カラスの独り言

名もない花

 名も知らない野生の花。経験してきたことから、それにふさわしいと思った名前を新しくつけて呼ぶようになる。それにふさわしくないと思ったら別の名前にする。花が先に在って名前が後でつく。名前が付いているからと言ってその花の全てがそこに表されているわけではない。絶え間ない環境によって常に変化しているからだ。
 無量寿・無量光の阿弥陀仏がすでに存在している。もとは真如一実からこの世にアミダや法蔵菩薩となって地上に降りて来たものだと後からわかった。
 そこはただの無でもなく空でもなく、見えない命そのもののはたらきで、そこから見える命もみな生み出しているというところだ。そして、いまもそこに皆包まれて生きている。全ての命を生み出す命の母のような存在だ。
それを人はみな、その存在にふれて様々な言葉でアミダブツと言ったり、国によって言葉が違ったりしているが、みな同じ存在なのだ。アミダの存在にふれたことのある人と、その名前だけを知識として知って、その存在にふれたことのない人がこの世にはいる。
 自らを包む、わが命の根源的躍動をアミダ念仏と名付け、そこに全ての命の存在の根源を見る。そこにつつまれ呼ばれみな還ることを知ってアミダの生きた存在をアミダと言う名で名付けたのだ。
 だから名前を知識として知っている事と、その存在の命のはたらきに触れてそれを信じることとは密接な関係があるが、違う世界をさしていることもある。

なんまんだぶつ
なんまんだ

汝一心にして直ちに来たれ

汝と名指しされた人は一般の人ではない。この言葉にふれた人、その人に限られるのである。主観的にこれを読まなければ宗教書はすべて意味がないように、私のことであったと聞くことが大事だ。何時とは私の名前を単に、アミダ様がひょっとしたら、いつの時には、一回ぐらいは興味本位でもいいから耳を傾けてくれるかもしれないという呼びかけではない。私、釋是深の全存在を丸ごと指した言葉になったアミダ様の呼びかけなのである。しかも、そこには人間に通底している、救われ難い心を持ったまま救うという宗教心の発露でもあるのである。私一人の孤児と全人類全生命の過去と現在と未来を迷い続けて来た魂の共済への目覚めを促しているのである。弥陀の本願以外の方法では救われないと見限っての真実のはたらき掛けであるところからの私個人への呼びかけとなっていると言ってもいいのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

悠久の今

一日一日を大切に生きる。今を精一杯生きればそれでいいという。
今を充実して生きるというけれど、その今が今から今へと続いてゆくだけじゃあ、それなりの蓄積の結果は何かしら得られるだろうが、ただ単に質的な転換もなくだらだらと続いてゆくような気がしないでもないのです。
 今とは何だろうか。本当の今とは何か。今が本当の今になっていたら今の連続でわなしに、一瞬の今だけでもいいような気がするのです。
 本当の今は今の中に永遠に変わらぬ今と言うものを持っていないと刹那的な今の連続になってしまうのではないのか。だから変わらぬ永遠から与えられたような今になっていれば今を継続しなくてもいいのではないのか。だから永遠の今から与えられている今だといいはずだ。永遠の悠久の今の中にいる感じの今なら本当の今に安住できるのではないのか。私に与えられた今を自分の力で、悠久の今に生きている今にするのは大変だけど、仏様に与えられ、教えられ、育てられれば、一瞬か、長い時間がかかっても誰にでも与えてくれる時が来るのだと信じます。そうでなければ今の今と言っても、7言葉だけで悠久の時に抱かれ、与えられた今の時を今、十分に味わうことが出来ないように思います。
すでにみんなその中で生きていることに気が付くことが大事だと思います。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

存在証明になっている

家と言う字がある。この字を見ただけで家の姿が彷彿してくる。白い家。家の造り。用途や寿命まで心に浮かんでくる。
字となった言葉には人間にとってその名前があることがすでにそこに実際の者が存在していることと同じだ。名前の付いている者はすべて存在しているものの名前なのだろう。阿弥陀仏も名前が付いているからには、その姿とかはたらきとか、救われた人々がすでに何世紀にもわたっていたからこそ限りない命の仏、とか限りない光の仏と言う実在の仏として証明され名付けられていたのだろう。
名前がすでにそのものの存在証明でもある。

