言葉になった真理

 「食前の言葉」でも心の籠った言い方がある。それを聞いただけで、この人は本当にこれから食事を謙虚に頂こうとしている人なんだなとさえ思える時がある。いわゆる心が籠った言葉だ。それと同じように詩人の言葉は詩の神様が囁いた言葉を写し取ったものなんだろうなと思います。
 ブッダ没後は悟りを開く人もいたが、やがて言葉の整理構成に追われ、ついに月を指す多くの言葉の指が現れ、多数多種に言語化されて、多くの解釈の言葉が語られ、後世には言葉の森の中に彷徨う人々が溢れ出してくる始末になりました。
 大乗仏教は聞くところによると、言語化を嫌う人々が、嫌気を指して仏跡巡礼というブッタの直言に遇いたいという人々によって再興されたものだと聞いたことがある。つまり、一人一人がブッタの金言にふれて直接悟りを開くようになった。しかし、言語化されたものの魂に触れることは極めて難解でもあったし、多くの人々はやがて教団を離れ里に帰って行ったのであろう。そして、言語の相をしながら言語を超え、真理そのものが真理を表現している念仏が大地から芽を吹いてきたのだ。
 これならば言語によらず言葉にもよらない真理として多くの人々が何の理屈もなく直接理解できる救いとして現代まで広がってきたのであろう。
 だから、もともと念仏は人間の宗教心という真理の心を呼び覚まし、目覚めさせるはたらきも持っていて、念仏そのものに任せていればどんな人でも真理のはたらきに触れることが出来る原理でもあるのである。
 それは念仏の数でもなく、大きな声でもなく、念仏そのものはたらきが発する呼び声にまでなっている声を聞くという事だけで助けるという人間の言葉にまでなっている真理の言葉を聞くだけで救われることなのである。聞くということがすなわち如来から信じられていたという事を知る信心の世界に目覚めるという事にもなるのである。
 そんな世界を誰でもが持っているのである。元のブッタの言葉も、こんな簡単な原理から出来ていたに違いないと心から思うからなのです。
なんまんだ

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