カラスの独り言

真理の囁き

 真理は言葉や書籍や自然に生きているのだと思うのです。生きているからいつも息づき、こちらを見つめてじっとしていながら私が気付かなくてもいつか気付くと見つめていてくれたのだろう。生きているからこそ、みんなに気付いてもらいたいけど、こっちが気付くまでは、じっと息を凝らしてしているようだ。
 私たちが見つけてくれる時機を何時までも待っていてくれるようだ。だから、真理は直接語りかけはしないけど、その囁くような声を聞く耳を持たないと、一生聞こえぬままになるのだろう。何かを通して必ず伝えている。
 その声を聞く耳をもったらいつも聞こえるよ。そしたら、いつも大音声で「お前は助かる、もう大丈夫」と言ってくれていた声が聞こえてくるはずだ。叫んでいたんだな。命あるもの皆すべてにだ。

なんまんだ

今を生きていない

 今を生きるなんてできやしない。今、と言った途端に今はもう今ではないのだから。曽我先生じゃないけれど、我らに自覚できるのは純粋未来と言う仏を自覚している時の、無限の時の中にいる今の刻み以外に真実の時はないのだという事です。
 今は今の集まりがみんな今となっているから今と言う仮の時間の中の姿だけに仮相の今があるだけなのでしょう。
私の細胞一つでも、今の瞬間を取り出して死んでしまえば一つの固まった姿をしているけれど、実際は、次々にその姿を変えている。同じ姿かたちの細胞はないけれど、そんな、ない形が、骨や肉になりたくさん集まって、一時的に私となっているだけだ。だから私は今の集合体でもあり、その結果でもある。
 しかし、それを包む大きな今という存在の一部でもあるから、結局、永遠の今。無限の今の連続内の今の命の中にいるのだろう。そして、私のほんとの今の進む方向は、そこに還ってゆく道すがらの今にしかないと思います。

なんまんだ

グリコのおまけ

 グリコのおまけは楽しかった。おまけが欲しくてグリコを買ったことがある。あみだ様も私たちに念仏箱の中の信心を喜んでもらいたいはずなのだ。
 だけど最初は外側のおまけに釣られてでもいいから、まずは買ってもらうことが一番なので、おまけを一応前面に出している。いつか本体を味わう時が来ると信じて誰でも欲しがる形で呼び込んでいる。
 だけど一度中味を食べたらおまけももっと楽しかろうと考えたのだろう。
 おまけと言えば失礼だけど所詮人間は信心獲得よりも、お念仏の方が分かりやすいからそうしたまでなのであろう。
 あみだ様の都合よりも我らの思考形態の都合に合わせてくれただけなのだ。
 それでいつか中味を食べたらおまけのようで申し訳ないけどその念仏にも血が通って生き生きとしておまけ念仏となるのだろう。
 きっと、あみだ様もそれを期待しているに違いない。

なんまんだ

先立つ我が子は善知識なり

 死んだ子供を死んで行ってもいいよと、この世から解き放って、親の手から仏様の子供になっていいよと許してあげることが出来なければ、それは親の一方的なエゴイズムなんだろう。
 なんでも俺の物だ、俺の物は俺の物だ、俺の妻だ、俺の子供だというような、結局、俺さえよければいいというエゴイズムは悲しいけれど一生消えないけれど、仏の純粋な愛情に目覚めたのなら、死ぬことを許してあげるという事になって行くのではなかろうか。広い世界に親が出なければならない課題がここにあると思うのです。つまり、人間の悲しさはここに在るのでしょう。
 このエゴイズムが捨てられないままに捨てさせていただく仏の道。すなわち亡くなった親や子供を赦し続けてゆく道。逆に許されてゆく道に変わってゆくという道が一番大事な道になってゆくのではないのであろうか。
 悲しみとの出会いによって、こんな道を歩むという事が、案外、悲しみと別れて行く、悲しみと共に自分が見えてくる世界に出会ってゆく事。自分の悲しみが分かることが、私自身が見えてくることになってゆく道。
 そんな潔い道を見つけてゆくことが出来るようになっているのではないのではないのでしょうか。
 この世でそれが出来なければ、あの世でも結局同じ事になるのかもしれません。凡夫の情として、あの世でまた会えるというような思いも大事なのかもしれません。

 なんまんだ

ブッダの道

 お釈迦様は35歳で悟りを開かれ80歳で無為涅槃界に帰って行かれた。王子として生まれ、悟りを開かれた後で、私たちと同じような衣食住の生活はしておられた。
 そして、晩年には悪魔の囁きまで聞こえてきた。きっと本能も煩悩も我々凡夫と同じようにあったのであろう。しかし、優れた妙好人であったと言えることには間違いがないのであろう。しかし、一方で本能煩悩を持ったままで生きねばならぬ、ある人は養育費や教育費も払わねばならんといわれる。真実の悟りと言うものはやはり、それらを抱えたままでミダの本願念仏に照らされて生きて行くという事が我々人間に残された正しい唯一の道だったのではなかろうか。
 それが2500年の間、脚色編曲されてしまって、褒めたたえられすぎて、見えるものが見えなくなってきて、形だけに、言葉の解釈だけに囚われて行ってしまったのではないのではないのか。
 そうすれば親鸞の言った、お釈迦様は覚ってはおられるけれども、正定聚無為涅槃界に到る身となったという事で、まだ完全な仏には成ってはいない、まだ凡夫の心を持った人間であったことを証明された親鸞の言葉は,まことに尊く忝く感じられる。また、親鸞がご和讃の中でブッダが念仏者を「わが親友なり」と仰ったという言葉の裏には、そのような論理考証があった。こんなことを言った人は親鸞が日本で一人だ。と言われた小川一乗先生。信心の中味を自覚検証していけば、やはり、我々も同じような世界を、愚かな人間として道を歩んで行けばいいのではないのかと思うのです。

