命あるものみんな形は違っていても、みんな仏の心を持っている。しかし、その宗教心のツボの内側に引抜かないと開かない疑う蓋が張り付いている。46億年の昔からあるツボだけど、この鍵を持っているのはあみだ様だけだとお経に書いてある。
だから、誰でもそのカギを求めて開けようとしているけれど、あみだ様に頼んで開けてもらわないと開きません。そしたら本当の自分の姿と心を知らされて、やっと心がフル100%機能する。そこから初めて十全な人らしい生活始まって、生死の迷いを超えて過ごせるようになりまする。幸せの鍵を探しに出掛けよう。
すでに、ここに在るけれど、探しに行こうよ、どこまでも力の尽きるところまで。
なまんだぶつ
なんまんだ
科学的知識意識は無知です
哲学的学説は何も知りません
宗教学の教義も何も覚えられません
勿論、社会的常識にも欠如しています
このように人から言われているので間違いありません
これだけ常識から外れて生きていると
家庭もうまくいきません
これだけ無知蒙昧な私だからこそ、開き直って
逆に、無知の裏側に最初から近づいていたのではないかと思うのです
無知の反対が本物の有知ならば、何もなくなってゆくようで、そのまま自然に空っぽの世界に入れば、そこに何でも入ってくるような気もします。
そうすれば、この愚かな心と体にもっと大きな幸せや喜びを与えてやれそうな気がします。
この年になっても、まだそれが出来ないのは、きっと天の配剤でここにいて、もっと苦しみ悩み無知を味わえと言う事なのだろう。そう思うと悲しくなってくる。アミダ様に願掛けて、どうか本物で完全な無知即有智の身になって、豊かな人生を送れるようにと毎日祈っている昨日今日の私です。
なんまんだぶつ
なんまんだ
三悪道とか極楽とか地獄という多くの仏教の言葉が多くあるが、全て仏様が言った言葉だ。我々がその中にいても、それに気が付かずに人間がつくった言葉だと思って使っている。だから、これらの仏言葉に籠っている智慧とか慈悲に代表される真実の心が伴わなければ、いよいよ観念的な仏教になって行くのだと思う。
いわゆる宗教的な感動を持って、はじめて見えて聞こえてくる世界がある。だからと言って最初から何もするなと言うわけではない。仏語そのものが、その人を生きてはたらく世界にいずれ導くという事だ。
このような視点を持って語られる時、そこに自らの宗教的な体験がにじみ出て来て、理論や概念を超えた純粋な真如の純粋な理論や概念の世界が自然に表れてくるのだと思う。そこではじめて、それを聞く人が、その言葉の自然のリズムに載せられた真実味と言うものが限りなく伝わって行くのだと思うのです。
なんまんだぶつ
なんまんだ
ネイティブアメリカンの言葉に「動物のほうが何でも知っている」と言う言葉がある。虫も取りも魚も人間の知らない自然の法則に従った生き方を知っているということなんだろう。
音や文字に色彩を感じることが出来る共感覚がそれらにあるとしたら、念仏をそれらにすれば、なんて素敵な響きと色彩なんでしょうと思っているのかもしれない。
サボテンや動物や酒樽や味噌樽にモーツアルトを聞かせたら美味いものが出来たという人に、味噌やサボテンに耳があるのかと言った人がいたが、花の花は耳だという話も聞いたことがある。どうもあるらしいのである。人間にも勿論、多くの人にその感覚があるらしいが、人間もいずれ、七色に輝く念仏の色彩を備えたお念仏に酔いしれる時が来るのかもしれない、詩人たちにもこんな感覚があるのだろうか。
科学が細分化しない所では、今でも知られざる科学しないままの素晴らしい世界が生き生きと生きてあるのだろう。
なんまんだぶつ
なんまんだ
宗教心や信心とか信仰とは命あるものが持っている最終兵器かもしれません。命あるものはみな持っているが、ことに人間には必要不可欠のものだったかもしれません。