なんまんだぶつ
なんまんだ

三千大千世界の宇宙の中で

 三千大千世界に鳴り響く大音響のミダの声
お前の悲しみ持ってこい、お前の苦しみ持ってこい
お前の人生皆引き受けたとのお呼び声
そんな十方諸仏大声援も混じったミダの呼び声に
耳の穴にも鼻の穴にも口の穴にも皮膚の
穴と言う穴にまで蓋をして、耳栓していたました
それが一瞬、体の中からの声もみな聞こえなくなって
突然体中の耳栓みんな中から飛び出して
宇宙のかなたに飛び散った
今じゃ大大大大大音響のミダの呼び声
全身の穴と言う穴に響くように聞こえます
大雅楽のオーケストラの音が全身の毛穴の中まで響きます
大雅楽の空の上でミダの雅楽に合わせてお空上で果てしなく
舞ってます
ナンマンダブツに楽しく弄ばれて 
ナンマンダブツに吹き流されて
今じゃ一緒にナンマンダブツに溶け混じり
どっちがどっちナンマンダ

なんまんだぶつ
なんまんだ

本願修復

 
 人間国宝になった人や文化勲章クラスの、いわゆる名人の域に達した人達は用途に応じた数々の道具を持っていることが多い。画家の絵の具の種類の多さ,書家の筆の多さ。建具などの道具の多さにも驚かされる。大工は自分の手に会った手作りの道具。仏教学者などの書籍も図書館ぐらいの人までいる。
 その道具を場面、場面で器用に使いこなしている姿には驚かされる。
 その点、お念仏は完成品としての姿はたった一つだが、それまで本願と言われるものは諸々の願いと言う道具が下支えしているし、それ以前に法蔵菩薩が種々の下積みの修行をして、如何に多くの人が完全に簡単に素早く救えるかを基礎研究しているのだ。
職人も一つの作品を仕上げる動作は極めてスムーズな流れだが、一つ一つの作品を仕上げるためには、一つ一つの素材の性質を見極めながらなので、その度に一期一会なのだろう。
 道具が多くなるという事は製品の精度が上がり、多種多様な処理が可能になるという事だ。
 お念仏も、それまでに多くの人々が感動し、懺悔し、幾度も救済を与えてきたことかと思うが、人間もただ単に類型的な人間ばかりではなかったので、アミダ様の本願もその度毎に新しい本願を今日まで追加建立してきたのだと思うのです。ですから、これからも新しい環境が生まれ、新人類が生まれたならば、やはり、それに沿った本願が修復され新たに建立し加願され、救済もその制度を増し洗練され、さらなる躍動的で包括的になってゆくのだと思います。
 それに伴い、さらに本願の本源が純化され精緻になってゆくのでしょう。
 職人の道具の刃がますます研ぎ澄まされることによってその道具に輝きが増し、職人が真新しい道具を発明することによって、さらに新しい製品を作ることが出来てくるように本願も日々新たに修復増願しさらに清浄純化されてゆく事でしょう。

なんまんだぶつ
なんまんだ

てめえの人生はやく削除しろ

 消したいものが山ほどあるよ。嫌いな食べ物、嫌いな人に、嫌いな親に嫌いな妻や夫。情け容赦のない社会や上司に会社や仕事。嫌いな思想や嫌いな先生先輩嫌いな腸内悪玉細菌、嫌いなものばかりに取り巻かれ、自分自身のその一つ。思えば嫌いなものの渦の中に生きて、よくぞ今までその中に巻き込まれずに生きてきた。削除してよ、削除して。そんな削除のキーはどこにある
 削除完了した後は、好きなものに囲まれた人生暮らしになるに違いない。そして嫌いなものは次々削除して、綺麗いで、清らかで美しく清純なものだけに囲まれて、私を笑顔で待っている人々に囲まれて過ごしたい。
 私が望むものがいつでもどこでも手に入り、毎日の夢の中でも手に入る。そんな嫌なものが全て削除済みの世界に一度は生きてみたいな済んでみたいな。これが出来るのは、自分で人生早く削除するしかなさそうだ。あるいは、あみだ様に削除キーを速やかに押してもらうしかなさそうだ。煩悩だけでも削除してもらったら、こんな理想世界に住めそうだ。こんな理想世界が生きてるときに手に入らないのなら、あみだ様にもできないならば、手前でてめえの人生全削除するしか外にない。てめえの人生てめえで削除するしか法はない。だけど出来るなら、生きてるときにそんな理想の世界を一度この眼で見てみたい。