なんまんだ

真実の命

 限りある多くの命の中に限り亡きアミダの命が宿り、そこに信心が覚醒し無量の命を知る。
 それは真実一如からの世界の命、色も姿も形もましまさぬ、言葉も心も絶えたりという絶対真実の命のはたらきが吾らにこの形で知らされることによって、我らは真実一如の命のはたらきを知り、それと、この命の尊さを知ることが出来るようになるのである。それは、永遠の世界と言うものを、われらの為により具現化した、有量有限の凡夫の世界という限られた命が知ることが出来る、変わらぬ平等で平和で同一な世界であり、永遠と言う神のまします世界と言う、それと対立する世界にいるわれらと隔絶させないためのものなのでなければならない。
 真実の命がわれらの為に仏となって現れたたもう姿が阿弥陀仏なのである。

なんまんだ

生きろ

 この世はやはり、能力のある人が生きやすくなっている。ない者はやはり生きにくいのが現実だ。だけど、だけど、だけど。仏様だけが人間の基本的な人権ならぬ仏権だけは平等に分け与えてくれている。これは、人間が生きて行く上での仏に関する自由で平等で、博愛精神のはたらきを言う。
 これがなければ人間としての本来性が保てない精神的なはたらきを持つものだ。
 この能力だけが人間を平等に扱う精神を持っている。しかも、仏の教えを聞いて能力のない者と自ら知った者からすくう。つまり、仏権に目覚めさせてもらえるのだ。
 能力のない者よ。能力のない者よ。能力のない者よ。才能などヒトカケラもない者よ。ここでは一番先に我らが幸福第一のアミダ仏に一番先に生きて行けるものとなるのだ。貧しき者よ、幸いなれ。浄土は近くあり。
 今しばらくの世の中を楽しめ。
 苦悩を楽しめ。全てが仏の楽しみへと変わる飼糧となるのだ。この世で浄土への夢を確信しろ。希望を持て、苦の中で倒れるまで生きよ。そのまま、生きて、生きて、生きて、生き抜くのだ。生きろ。
 なんまんだ

信心獲得

信心をもらうには、こっちから出したくなる、貰いたくなる、追い求めたくなることをしない事だ。追い求めなくなれば、ただじっと座っていれば、向こうから、救うと言っている方が私の求めるより先なのだから、私が求めるより先に、すでに私の求めることを知って先に与えると言っているのが先だから、救われたいというより、救うと言っている方が先なのだから、ただのただで貰えばいいだけだ。
あれこれ先に貰おうとすることは、無駄な努力を自力と言うのでしょう。これを慌てる乞食は貰いが少ない。ではないけれど、あわてる自力は他力は得られないとでもいうのでしょうか。

 なんまんだ

結果主義

 結果がこれほど重視されている時代なのに、これほど南無阿弥陀仏と言う結果が重視されていない時代はない。
 つまり、結果とは、その人が出す結果と、他人から見たその人への結果の意味が違うという事だから、二つの結果への意味によってその結果の重きが違うのだろう。
 しかし、そんな相対的な結果ならば、本当の意味での最終結果というものを求めるならば、人生の結論結果を求めているのであれば、そこにもやはり結果の違いが個人的なものであるとするならば、その結果も怪しいものだが、本当のその結果は、そんなものではあるまい。
 本当の結果なら最初から一つでなければならないと思うのです。
 なんまんだ

みな悟らるべし

 ブッダの出世本懐とは人間全体の出世本懐でもある。自ら覚り他を覚らしめんとすることである。大経における阿難がまさに、何十年とブッダが阿難に法を説いたが開けることが無かったが、いまこの時阿難自らが、自らの眼にブッタの智慧と慈悲をまのあたりにしたのは、自らの内からなる宗教心の初めての発露だったのだ。自らが覚ったからブッダの悟りに気が付いたのである。ここに、我々の救われ難き凡夫の身の姿があるが、これが我々の出世本懐でもあるのであろう。
 自信教人信と言う言葉の意味はまさにこのことであろう。独覚といえども、仏の大悲による教人信のはたらきによってはじめて、自らの真実の悟りを聞き開くことが出来るのであって、そこにこそ、仏々想念、肝胆相照、感応道交、念仏と念仏、宗教心と宗教心、法性と法性が響きあう内観世界が、そこに証明されたのである。ブッダの悟りも阿難の覚りによって阿難の本懐が証明され、さらに自らも深まって行ったのであろう。
 ブッダも救われ難き凡夫をアミダの大悲で救ったことによって、アミダの大悲の深き用を知ったが、大経のこの場面は、我々人間の出世本懐でもあり、いくら覚っても、人一人救うことが出来ないご縁であれば、それは自らの出世本懐の感性とはならないのではないのかと思うのです。

なんまんだ
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