カラスの独り言

あみだ様の悲しみ

 お前の悲しくて苦しい人生を一生涯一緒に歩ませてくれないか。そして、人生で苦しむなら私を恨んでくれないか。私の頭と手と足をお前にあげよう。
 どうか、そんな運命を与えた私をどこまでも恨んでくれないか。そして、私を許してくれないか。
 どこまでも、私を恨んでいいし最後は殺してもいい。そして、出来ればいつか私を許してくれないか。
 そんな、悲しい私の人生を背負い、一人で歩ませて済みませんと言うのが阿弥陀様の思し召しなのだと思います。

なんまんだぶつ
なんまんだ

悩んでいるとき、悲しいとき

 お念仏をすると、いつでも私の原点に引き戻されていくようだ。この愚かな者が、アミダの真実のお念仏の鏡の前に全裸で立たされているようだ。ただ、そこには愚かなものがそのままで安らぎの大地に跪いてアミダの垂訓に触れ、心が愚かなままで真理に育てられてゆくような気がするのだ。
 そうすると、根っからの愚者なのに私が高上がりしている姿が知らされ、全ての仏縁を私利私欲に使っている姿が知らされてくるようだ。
 悲しみの原因が私から出たものでその結果が、ここにきているのだという事を知らされて、その悲しみの責任を引き受けてゆくことが、やがて、悲しみから私が本当に解放されてゆく道がやがて、ここに与えられてくるような気がするのです。

なんまんだぶつ
なんまんだ

一つの言葉があれば

 仏道はこの身一つでするのが一番だと思います。だから仏教の一つの言葉があればいいと思います。一つの言葉があれば、それをこの身に引き当てて、いつか答えが出るまで自身に自問自答してゆけば問うていけば、その時までの真実がこもった答えがこの身が心底うなずける答えが返ってくるはずです。
 自問自答してゆけば信心の鏡の視線に阿弥陀様が私の全身全霊が納得できる答えが見えてくるはずだ。
 一つの言葉を一生問うて行ける、そんな言葉に出会った親鸞聖人は廻向の言葉一つを一生の課題として自問自答した人だと思います。この言葉から親鸞聖人は自分自身の命の用がここに在ると答えを得たに違いない。
 仏の言葉、一つあれば人は生きてゆけるのだ。  

 なんまんだぶつ
 なんまだ

ぼんくら頭と体です

 今まで嫌いだった心と体にさようなら
自分はこのボンクラ頭と思っていた。
このボンクラ体と思っていた
 だけど、アミダさんは一生懸命この体と心を作ってくれたんだろうなと思うようになりました。
 これが世界一私に一番似合っている体と心だと思って、これが世界中の今の地球のバランスを取るために一番大事なパーツで、その役目を100%果たしてくれると思って作ってくれたんだろうと思います。だから私がこの役立たずと、人と比べて思っていても、アミダさんから見れば、それ以上でもなく、それ以下でもないんだな。
 このまま、いまのまんまそのままでいいんだよと100%認めてくれている体と心になっているんだな。だから俺は有難く無く思っていても、私の心と体がここに生きているという事は、すでに仏さんの遠くて深い願いを受けて、私の思いを超えて、今ここに私と言う全部が許されて、愛されて、尊敬されて生きているだけなんだろう。ただ、それだけのことを有難く頂戴していかないと罰が当たるなと思うように思うようになりました。

なんまんだぶつ
なんまんだ

人生の審判

 野球やサッカーなどには審判がつきものです。ゲームがこの人の判断で成り立っています。勝敗の良し悪しが全部決まる大事な役目です。意図的に差配すればケームは意図した結果になります。私の人生にも神や地獄の閻魔様のように生きている時に審判する人がいたら人生はファールの連続で意図せずとも人生退場になっています。もう退場になったからここにいるのかもしれませんが、まだ生きているので、猶予されているのかもしれません。しかし、試合的制裁を受けていればもうだめかと言うと、阿弥陀様だけはまだ大丈夫だと言ってくれているような気がします。
 結論から言えば阿弥陀様の最終決断はこの人生でたとえ、レッドカードを貰って人間の人生を退場した者でも仏の道を歩むことによってどこにでも生かされてゆく道があると言っているような気がします。
 むしろ、カードを貰うのは意図した時でも、そうでないときでも、かならず、この人生ゲームに参加している選手は一度も貰わない人はいないのですから、失格寸前の人もいるし、そうでない人も、そうなった人でも同じ条件のもとにいるのですから厳しい審判になるのでしょう。だから人生ゲームでの勝者でも敗者でも共に救うというのが阿弥陀様の願いなのでしょう。
 特に、レッドカードをもらったものこそ救うというのが阿弥陀様の、この人生ゲームの特別な選手として特別のお慈悲を持ってご覧になっておられているのではないのでしょうか。

