頂きものを仏壇にあげてから頂く。これは、阿弥陀さんが全ての命の根源だからだ。
その永遠の命を再認識し、その自覚を深めるための宗教心を深化させ自覚させるための古代からの日本人の精神的な儀式なのだ。
ナムはナマスでお願いします。命を差し上げます。アミターは限りない。アーユスは命。
限りない命はどのような貰いものにも込められている。それに、ナマスという帰命が付けば、その命を尊敬しますとなる。
本来は、限りないアミダの方が、限りある私への頂き物の命になって、「われを食べよ、命ながらえよ、この世に縁のある限り、無限の命に光あれと伝えよと」言っているのだ。
だから、仏壇はアミダの命に帰ってわれを助けている本来の命の確認場所なのだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
ブッダの「弦の譬え」は、悟るためには苦行と快楽を避けよという事だ。これは世間と出家の二者択一の道ではなく、本来は善導大師の二河譬に基づく、日常生活の中の仏道であり、佛が作った白道と共に生きる本来の人間道になるのだ。
これは、100%純粋なアミダと100%純粋な浄土という、真実の世界への自覚道であり、ありのままなる自然の世界へ回帰してゆく私自身の真実への道行きなのだ。
だから弦の譬えは西に向かって念仏道を歩んで行く、本来の人間が最も持っている宗教心に目覚めたものが歩む、最も自然で最も本来の人らしい生き方を生きるという念仏道にもなるのだ。
直接条件である因の中に含まれている要素に縁という間接条件が加わって、結果という花が咲く。この一連の動かすことのできない見えないはたらきを縁他力という。
また、アミダの種子が私に花が咲き、無明の闇が初めて払われた時を本当の他力、純粋な因縁果のはたらきの目指すところのものを本物の弥陀の本願力、因他力と言うのである。
と昔聞いたことがある。
私が感ずるおかげ様なんてほとんど縁他力に違いない。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
親鸞の言う悪人とは、仏に救われてもなお、その無限の愛情を嫌って、限りある人間愛にしがみつこうとする私を指すのである。
世にいう、親孝行ができる善人とか、裁判で量刑が決められるような相対的な悪人ではない。
親鸞のいう善人は自らの相対的な努力意識で仏になろうとする人のことで、弥陀仏が私を仏にするという意思よりも自らの努力意識を大切にしようとする私の善人意識を言うのだ。
この自力意識は地獄まで持っていくしかないから、救われないままに、救うという本願におまかせするしかないものだ。
悪人と言われる私の心の構造が一生抜けないままに救われる。私の心に合わせたむじゅんしてくれてまで、本願が悲しみでゆがんだままで救うというねその悲しき本願がなければ人間はどこまでも救われぬ心の構造を持って動けないままだ。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
本能や、欲望を満足させたとき、良いご縁に恵まれましたと言う。縁は間接条件で、直接原因である種から芽を出す光や、水や、栄養のようなものなので、結果がその縁によって決まるときがあるのだ。
人間の言う「良いご縁」の中にはきっと都合の悪い縁もきっと入っているはずだ。その証拠に今はいいご縁と思って一緒になっても、その後の様々なご縁の中の何らかの悪い間接条件が集まってきて、その三分の一は別れるのだから。
だから、人間の考える縁などというものは、ご都合主義の借りものだ。
だからホントの縁は仏縁のように、私に都合がよくても悪くなっても、どちらになっても私にとってとても尊いご縁だったと言えなければ、本当に良いご縁を頂いたという事にはなるまい。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
阿弥陀さんは私を救うときに、私の愚痴を何でも聞いてくれた。私に心をすべて開け放ち自由な心でなんでも受け入れ聞いてくれた。
だから私はそれを本当に信じることができたので私も阿弥陀様のいう事を本当に聞くことができたのだ。
阿弥陀さんはいつでも、いつでも私のいう事を聞いてくれているのに、私の方の本当に自由になる心の準備ができていなかっただけなのだ。これは、誰に対しても、いつでもどこでもそうなのだ。
本当の聴聞なんて、本当はアミダ様だけにできる専売特許なんじゃないかと思う。
因縁仮和合で出来ているところに自我でとらえられる主体はない。しかし、ここに時空を超えた存在を結びつける不思議な因縁果の用きが起きて、私が成り立っているところに観えないが生きているアミダさまがいると思う。
現在の迷いは無方向性にある。今、みんなに愛されて生きている浄土へ方向づけられた時、未来への不安が光り輝く光となって現在の安心になり、過去への後悔が感謝に変わってゆく。
これで最後の不安と後悔を抱えたまま現在に生きてゆける私になることができる。
これで永遠の仏とともに生きて往けるようになった私と仏の共通の命が現在の時に安住できることができるようになる。これが「時は命なり」の本当の意味だと思う。
ナンマンダブツナンマンダ
台風も、青空もおなじ空模様。人間の力で地球環境や宇宙環境を変える力があるように錯覚するのは傲慢に近い考えではないのかと思うのです。科学文明のつけというわけではないが、自然の中に生きていると気づく生活にもとづく人間の自然な感情をまず育てることの方が大切だと思うのです。そうでないと、こっちが天国と地獄に分けて受け取るだけの生活や人間が育ってゆくだけだと思うのです。宇宙や地球の天気にとっては単なる自己実現を目指している一環にしかすぎないのだから、自然にもっと謙虚さと尊敬のまなざしを向けないといけないと思うのです。
ナンマンダブツ
ナンマンダ
獲信者はかわいそう、まるで暗い倉庫の片隅で
古い木の桶の中に長年漬けられた古漬だ
暗い、くさい、触りたくないような手触りで
時には白いカビまで浮いている。
こわごわ触ってみれば、くにゃくにゃしていて
掴みどころがありません
ところが皆さん、聞いて下さい、古漬けは
たった一度食べてみなんせ、一度だけ
見てくれと違って一度食べたら
とまらない、あーあ、やめられない
食前食中食後にも、癖になって
止まりませんぜ、古漬けは
それほど味がいいものなのに
世間様は見てくれだけで、つまはじき
それでもわかってくださるお人がいてさ
興味津々食べにくる、一口食べて
あー美味い、これこそ私が探し求めていた味だ、なんて
おべんちゃらでもありがたいよな、うれしいような
これがナンマンダブツでおめでたい
それでいいのだ、これでいいのだ
昔から、信心歓喜なんて人には見えない聞こえない
煩悩の雲霧に見え隠れする輝く星のよう
自内証の御救いだ、これでいいのだ
ナンマンダ
ナンマンダブツのナンマンダ