その証拠に、人生の苦とか危機になった時にしか、その能力が発揮されない。それが命の存在の極みである死において、それが完結するようになっている信心とかは人間における生の苦に対する最終兵器だからだ。これがないと死と言う苦も乗り越えられないようになっているからだ。これが人類や生命の全てに生きてあることは生命の根本にある本当の命を維持するための共通した生命の真理の用きから獲得した永遠の真理なのだからであろう。しかし、この兵器も生きている時には役に立つが、死んでからは何の役にも立たなくなるのだろう。こんな兵器はもとからなくてもよかったのだから。
だけど、なければないで何時も困るのは人間なのだから、生きている時に充分活躍してもらはないと一番生き死にする心が一番困るのだろう。
なんまんだぶつ
なんまんだ
立ち往生している悲しい人。成仏した辛い人。仏に成って別れる人。死を寂しく迎える人。みんな生きていくことを基準として生を悲しい終着駅のように考えているようだ。
しかし、仏教は生まれ生きることも大事だが、その人の死をもって法要を勤めているようだ。親鸞や仏教の思想では死を持って完全な仏に成る事だ。しがない人生の完結なら、そこから仏に成って更なる慈悲行を遂行する門出になっている。
生を完璧に充足すると、死さえも仏に成る門出となるようだ。その死が究極の仏への完成する生になっていないと死を生からの別れと考えるようになる。仏の道を知らない生ならば、なおさら死ほど怖いものはないはずだ。
死が来ても生の完成になっており、さらなる人間の高みである真実一如の自由自在のナンマンダブツになるときと思えば、この肉体にも少しは感謝の言葉も出てくるのだろう。
なんまんだぶつ
なんまんだ
一升瓶の水がカラにならないと次の水が入らない。この話を聞いて、ああ、そうだなと思う人は多いだろう。だけど実際にビンに水を入れて出して、また入れてみた人はいないだろう。
仏を疑う事も疑いの栓を抜かないと水そのものも出せないのだ。アミダ様に栓を取ってもらうと言うことは一体どういうことなのか。
信心も目に見える行動をとらないと、どうしても自分の頭の中だけや、相手の言葉を自分の頭の中で検討しているだけで、アミダ様の法を見ないから増々、離れていくのでしょう。
ビンの中にある、もう役に立たなくて腐れて来た今までの知識や信仰経験はもう腐ってきているからパンク寸前だから苦しくなっている。
分からん、分からん自分の頭では理解不能というけれど、アミダ様はそのビンの中の腐敗した苦しさ臭さを知っていて、私に栓を抜かせてくれと言っているだけなのに。その線が抜けないように中から必死に抑えているのが今の知識をただ誇って積み上げている自分がここに誇っているだけだ。
栓が取られたらもぬけの殻になってしまい、もう、この世では生きていけぬと、うすうす恐怖を持って知っているから、丸裸、子供にもう一度帰れと言われても、裸になれと言われても、なかなかなかなか、出来ません。
だけど今のそのままじゃあ、カエルのお腹に知識の空気がいっぱい入りすぎ、このままではやがてパ―ンと破裂してしまいそう。
だから、もう苦しいのだからその栓を握っている心の手を放すしかその方法はありません。
極重悪人無他方便は、もう手も足も出ません、だけどそれでよかった、助かったと言う敗北と共に人間の真の勝利宣言でありまして。それが阿弥陀様の勝利宣言本願成就であるとともに完全な凡夫になった凡夫の完全勝利宣言と全く一緒の両勝ち組の出来上がり。
これを信心成就とも本願成就と申します。
無量無限のアミダ様、ずっと私一人を我が子、我が事と思い、勝を今までずっと私に譲ってくれていたことが、負けて初めて、仏の位を人生はじめて負けて勝を譲ってくれたことに気が付くときがある。
なんまんだぶつ
なんまんだ
アミダさんは表のプラスも裏のマイナスもない全部プラスオーラで出来ている。
