カラスの独り言

二つも真理があるのですか

 悟りと信心が違うものなら、一人の人間が悟りと信心の二つを得て、二つの真理の世界を別々に生きることが出来ることになる。その前に二つのものを果たして獲ることが出来るのだろうか。真理は一つしかないと思うけど、もしも、二つの真理があるのなら、どちらかが違う事になる。
 一人の人間の心のすがたは別々のものから出来ているのだろうか。真理を二つも取り込めることが出来るようになっているのだろうか。常識では二つはいらないし、そんな無駄なことを自然は許すはずがない。別々の機能に役立つものなら許すだろうが、心理となれば第一の真理、第二の真理などとなれば、二つを生きる人間は歩く道が時には悟りの真理が右と信心の真理が左へ往けと言われる時もあるのだろう。それなら日々戸惑う事だらけだろう。  
 それでも、二つが心の中で融合し、やがて第三真理として二つを一つにまとめてゆくのだろうか。
 覚れば信心と異なる世界観が得られるのだろうか。その後は別世界の思想を形成してゆくのだろうか。常識的に人は一人一人、外形は違うけど、心は一つの形をしていると思うなら、心に入る形は自ずと一つだけになるのだと思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

私の命の二重構造

 18願文と成就文が表裏一体になっている。願文が成就文を成り立たせ成就文がさらに願文を生む相関関係的な二重構造になっている。それぞれは時間と空間が区別されそうであるが、仏の時間から見れば因果同時の仏の命の世界の中での一瞬ともいえない不思議な出来事なのである。     
 この関係はそれが完成すればそれがその成就の証明によってさらに真実が一層強化され、共にその昆経普遍性を持って我々にいよいよはたらき出してくるという事になる関係だ。
 このアミダの願心こそがわれらの本当の命であるが、このアミダの更なる我らの命を生み出す母なるあみだの無量の命の構造は助かるものに依って更なる本願の強化が促されてゆくのである。  
 この無限に無量に命を生み出すアミダの本願の命の増上は、それが私たちの本来の命のすがたなのです。これを本願の命の再生と言うのだと思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

 諸行無常のはたらきかけ

 ゆく川の流れは絶えずして。流れゆく姿を切り取ったところが川ではなく。変遷しながらも、それを不動の一点で見ている時、そこには変化しながらも川としての性質、変わらぬ冷たさ、いつもの流れ、時にはあふれ出す要素を含みながら転変し流れている動態を川としてとらえているのである。
 しかも、川は環境により時に大河になり、時に砂漠にもなってしまうものでもある。
信心も信心の確信は変わらないまま時々の宗教性の流れ、そして、感動や悲劇や幸運悲嘆などの諸環境に苛まれながらも質的錬磨がその度なされ向上してゆく性質のものである。法蔵魂の錬磨である。だから、信心は生きている限り個人の人格を向上させていく人格向上態としての性質を持つものなのであろう。そして、川の如く個人もその働きが終われば、砂漠の如く砂に埋もれてしまうのだが、時に小さな花をそこに咲かせていくこともあるのだろう。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

 1になれ

 科学の1は1にならない1を1としている相関関係の繋がりから出来ている。計測できる限界の0.5+0.5=1なのだから、あくまでも可能性の限界の上に成り立つものなのだ。相関関係の因果論による科学と言う合理性の限界があり、そこに無限の可能性を秘めたゼロと言う未知数がなければ成り立たないものなのであろう。
 仏教では完全な1としての無分別智をもとにして、この世と私を見て行く内的対象、心の道理ともいうべき安定性がその根源である。この世界に不可称不可説不可思議が成立する世界、自然の因果律の中に住んで認識して生きることが本来の人の根本的な存在根拠なのである。

なんまんだぶつ
なんまんだ

 繋がっている

 「いいね」で繋がっているんじゃない。いいねと言わせているお念仏の心で繋がっているんだ。
 時間と空間を超えて、人は今同時に生きていて必然的にいいね、で繋がったんだ。
 だから、十劫の昔のアミダ様も現代のわれわれも厳然と今繋がっているんだ。
 ミダが本願を起こしたとき、それが成就した瞬間に人間全員が立ち会っていたのだ。そうでなければ、アミダによる直接のフレッシュでジュウシィ―な救いは成り立たないし、他力も念仏本願もここに今の私に成就しようがないではないか。 
 いつでも永遠のアミダと人生同時並行的に存在を共有している精神的存在であり続けているものなのだ。
 阿弥陀仏はいつでも信ずる人の所に、今ここに共に繋がっていて、こうあり続けておられる存在となっているのだ。

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

共時性

―共時性1―
因果の道理を超えている事実を心理学で共時性と言うらしい。歎異抄でも「一切の有情は世々生々の父母兄弟なり まず有縁を度すべきなり」の如く、救いは、いつでもここに時空を超えてわが身に成り立つ不思議な仏縁としてある。
―共時性2―
 人が阿弥陀に救われたとき、アミダの本願成就の時と私の救いがいつでも同時にわが身に起こっている。因果性を超えて、時と空間を超えて存在の空間性を超えてある心として、わが身に救いが成就する。今わが身の前に阿弥陀が顕在するのである。どのような姿であっても姿と心を伴う、空間と時間を超えた空間を占めない純粋客体としての事実として存在するのである。
 だから、わが身が救われると同時に我が先祖も救われるのである。一個の限定的な存在である個の私が救われることが、個としての存在がすべて救われるという証明になるのだ。
だから、先祖も救われる、父母兄弟も救われるという論理になるのだ。すなわち世々生々の仏縁の無かった父母兄弟も救われるという原形を示すことが出来たという事だ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

