信心や宗教心は人間の生きる意味を知らせる最終兵器

 宗教心や信心とか信仰とは命あるものが持っている最終兵器かもしれません。命あるものはみな持っているが、ことに人間には必要不可欠のものだったかもしれません。
 その証拠に、人生の苦とか危機になった時にしか、その能力が発揮されない。それが命の存在の極みである死において、それが完結するようになっている信心とかは人間における生の苦に対する最終兵器だからだ。これがないと死と言う苦も乗り越えられないようになっているからだ。これが人類や生命の全てに生きてあることは生命の根本にある本当の命を維持するための共通した生命の真理の用きから獲得した永遠の真理なのだからであろう。しかし、この兵器も生きている時には役に立つが、死んでからは何の役にも立たなくなるのだろう。こんな兵器はもとからなくてもよかったのだから。
 だけど、なければないで何時も困るのは人間なのだから、生きている時に充分活躍してもらはないと一番生き死にする心が一番困るのだろう。

なんまんだぶつ
なんまんだ

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