マイナスを皆吸い付けて、相手が生きやすいようにプラスとマイナスを与えてる。だけど、もともと、全部の面がプラス出てきている。生き抜くために、相手を見分けて生き抜くために、泣く泣くマイナスの面を悲しいけれど与えてる。
アミダ様そんなプラマイ持った私たちを、もとに帰れと呼んでいる。それを表面では知らないで、心の底では無意識に知っていて。それを自ら知らずにマイナスを隠してプラスオーラ前面の私が阿弥陀様に近づけば、プラスとプラスでがっつんこ、こっちの方が反発して飛び跳ねる。
ひっくり返される。プラスとプラスじゃ無理なこと。要塞堅固な自力の砦、頑張る賢い意思意欲が強い人ほどなかなか自力意識の反発力が強くて阿弥陀様には近づけない。
アミダ様に、これこの通りと自力自慢が邪魔をする。何もいらんと言ってくださっている言葉が聞こえない。アミダ様の心が全面プラスで素直過ぎて聞こえない。
自分の力でアミダ様に挑んでひっくり返そうと、ふん、ふん分かった、今日はここまでにしといてあげる日を今日まで伸ばし、こんな意識の持ち主でさえも、いざ病気や、身内の不幸で無常の風に誘われて「自ら頼む最後のよりどころ意思意欲力」トボトボ、アミダのもとに近づけば、こっちの力が弱くなった途端にひっくり返されてこっちの方から、あっちの方からぴったんこ。
病気や不幸が仏の策励だ、浄土意識へのお誘いだったと方向転換するときがある。私のマイナス面が阿弥陀様の協力プラスとぴったんこ。そうすれば、今まで協力に働いていた私のプラスが、逆効果、アミダ様の正義のプラスにほだされて、今までの自力のプラスが、正しいプラスの力強いエネルギーになって、この世で決して仏になれはしないけど、あの世での成仏決定し。
この世では本物の慈悲や智慧を借りてこの身からはたらき出してオーラを発揮しだします。オラオラおらおらナンマンダ
なんまんだぶつ
なんまんだ
近世、宗教は科学でないという。合理的でないという。それでは合理的とは計量できるもの同士の関係存在によって明らかにされるものだろう。しかし、計算できる限界を調べてみれば、測るものと測られるものとにそれほど正確な基準があるのであろうか。疑問である。どこまで行っても測られないものによって測って行こうとするところに、この限界があるのではないのか。この限界点に立ち止まった時はじめてすべてを図ってよいという許可を科学の神様ミューズに得て後に、自然にその限界を超えて謙虚に、非合理性と合理性を超えた真実に合理的な宗教の必然性、必要性を感じてきたのではないのか。そこに気が付いた人を、その領域を超えて、真実の人、神の子、仏の子として、そて、全ての人間が生きて行く道が開けてきたのではないのか。
なんまんだぶつ
なんまんだ
誰でも命の時計は持っている
寿命が尽きれば止まる個人時計を持っている
ハイ、スタートから、ハイそれまでよと
体の時を均等に打っている
誰でも時計を持っている。
体の時計と反対に心が刻むリズム時計を持っている。
ハイスタ―トは変わらないけど、みんなの心の変化を
平等に刻んでいる仏様の無量の心の時計が動いている
二つの時計があるけれど、二つが一つになれない訳は
時を刻むタイミングが違うから
心の時計は人生はいスタートから一秒も動かない
だけど、あるキッカケで動き出す
動き出したら体の時計より時を刻むことが大様で
仏様の命の時計と同調し、体内時計のように
その人の心の中て永久に回り出す
だから、この体が滅んでもいついつまでも回り続けて時刻
む
そのチクタクチクタクの音がやがて皆にはナンマンダブツ
と聞こえだす
このナンマンダブツも多くの人の諸仏としての体内時計の
お陰です
そのおかげで私も今にこの仏様達がほめそやす阿弥陀様の
念仏称えます
今に響くよ、このチクタクチクタクナンマンダ
チクタクチクタクナンマンダ