そのまま大空を駆け巡れ

 
 今のままで、そのままで救われると言ったら誰も信じない。その身そのままで救われると言っても誰も信じない、信じない。ただのただで救われると聞いたら余計疑われてしょうがない。ここに何かが入らないと救われない仕組みになっている。
 なんでしょう。ここまでくると、もう私の日ごろの考えでは届かない。
 私の日ごろの考えや人の考えや教えを取り込もうとしても何回も失敗しているからもう間に合わないことは決まっている。
 だから私が、私が私がと言うところから始まったら、そこがもう失敗の原因になっていることを今気が付いた私が救われないから念仏してももう救われない。そこで、私の念仏と思っているから救われないことに気が付いた。
 私が信じようとすればするほど後戻りしていることに気が付いた。私がアミダを信じないと救われないと信じていたことがみな壊れ、もう、どこにも救われる道がないと確定決定信じることもできなくなって、力も声もかすれはて、そんなところに初めて、聞こえて来たよ、どこからか。地平線のかなたから、水平線のかなたから、無限空間のかなたから、深淵地底の、今まで足を踏み入れていなかった地底のかなたから聞こえて来たよ。
 あなたをむこうから信じていたよ、あなたを信じているから私を信じていてくれればそれでいい。あなたに信じる心配はしなくていいよ。私が信じていることを信じてくれればそれでいい。あなたは信じることはない。
 私の信じる心に任せなさいよ。信じられ、救われること、信じて念仏すればことたりるけど、最初はただ念仏一つで救われるから、信じる、はさて置いといて、ただ一言念仏一つで救われる。ひと声の念仏で救われるから、お念仏を一度してみてください、お願いします。そうすれば、あなたの心の底にたまっていた、あなたを救う仏様がその言葉となって、あなたを人のなす全ての苦しみから救い出す。今ここにいて苦しんでいてもいいんだよと救い出す。
 その身そのままで、このままで、スッキリ、ハッキリ、クッキリと今の身動き取れない苦しみに縛られていた自我が作り出す黄金の愛情の首を絞めつけ窒息させる知恵の金の鎖から解き放たれて、今の今から自由の身になって、目の前の大空に自由の翼をつけて飛び立てる。
 苦しいまんま救われてゆく。苦し意味を持ったまま、仏様から貰った自由の翼をバタ、バタ羽ばたいて、真理の空へ飛び立とう。バタバタバタバタナンマンダバタバタがナンマンダブツが真実の仏様と苦しみ抱えたままの私との大空での大饗宴だ。そのままでいいんだ、救われるんだ。救われろ。
 そのまま大空に飛び出して、自由の大空駆け巡れ。ナンマンダブツ、バタ、バタ。ナンマンダブツ、スーイ、スイ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

先立つ我が子は善知識なり

 死んだあの子は文句の一つも言わずにサヨナラ、またね、と死んでった。まるで観音様のように静かな笑みだけ残して死んでった。立派な仏様になったのに、それを認めず恨んで文句ばかり言っている私は鬼のよう。
 あの世に行った子供の足を愛の金鎖で引き戻す。文句ばかり言っている私は鬼なんだ。鬼の世界にもう一度帰って来い。
 もう一度、遇ってこの鬼の胸にしっかり抱きしめたいなんて、高望みだったんだ。観音さまだから一度はここにこようとも、真っ赤に染まった鬼の両手からスルスルすぐ抜ける。観音様だからこの鬼の手では懐けない。
 生きているときに観音様だったから鬼の言う事も何でも聞いてくれる仏様になったんだ。
 鬼の私を、あっちでとうとうご縁でしたと、子供にしてくれてありがとうございましたと、拝んでくれているんだな。

なんまんだぶつ
なんまんだ

念仏は現実の私の煩悩の解毒作用を継続する救いなり 

 苦しい時ふと念仏すれば仏様がなんまんだぶつの言葉となって現れて、仏様の静かな月光の世界、智慧の光の世界を思い知らせて下さる時がある。
私の心の中で宗教心が思い出のように突然甦るときがある。そうなれば、苦しいことも私の身から出た錆だなと心から静かに頷けるようになる。心が穏やかになる。
例えば、虫に刺されて泣いている子供に母親が飴玉をやって宥めるようなものかもしれません。生きている限り根本の無明の闇が晴れても、救われ続けて行かなければならない根の無い花のように、二度と迷いの世界には帰らなくても根の切れた迷いは一生続くのだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

あの時の笑顔のままで生きていた

 人生は愉しむためにある。ブッダは人生を苦しんだが35才から80歳まで45年もの間、実に如来の人生を菩薩として生きた。楽しく楽に生きた。弟子たちの人生相談にも大いにのった人だったことを見てもわかることだ。悩みがないから人の悩みに耳を貸せたのだと思った。そして自分自身にも他人にも、何ものにも虚心平気に人生を生き切った。王舎城の悲劇はあったものの、それも無事解決して、もう二度とここに生まれなくてもいいと言わんばかりに、この世を去って行った。
 一片の後悔の言葉さえ残さずに。たった一回の人生でよかったのだ。人間全部そうなのだろうと思う。死後に、これからどこに行こうとか、帰ろうとか言わなくても、ここで、このままで、これでよいと人生を見切った人らしい、より人らしく人になって生きた人だったのだろう。ここまでくれば一辺の後悔などはありゃしない。吾が人生の行は精進して忍終不悔、ついに悔いじである。

なんまんだぶつ
なんまんだ
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