと本当に感じられたらもう先のことも後のこともなくなるのだろう。もう無いと思ったら何も考えられなくなるのだろう。そう思った時、人の心に現れるのは今まで忘れていた心がよみがえってくるのだという。その中には今まで忘れていた仏の心も含まれてくるのだろう。それが人間の心の仕組みらしい。走馬灯のように現れる一瞬の自分の人生を見ている心は仏のような平等な心だと思う。その人間の本当の命の命は今まで信じられないと絶体絶命だと思った心を支えてきた仏の心なのかもしれない。そんな仏のような平等な命に目覚めるために人間は何度も何度も絶体絶命の命を質に出していたのかもしれないと思った。

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