信心いただき、悟りも開いて悲しいままに仏になる。

 悟りを開いたブッタであったからこそ、この世はすべて縁生存在であるから諸行無常と喝破できた。

 親鸞さんも一休さんも信心とか悟りという宗教心に目覚めた仏の目でこの世と自己を見ることが出来たから、無常の厳しさと自己の執着心の醜悪なる実体を直視できたのだ。

 私たちはお念仏も空の世界あるのですが、なかなか信じられず、ましてやブッダの如く座っただけではなかなか悟れなく、信心も得難いので、なかなかこの世の無常を驚かないで平気で毎日を忙しく、死を心の倉庫にしまい込んで真剣に動き回っています。

 しかし、病気や事故や老を迎えると、やはり一番は死の問題が首をもたげてくるのです。

 無常に驚くとは、その反対の有常というか永遠なる仏の世界を持って生きて働いている宗教心という悟りや信心に初めて目覚めることが即、生死の相対的な考えから離れることが出来るようになっているので、そこを乗り越えなければ生老病死が目の前に迫るまではその根本的な死に対することもなく、問題解決への道は困難なのだと思います。

 それを超えたとしても、諸行無常の中でそれを悲しみ、喜んで生きて行かねばならないのが人間の宿命であって、それを持って生きて行くしかないのが人間の限界人生だと思うのです。

 そして、諸行無常を抱えて永遠の浄土へ向かって正々堂々粛々と生きていくことのみが人間に残された最後の最後のひと息まで人になってゆく、仏にならせて頂くということのみが人間に残された、仏道に生きる我々の道になると思うのです。

 一生涯無常を驚きながらお念仏を喜ばせてもらいながら、ただただ仏になるための人生であった、そして、いまただただ死んでいくことが何とも有難い人生だったと言えるようになっていくということが生きると言う真意なのではないのかと思うのです。

 なんまんだ

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