なんまんだぶつ
なんまんだ

念仏マラソン

 信心を獲ると踊躍歓喜することは念仏マラソンで途中給水するようなものだ。ともすれば、その水が甘露水と喜びすぎて給油所に何時までも止まるランナーもいるらしい。そこに留まれば後からくる走者をみてまだ来ないと傲慢になったり嘲ったり、近くまでくれば焦る気持ちが隠せなくなってくる。先に走っている人を見れば自分を卑下したりする喜びの増上慢が待っている。どちらも喜びの慢心の殻の中に留まって先に進めなくなっている自己愛への罰のようなものだ。
 おいしい水の味を覚えたまま急いで自己自身の探求でもある念仏レースに戻って真実信心の謎を一人一人が解明する道を歩まねばならないのでしょう。
 親鸞聖人も蓮師もうれしさを袖に包み頬を赤らめながらも如来の恩徳報恩の為にと念仏レースの意義を教行信証に二回向として顕され、後世の我らの為になるお仕事をされたのである。一人一人の念仏レースを途中で放棄することは恩徳に背くさらなる五逆の重罪にもなりましょう。後世の先人はこれを喜びが怖いと言いました。

なんまんだぶつ
なんまんだ

人類の忘れ物

 
 素朴に思うんだけど、どうしてアミダ様は信心という宝物を険しい洞窟の奧に隠すようなことをしたのだろう。命あるものがみんな生まれた時から信心獲得状態で生まれてきたら、こんな余計な気苦労や修行のようなものや聴聞なんてしなくても済んだはずなのにと思うのです。
 信心が険しい人跡未踏の洞窟の奥のような所にあるから、行ける人には手に入れることが出来るし、行けない人は一生かかっても取りにもいかない、いけないという事が起こるのでしょう。
それを合理的に速やかに取得するための英才教育として、それを、教える人や学ぶ人や、果ては幼稚園から小中一貫の専門学校までできてしまいました。もうそうなると信心獲得が商業化してしまい、仏書も寺も資格を取ったり、継承したりで大変になってしまいました。
 だから、最初から信心が備わって生まれてくれば、宗教なんていらないし、専門学校や仏典などもいらないし、みんな肩ひじを張らなくても、みんな仲良くやって行けたと思うんですよ。
だって、もともと広開浄土門というなら、最初から持っているなら出しておいて生まれてくるように仕掛けておいて欲しかったなあと思います。
 しかし、まあ、こうなったのも、きっと生きることにのみに精を出してきた人類の魂の黒歴史の性ではないかと思います。
その結果、不要不急の長物となったのがこの信心と言う宗教心だったのかもしれません。だから、信心を最近得ることは、今までの人類が獲得してきた強欲な三毒五欲と言われる地獄的な欲望の根源無明の無痴の盲目的な意思と戦って勝ち得たものかもしれません。各自の中にある自分自身のものとなってこびりついている人類の欲業との対決になっていたのでしょう。
だから、最近、信心宗教心を獲得するという事は、剣呑な暗黒の洞窟の中へたった一人で旅する冒険的で奇特な旅路になってきてしまっているから、希望者が激減してきて来たのかもしれません。

なんまんだぶつ
なんまんだ

二つの力を持つ阿弥陀仏

 善人も悪人も人類全員地獄行。生きている時に全員、神や仏に反逆の悪を犯すから。善人と言われる人でさえ相対的に少ないだけで必ず悪をなして生きている。懺悔慚愧をしても繰り返して悪をなす。どんな神や仏が異様とも死後に必ず裁きが待っている。だから心にやましい人だらけ。だから死ぬのが怖いのは、どこに連れていかれるのか知らないからに違いない。
 こんなものは全員地獄の閻魔の前の浄玻璃の鏡の前で御裁きだ。善人悪人もお裁きだ。「悪人こそ救われる」と言った親鸞の悪人も浄土にはすぐにはいけないお裁きだ。
 鏡に映し出された真実は只「はい、はい、そうです」と認めるばかりの全悪人の証拠がドッサリ。
 ご都合次第で善をなし悪をなす。ご都合次第で悪をなし、善をなす。こんな善悪は嘘っぱち。その元を見たら全部自分の欲から出たご都合主義の虚偽だらけ。そしたら、私と言う人間は上から下から悪の塊でしたと言うほかないと認めざるを得ない地獄絵図。
 そこで初めてアミダ仏に自己全否定されて、全肯定されて、この世の善悪超えて、ただの慚愧歓喜の凡夫になって救われる世界が開けてくるのだろう。
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