本当の幸運なんて、一生に一度向こうから勝手に来るものじゃないかと思います。
あみだ様の救いも、こちらから求めても結局は自力婿の原則に従って、あみだ様の方から愚かな我らに差し伸べられた御手に縋るしかないようなものだと思うのです。
また、ギリシャの諺に「幸運の女神には前髪しかない」。自分の力で過ぎ去った幸運の神様には掴むべき後ろ髪がないとあるように、この神様のもとは時の神様カイロスだと言うので、過ぎ去った時は戻らないとも考えられる。
しかし、永遠の時を刻む宗教心と考えれば、我々からすれば時には永遠の時もあれば一瞬の時もあるように、ともに諸行無常の姿をして現れてくるが、それを乗り越えようとして、その一瞬の時や無常の正体を知れば無常ならぬ永遠の時という有常世界を掴むことになるのだろうと思うのです。
しかも、その時は向こうからくるとありますが、有限の我々が求める時はやはり有限の感覚でしか無限をとらえきれないのですが、無限からすれば有限の我々を捕まえることは出来るのでしょうし、それを知らされることは我々にも感知できると思うからです。
それではその実感は永遠にないのかと言えば、そうではなくて、永遠の時を持つ宗教心に捕らわれた時の無自覚の世界でしか会えない一瞬に我々はそれを自覚できるのでしょうから。
それが宗教的な自覚の原点であり出発点であり、そこが既に終点にもなるのだと思うのです。
そして、ここに人生の永遠の真理の究極が詰まっているのだろうと思うのです。平凡でまじめな日常生活をしていれば無常はいますぐ誰にでも見えてくるものなのでしょう。
それと真摯に向かい合うこと以外に本当の幸福の神様の前髪を掴むことは出来ないんじゃないかと思うのです。
なんまんだ
悟りを開いたブッタであったからこそ、この世はすべて縁生存在であるから諸行無常と喝破できた。
親鸞さんも一休さんも信心とか悟りという宗教心に目覚めた仏の目でこの世と自己を見ることが出来たから、無常の厳しさと自己の執着心の醜悪なる実体を直視できたのだ。
私たちはお念仏も空の世界あるのですが、なかなか信じられず、ましてやブッダの如く座っただけではなかなか悟れなく、信心も得難いので、なかなかこの世の無常を驚かないで平気で毎日を忙しく、死を心の倉庫にしまい込んで真剣に動き回っています。
しかし、病気や事故や老を迎えると、やはり一番は死の問題が首をもたげてくるのです。
無常に驚くとは、その反対の有常というか永遠なる仏の世界を持って生きて働いている宗教心という悟りや信心に初めて目覚めることが即、生死の相対的な考えから離れることが出来るようになっているので、そこを乗り越えなければ生老病死が目の前に迫るまではその根本的な死に対することもなく、問題解決への道は困難なのだと思います。
それを超えたとしても、諸行無常の中でそれを悲しみ、喜んで生きて行かねばならないのが人間の宿命であって、それを持って生きて行くしかないのが人間の限界人生だと思うのです。
そして、諸行無常を抱えて永遠の浄土へ向かって正々堂々粛々と生きていくことのみが人間に残された最後の最後のひと息まで人になってゆく、仏にならせて頂くということのみが人間に残された、仏道に生きる我々の道になると思うのです。
一生涯無常を驚きながらお念仏を喜ばせてもらいながら、ただただ仏になるための人生であった、そして、いまただただ死んでいくことが何とも有難い人生だったと言えるようになっていくということが生きると言う真意なのではないのかと思うのです。
なんまんだ
きっと仏教は「従果向因」。
悟りを開いたら根本の無明の闇に気が付く。救われたら仏の浄土と私の地獄が見えてくる。
救われたら救われないわが身が見えてくる。救われたらわが身が凡夫と見えてくる。救われたら、宗教心に目覚めたら人生の四苦八苦が初めて見えてくる。悟りの眼から諸行無常が見えてくる。
科学は「従因向果」。
無明の闇があるからそれを破るために自力努力意識を持って修行する。知識としての無明からの努力意識による修行による仏への方向は仏からの信心の開眼が前提なので無限の限界に気が追加ない限り不可能の道になる。
仏に成る場合は宗教心が主体になるので、神仏という果からのはたらきを信知することが正しい道になる。
それを他力という。間違っていたらごめんなさい。この責任は私一人が引き受けます。
私→仏・・・因から果への道。「従果向因」
仏→私・・・果から因への道。「従因向果」
なんまんだぶつなんまんだ
死によってこの世の悩みの全てはなくならない。
ブッダのように生まれて来た人生の意味を知った人が
この世にいた以上いる以上。
それを知ったら人生いつ終わってもいいように。
人生という字は人と生きるからできている。
この字の中には生きることだけでなく人が
死ぬ人死という字が隠れているのだ ろう。
人生は生きると死ぬという迷いの続く中でもがきつづけ最後に本当の死を迎えた時に、これでよかったと神仏に承認されるほどに意義深い生き方を、生も喜び死も喜べるような、行き先のわかった生き方をしているならば、という意味で。
人にとって本当の人生を生きたと言う事がみんなにも認められ、いや一人神仏だけにでも喜ばれるならば天国の門も浄土の門も、いつでもその人の前に開いているのではないのだと思います。
死はいつでも私たちの生を脅かす存在ではなくて、人間の人生の正しい意味を尋ねて行ってくれと身をもって教えてくれる本当の人生の師匠なのでしょう。
この死の師匠の問いに応えられる生の答えを得ることが
人生の本当の意味になるのではないのかなと思います。
人生
───=人生
人死
なんまんだ
この世は不思議なゼロというはたらきから出来ている。
良いことの中に悪いことも一つになって入っている。