なんまんだぶつ
なんまんだ

 虫が泣いている

 草野では鈴虫が泣いている
 トンボがスイスイスイスイ飛んでいる
 海ではイワシがみんなで泳いでる
 山では可憐な花が咲いている
 川では河鹿が岩の下に隠れてる
 町では人がナンマンダブツと称えてる
 虫魚花人にみんな仏ごころがあるならば
 人より素直に生きている命なら
 仏の呼び声聞こえてるよ
 なぜ人間だけに仏の声が届くのか
 無量寿無量光の慈悲ある真の仏なら
 人の先祖も虫の先祖も同じ46億年の
 命を伝えてきた仲間たち
 姿かたちは違えども、その中で、
 一匹、一頭、一羽でも一匹のカエルやカラスに
 深いアミダのお慈悲が届き念仏の心に目覚めた奴がいても
 いいんじゃないか。それほどお慈悲は
 篤くはないのかナンマンダ
 イヌネコウシウキクジラオラウータン
 人間と同じナンマンダブツと言わないだけで
 仏の命や心はみな同じ、発音や言葉が違ってみな同じ
 ニャンマンダ仏と鳴いている
 チューだ仏と鳴いている
 ワンワンだ仏と吠えている
 キャンキャンだ仏と鳴いている
 チンチロリン仏と鳴いている
 こんな声出して仏を慕って啼いたって
 不思議じゃないな
 そこまで人間が上から目線でサボテンや
 虫の声の意味さえまだ理解していないだけかもしれないし
 だから、私は虫仏やカエル仏にカラス仏の諸仏に
 囲まれ田舎暮らしはそれだけでお浄土だ
 きっと、私が死ぬときはそんな虫や鳥たちの鳴き声が
 ナンマンダブツの言葉の雲に乗ってプカプカ
 と私を見送ってくれたら少しうれしいな

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

心はいつも感動してるんだ

 
 頭脳で感動しているんじゃない
 頭脳で生きたり死んだりしていない

 失恋で胸が張り裂ける
 いい言葉を聞くと胸が熱くなる
 腹の底から笑い声がこみあげる
 親友を失って片腕がもがれた痛み
 全身で懺悔嗚咽する
 息が出来ないほどお腹が
 おかしさで止まらない

 こんな悲しみと喜びをかみしめる
 ための人生じゃないか
 これを平気の平左で渡りょうか
 こんな喜び悲しみ知っているのが
 私のほんとの命なんだ
 命は生きて熱い血潮を流しているんだ
 ナンマンダブツはそんな
 燃えるアミダの命なんだ
 その中にいる私たちの命なんだ
 そうなんだ

 なんまんだぶつ
 なんまんだ

伝えようとしない方がよく伝わる仏法不思議

 
 助かるために阿弥陀様の教えを聞かねばならぬ。アミダの言葉を食べねばならぬ。
 阿弥陀の言葉を食べて良く消化しないとそのまま他人の前に出しては未消化だから、話す人が救われていない言葉のままでは生きて血の通う言葉にならず到底人には響かない、届かない。
 その言葉がその人の心や体全体の栄養とならず本願力となっていないので、他人には到底響かない言葉となってしまうのだ。アミダの念仏は人間の心と体を身心柔軟にはするけれど、少しも減らず増えず、全身が金口となって念仏と言う仏が人を救う言葉となって出て下さるだけだ。私の役目は一端還相したアミダと、また来るアミダの往相としてナンマンダブツとなってサヨナラ待たねとナンマンダ。
 そして、また、ある時、食べたものが清浄な念仏となって、私の口から出て下さる真実だけがきっとどこにでも残るのだ。

なんまんだぶつ
なんまんだ

アドベンチャーワールドなんだアミダの世界は

 お念仏は言葉の説明で理解できるものではないが、最初は必要だが必要悪になってゆく。最後は言葉を離れた真実の響きの感応感動なのだ。心に感ずることなのだ。全身全霊で生きた仏の言葉の中に全身で飛び込み浸ることなのだ。浮かぶか沈むかわからない人生のアドベンチャーワールドなんだ。ディズニ―なんか子供の野遊び。ここは最初から安全なんかありゃしない。死ぬか生きるかの完全版だ。  
 大人のアドベンチャーワールドなんだアミダの世界。説明道理も初心者には大切かもしれないが、それが全てではないのだよ。無知蒙昧の凡夫が、真実知識の念仏一つで救われるようになっている。
 宗教学校なんかない時代、どうして真宗教団が出来たのか。苦しみ悩んでいる人が今より多くいたからか、社会状況時代状況が今より具合が悪かったのか。
 そうじゃないでしょ。学問が人間を馬鹿にするよな時代でなかっただけだ。学問を馬鹿にした人間が多くなってきただけだ。苦しみをただの念仏ただで救える人が多かっただけなんだ。余計な理屈で人を迷わしアミダの救いを遠回しにすることばかりの時代ではなかっただけなんだ。
 説明道理の中に真理の箴言、願いの声を聞いた人が直接拙い言葉で話して通じる時代があったのだ。今は言葉が多すぎる。真実の心を含まぬ無信の言葉で話すから。それらもいずれは化けの皮がはがされる。そして、いずれ淘汰されてゆくのだろう。如来の真実の働きは声になって私を目覚めさす。相手も目覚め指す。虚偽虚妄の煩悩の雲を払うナンマンダブツと晴れてゆく。

なんまんだぶつ
なんまんだ

善人悪人

 人間は善人とか悪人という対立的な存在ではなく本質の部分は同じで、全て縁次第によってそれらが決まってくる。善の縁が来れば善を作るし悪も同じだ。
 それが次第に強くなっていっても中身は同じである。善悪もそれをしようとすることも自分の意思と縁次第なのだ。自業自得はすでにここで現れている。
 人間は本質的に凡夫なのだが、その根本にある無明の闇と言う悪性がある限り善人も悪人も相対的なもので仏からみれば、善人も縁次第では悪人になる凡夫である。悪人も同じ。
 だから、煩悩も本能もそれによって、悪を引き起こすことは同じなのだが、その心の奧に仏性と言う宗教心を持っているので、全部が悪の方向に行かずに、善悪を超えた無記無我の世界を持っているので、それと共に気が付き、ともに生きることによって善凡夫も悪凡夫も真実の世界へ生きて行くことが出来るようになっている。

なんまんだぶつ
なんまんだ
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