吾と我

第一願の法蔵の仏願に三悪道に落ちるものなしとあるが、これは私がこの世界に落ちている時には私の主体である浄土を完全に亡失していることを現しているのではないのか。つまり、その時の主体は三悪道であり、浄土ではなくなっている世界を現している。しかし、浄土は普遍的な存在世界であるから一時的に忘れていても完全な亡失ではない。浄土を主体としたとき三悪道に落ちている主体も我であるが真の吾の主体である。我ともいうべき浄土世界から見れば真吾浄土に包まれた世界になるので、この第一願も48願全体も人間の自己内における精神的段階的な完成への心の様相を表現しているものだと思うのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

name
email
url
comment

NEW ENTRIES
命の目覚め。(04.23)
死後まで守ってくれる人。(03.25)
石に聞く。(03.21)
動詞と助詞の使い方。(03.16)
一人称の死を超え生きる。(03.15)
悠久の真理の中で生きたいな。(03.12)
この世に成功も失敗もない。いかに歩んだかだけである。(03.12)
如来内存在。(03.10)
さくら咲く。(03.04)
自助努力。(03.03)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS