世界中のブランドと言われるブランドをすべて手に入れた。
今でも次から次に手に入れている。
それを買い続けるお金も日々、次々に手に入れている。
来る日も来る日も手に入れている。
そんな日々に求める自分をふと振り返って考えた。
人に誇れるものを宇宙中から探し出して手に入れても、自分が最終的に求めている最終目的のブランドとは一体何だろうと考えた。
それを求めている自分とはいったい誰なのかと考えた。
そして、本当の自分自身をどうしたら手に入れることが出来るのかと思っていたら、そこを歩いていた子供に、「このおじいさんは一体誰だと思う?」と尋ねたら子供は「おじいさんはおじいさんだよ」と笑って答えた。そして「がんばってね、さようなら」とにっこり笑って去って行った。
私は一体誰なのかの答えがその時見つかった。
なんまんだぶつなんまんだ
自分を取り戻す。
自分がSNSに包まれているとき、自分が自分を失ってゆくような気がする。
自分が知りたいことや見たいものばかり見ていると。こちらより向こうの方がこれを見なと言ってきているような気がする。
向こうの情報に支配されてゆく自分自身の根底が弱いのかもしれないけれど。
自分自身の本当の姿とは何かを知ることがなければ何事も始まらないような気がするのです。
知らないから迷い苦しむ自分自信が痛ましすぎると思うのです。
自ら助くるものは結局自らを根本から救う事になると思うのです。それがなければ一歩も外に出られないはずなのに本物の自己という永遠の鎧兜をつけずに人生の戦に挑むのはあまりにも無謀なことですし、それで傷つくのはあまりにも悲しいことになるのではないのでしょうか。
本当の自分が全ての人にすでに与えられていて、それに気が付くキッカケが諸行無常のこの世の戦であるならば無常もきっと大事な仏様になってくるのかもしれません。
なんまんだ
目に見えない真実一如というゼロ空間のはたらきを空とか浄土とすれば、そのゼロのはたらきに包まれている全存在を確実に自覚し認識できるものが吾らの悟りや信心の中には必ず存在しなければならないはずである。
例えばアミダの機法一体が吾らに与える信心にゼロ存在が存在し、我らにその世界に向かわせる働きをなしていると見なければ真実一如に向かわない。
つまり、信心や悟りは我らをゼロの世界に向かわせなければ吾らの生死一如の根本問題の解決にはならないのであろう。
つまりこの迷いの扉を開けるカギは真実のはたらきという融通無碍の命をもって開扉しなければならないのである。
故に我らはこの信心の秘めたる鍵を手に入れて生きてゆかねばならぬ宿命を持った存在でもあるのである。
なんまんだ
頭を下げる。頭が下がる。どっちも同じに見える。
しかし、同じ頭なのに見える世界が全く違ってくるようです。
意識的にするのが私が頭を下げるで私が中心になっている世界。無意識にするのが仏に促されて私の頭が自然に下がる世界。
救われた世界は自然に仏に頭が下がる。救われない世界は私が仏に頭を下げている。
このように立った一字の違いだが「を」と「が」の違いは雲泥の差があるのだ。
東北では木の芽が成長し大きくなることを「おがる」という。昔から「を」が先で大切な「が」が後になっている。
東北の精神文化の深さがこんな小さな言葉にも秘められていたなんて、いまさらながら驚愕に値するばかりである。
なんまんだ
阿弥陀様に頭が下がったと言う事は、それまで下げさせずに意識的に形だけ下げていた自我意識というか煩悩という末那識が折れていなかったと言う事だ。
今まで生きてきた経験と努力意識が頭を仏に下げさせなかったツッパリ棒があったからだ。
それは一度折れてもまた無意識に頭を支え続けるばかりか、頭を人より上げさせてしまう大切なはたらきがあるからなのである。
それでは一度頭が下がったとしても無駄ではないかと言うが、そうではない。一度折れがついたツッパリ棒は、仏の教えに会えばすぐへなへなになるから安心なだけだ。
その棒は生きている間無くならないから大切にした方がいい。それも私が仏の教えを聞くために必要な大切な一部なのだから。
豚殿には申し訳ないが、豚という煩悩は何度木から落ちても、ほとぼりが冷めたころには懲りずにまた何度でも木に登りたがるものなのだから。
なんまんだ
「お母さんは極楽に行ったの、地獄に行ったの?」
浄土や地獄に行くとか、来たとか、見たとか、生まれるとか、聞くとか、地獄を持って極楽に生まれるとか。もうどうしようもなく人間の五感に訴えるので果たして本当に実体的なものがあるのだろうと思ってしまう。
人間が生まれる時は水生動物から陸生動物になる。それまで見るもの聞くものが母親に頼って間接的に得ていた世界が突如の断絶によって羊水から空気を吸い、その後は一人でその世界を選択して生きていくようなものだ。
浄土に行くとか生まれるというのは、みな自分自身が今まで全く気付かなかった宗教心に気が付いた世界を言うのであって、ことさら実体的な別世界に魂が生まれたり、入ったりすることを意味しないのだろう。
つまり、宗教心から見たこの世と自身の内的世界を現しているので、相対的な現実世界、目に見え触れること感じることが出来る実体的な世界を一端離れた、絶対的、永遠の世界というような無我無私の精神世界から見たものを表現しようとしたものなのであり、仏なる真実のはたらきに方向する仏の目や耳が凡夫に与えられ生の煩悩にそれらが付いた状態を現すものなのである。
だから、この世の言葉で表そうとすれば、どうしても二重構造をもった言語表現にならざるを得ないのである。
仏の智慧と慈悲を持ちながら、なお煩悩熾盛の凡夫を離れない人間として生きていく悲しくも有難い人間の限界を超えながらなお限界の中でそれを超えて限界に挑戦せよとの真実の叫びに呼応してゆく人間道の精神的な道程としての表現であり真理からの全ての命への願いでもあるのだ。
ただ我々には一生の間、煩悩凡情もあるので、それに訴えられると弱い側面もあるから、母親の行った極楽世界に行くのだ、浄土に生まれるのだ、でも正しい意味を知っていれば首肯されるのでしょう。
なんまんだ
一人の力で信心を獲たり覚ったりする人は誰一人としていない。「かれあればこれあり、これあればかれあり」の相互依存関係の因縁道理の因縁所生のはたらきが覚りの目覚める心を促して自覚に至らしめるものだと思うからある。
そうでなければ自然発生的にすべての人間がブッタとなれるはずであるからだ。
宗教心という信心の世界はそれ自体純粋な永遠世界と結びついているものなので、人間の心的環境を優先しているわけではない。
ブッダでさえ宗教的な因縁の道理が諸仏諸菩薩のはたらきに見守られながら悟りを発現し真理の道理に目覚めたのであって、初めには常に宗教心や悟りの心の方が優先しての自我意識が後で、それに気が付くと言う段取りになっているようなのである。
信心も悟りも今日では通途の如く等質のものとされて久しいが、目覚めた世界はブッダでも親鸞でも同じという意識は親鸞もすでに持っていたようである。
ただそれを深め理解し表現する能力は個々別々だ。
なんまんだ
アミダさんに救われた者は、言葉を変えると真理の道理や縁起の理法、ブッダと同じ悟りを得た者は、そこにとどまらずに、その答えを問として一生の間、得られた真理を深めて行く仕事が心に自然に沸き上がってくるようになっている。
自利利他とか自信教人信とかいう、人を愛し、許すとか、無罪の七施、和顔愛語、五戒を保つとかの一見ポジティブにみえる言葉に込められている根本にこれがないと本末転倒になってしまうのだろう。
所謂、菩提心とか、信心の根本に真理のはたらきがないと、綺麗ごとに聞こえるのはそのためである。正しい仏道を歩む根本にはこの仏の精神がなければいつでも手前味噌になって実践的に長続きや論理破綻を起こしてしまうのは、このためである。
例えば信心や悟りという宗教心が働いていればこそ初めて和顔愛語の困難さが分かり、逆に知らされながらもともに前に進むことが出来ることが出来ると言うものであろう。
一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、真理を持たずして真理の根本から出ているこの和顔愛語一つでもそれを実践すれば幸せになれるのだし語ることは誰でも容易にできるが、その実践を一生の間徹底できるかというと、当の本人でさえそれを知っているのである。しかもその味わいとなると一見努力次第で誰にでも実践可能のように見えるが本質的な困難さがあるため形式的な説教に終わるのはそのためである。
四諦八正道の実戦でも、いきなり因果の結果から始めても初めの原因を知っていなければ、いきなり二階にハシゴもなしに飛び上がってみる、というようなものである。二階に登るハシゴという因というか方法があって、はしごとは菩提心とか宗教心のことだが、これを持たずして二階で食事をしてみろ。悟ったり信心を獲たり世界を味わってみた結果を実践しろというようなものなのである。
二階にごちそうがあるが、その匂いを嗅いだだけでそれを食べたような気になって、美味いものがありますよと宣伝しているようなものなのである。食堂の前にある美味しそうな食品サンプルを見ただけで肝心の本人が食べたこともないのに美味いですよと喧伝しているのと一緒である。
だから、いつでも悟りや信心の本質の真理のはたらきを主体とするところに帰ってからが本物の仏道になるのであろうし、いつでも悟ってからの仏道こそが和顔愛語の実践になるのであろう。
そうでなければ、和顔愛語と言いながら日常では苦虫を潰したような顔になってしまうのである。
相対的で矛盾する根本的な自我意識を持ったまま、いつでも壊れゆく人間が普遍的な真理をいくら声高に叫んでも相対的な立場からは一歩も出られない我らには真理の上には永遠に立ち続けられないものなのであるからこそ、これを実践することは困難至極であるからこそ常にその根本に帰りながら一人一人がその道を歩むことが大切になってゆくのである。
それが自然に他者に伝わってゆく事が、自ら意識しなくとも笑顔が笑顔として自然に伝わってゆく事になるのであろう。真理は真理によって伝わると言う事だ。
しかも、和顔愛語の笑顔と愛語は仏様の笑顔と和語を本質とするのだから、仏さまが仏さまを目覚めさせ、仏様が仏様の微笑になってゆくと言う事なのだろう。
その純粋さが他人の命にも伝わり、広がってそれが本当の慈悲や智慧の実践となってくるのだろうと思うのです。
なんまんだ
人間が作った一人一人の信心は人それぞれ様々に深さも経験も質も違うから軽いものだ。
仏からもらう信心はみんなが救われるから重いものだ。
命あるすべての生き物たちにも届き、すべての人も救われるには個々別々でなく、それぞれにあっていながら時々刻々に変化しながら同質で平等な信心でなければならいなのだ。
だからこそ仏の信心はすべての人々が救われるようになっているし、そうでなければ仏から平等に賜る信心とは言えない。
これが全ての命を救う正しい方法になるのだと思う。
人間が個々別々に信じている信念はついに信心同士で差異を競うことになるから、仏との信心とは質も量も違うままになってしまうのだ。
だから本当の信心とは、ついに、仏様から貰うものしかこの世に無いと言う事になるのだ。
なんまんだ
宝物を探すアドベンチャー活劇いつもハラハラドキドキだ。
大抵は悪役と正義の主人公がいて、悪役はいつも人の手柄を横取りしたり、先回りをしたりして取ろうとするが、最後はまっすぐ困難な課題を解決していった主人公が宝物を手に入れている。
世の中はそうはいかないというが、そうでもあるまいと思う。
仏道でも宝物のような悟りや信心があるが、困難なそれを手に入れるのに近道や人のものを奪うわけにはいかないが、仏や神の言葉に素直に従っていけば誰でも得られるようなものなのだが、不思議と人間というものはいつの時代でも、身勝手な考えが優先して、自ら困難なものにしてしまうから件の宝物を手に入れるよりも自縄自縛に陥ってしまうのだろう。
100%の人間がそうしてしまうのが分かっていても真理の方が、素直に真理の勅命に従えと言っている意味は、そうはならないが、そうはならない意識を捨ててこそ、素直になれるからという但し書きを書いていてくれれば、誰でもそれを手に入れやすくなるのだが、事実は人それぞれがあっても、やはり真理の罠にはまってしまうのだから、余計に始末に負えないのだ。
それでもアミダの18願には親切に但し書きともいえる注意事項「唯除五逆」とあるから、ほかのご宗旨よりは幾分凡夫には懇切親切な仏様だと言う事が理解できるようにはなってはいるのである。
なんまんだ