善悪の彼岸。

 変わらぬ悪人や善人はどこにもいない。
 
 時と場所と善の縁が与えられた善人はこの世で善行が可能で、悪人は悪行をしてなんらかの裁きを受けた人。

 という意味と宗教的な意味では自分の力で絶対善の仏になるために既成の努力してゆく人という意味がある。

 悪人と言われた人が犬や猫に餌をやったら食べないか。花や木に水を遣ったら育たないか。心境や環境や社会状況が作り出しては消えてゆく、その時々の様々な状況によって作り出されてゆくのが悪人善人の定義なのではないのか。

 その時その時で人は変わってゆく人がいるだけだ。

 憎しみをもったまま死んでゆく人や、それを愛に変えてゆく人もあるように、悪人が善人に変わるように社会も悪人を社会状況やその人の心境の宗教的な変化をみて善人とするように。その時だけの状況だけで判断するのが人間だけど仏の永遠の眼で人間を見てみれば、人間全員、真理に背く極悪人と見たのがあみだ様なのかもしれません。
 
 親鸞は絶対善に向かうのに相対善で限りのある根本煩悩を持つ人間にそれは不可能であるとした。最初から絶対善のあみだの本願念仏に任せることが全ての人間の相対と絶対を超えたあみだには、全ての人間意識が作る善悪をこえた絶対の救いがあるというのである。

 それを実感できる人は絶対極悪の自覚が知らされたところにしか絶対善が作用しないという絶対矛盾世界が作り出している安心静寂世界が一人一人に与えられ、それが人間最後の認識になるのだと思います。

 なんまんだ。

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