目の宗教 耳の宗教

 目で文字を読んで頭で理解する。かたや文字を読むことが出来なくても他国の言語を読むことが出来なくても発音されて耳で聞くことばで心に直接響く、言葉を超えた言葉になったものがあるのではないのか。
そのような宗教的総合的象徴的な言語があるのではないのか。意味が分からなくても心の深いところである宗教心を呼び起こす言葉が念仏あったのではないのか。つまり、言語を言葉として発音するだけで相手の宗教心を呼び起こす言葉が、呼び起こされる言葉としての念仏であったのが念仏ではなかったのではないのかと思う。
「続・親鸞」と言う映画の中の話なのですが、山形龍之介扮する法然上人が助けを求めて来た農民に一言「ただ念仏じゃ。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と言うと農民も同じく念仏を称え出して救われていったという場面があったようなきがする。
ブッダが「ナムアミターユス、ナムアミターバ」と言っただけでその響きに応じて多くの弟子達や悩める人々が救われていったのではなかろうか。
親鸞聖人がここにおられ一声念仏されただけで吾らは、それがアミダの呼び声として直説法として聞こえてくる人もいたのではないのか。
それが言語化され哲学化され難解な思想的教理学になってくるとさらに観念化してきて念仏の初期の精彩を失って来てしまったのではないのではないのか。
念仏の理性的な観念化によっても念仏の魂は精彩を失う事はないのですが、それらを学問的に理解しないと真理を知らないものとされてしまってきた事ではないと思うのです。
そんな理解を私がしなくとも、畑で生きる人や様々な仕事をしている人たちの現実的な悩みを宗教心自身が、念仏自身が解決してくれているので私は安心しているのですが。

なんまんだ

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