ブラスとマイナスがないと、一つのものが出来ることが出来ない仕組みになっているようだ。それなら微細な世界も善悪も正反も一つになって出来ているのだろう。
それなら私も善と悪というようなもので出来ているのだろう。
それなら絶対ゼロのあみだ様に救われたなら、やはり、救われないままの部分が真理に対抗する罪悪深重の身を持って救われないままに、この身が阿弥陀様のはたらき100%で救われていくことが一つになってみんな救われてゆくことになるのだろう。
これが救われると言う原理のようなものになるのだろう。
自己の真実を知ることが、アミダという真実のはたらきを知ることが、私の中で同時進行して元のゼロの世界に帰るこの世での、この身の準備が正定聚不退転という事にもなるのだろう。
アミダがあればわれはあり、我があればアミダあり。という縁起の道理の関係存在がここにも成立してくるのだろう。
なんまんだ
信仰に目覚めない人に本当の意味での輪廻転生は考えにくい。
根本の意識の迷いがどこへ行っても続くから。
輪廻転生が実現していい人にはあると思う。
何故なら、神仏を信ずる人は自身の罪の深さを知らされると同時に永遠に救われるから。
仏になる確約のもとに菩薩の地位に就くのであるからである。
だからどこへ迷い出でて出てもその道から、救われる術を発見するので六道輪廻転生もいとわない生き方を発見できるからなのだと思う。
つまり、仏になれる菩提心というものはどこに行っても誰にでもついて回るからなのだと思うから。
ブッタのジャータカ物語はきっとこんなところから出て来たのかもしれません。アミダさんだって迷っている者がいる限り生き続けているからな。
どこまでもついてゆきます凡夫のミダ
なんまんだ
木の葉はみんなお母さん
蓮華の葉っぱもお母さん
多くの手を持つお母さん
まるで千手観音のように
この子の夢が千に一つでも
叶うように包んでいるようだ
花が開くとき千の手が開くとき
この子が大空に旅立つとき
千の手で我が子を守ってきた手を
大空いっぱいに開きます
「さあ行ってらっしゃい、あの広い大空へ、自由に生きて自分の願いを叶えなさいと」
そして、ひと葉ひと葉の蓮の葉が
一つ二つと別れを惜しむよに
潔く散ってゆく
人生でたった一度だけ、
パッと咲き開いた蓮の花
親の務めも終わる時
それはこどもの夢が
大空を駆け巡るとき
私も千の手に囲まれて
私の夢の中の仏の夢を
いつか叶えることが出来るでしょうか
なんまんだぶつ なんまんだ
家出して1週間ぐらい経ってから後輩の母親からこの光蓮寺ビハーラハウスって言うところを教えてもらい電話しました。
最初はめっちゃ不安と怖さでいっぱいだったけどいざ電話越しで話したら少し安心できて家でまず受付してからご飯を食べさせてもらいました!
その後に色々相談とかさせてもらい言いたいことは言えてスッキリしました!!ここのおしょうさんとお母さんがとても優しくて僕にとってここは第2の家だと思いました。
僕はここに来なかったらずっとトイレで生活しなきゃいけなかったんだと思いました…
僕はここで学んだことや話したことをこれから先ここのことを思い出して生活して行けたらなって思いました!そしていつかは恩返ししたいなって!
そして泊まらせてもらえたことに感謝します
暗闇の奥から光が宿り
その光に吸い込まれ
気づいたらそこは
暖かい場所
優しい2人に恵まれて
僕の未来を励まされ
フリーター HM 19
(原文のまま)
青年と話していると、彼の短い過去と長い命の躍動を感じることが出来て、自分もそうであったのかと過去を再考し、なけなしの未来に少しの輝きをもらったような気がしました。こちらこそ自分の人生の意味を少しでも考えさせて頂いた貴重だけど仏様から貰った尊い時間を共に過ごさせてもらってこちらこそ有難うございました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
生まれ変われるならあれとかこれになりたいとか、
ときどき勝手に思っていたが今度、
仏になれば、どこにいるどんなものにでも生まれ変わったとしてもかまわないようなものになるのだとしたら、
仏になるとはその心の核となってそのはたらきを無限に再生伝播し繰り返しながら永遠にいのちの再生に影響してゆくものになるとしたら。
だったら、きっと仏になって救うという一つをとっても、どこに、どんな形で生まれたとしても迷いがない心ならばいいのではないのかと思うのです。
悟らず救われない迷いを繰り返す六道輪廻は困るけれど、仏になれる迷いのない前世で信仰を得たならば、
どの六道輪廻の世界に入っても、ひょっとしたら誰でもどこでも救うことが出来るのかもしれなと思うのです。
迷っている我が子やわが母がいるとするならば。なんまんだぶつ一つになって絶対救い切ることが出来ると思うから。
なんまんだ
生まれ変われるならあれとかこれになりたいとか、ときどき勝手に思っていたが今度、仏になれば、どこにいるどんなものにでも生まれ変わったとしてもかまわないようなものになるのだとしたら、仏になるとはその心の核となってそのはたらきを無限に再生伝播し繰り返しながら永遠にいのちの再生に影響してゆくものになるとしたら。
仏になって救うという一つをとっても、どこに、どんな形で生まれたとしても迷いがない心ならばいいのではないのかと思うのです。
悟らず救われない迷いを繰り返す六道輪廻は困るけれど、仏になれる迷いのない前世の信仰を得たならば、どの六道輪廻の世界に入っても、ひょっとしたら誰でもどこでも救うことが出来るのかもしれなと思うのです。
迷っている我が子やわが母がいるとするならば。なんまんだぶつ一つになって絶対救い切ることが出来ると思うから。
なんまんだぶつなんまんだ